2021年3月11日木曜日

中田麦マリンバ・リサイタル――三善晃と一柳慧の音楽

昨日は「中田麦マリンバ・リサイタル――三善晃と一柳慧の音楽」(フェニックス・エヴォリューション・シリーズ)という演奏会を聴いてきた(於:ザ・フェニックスホール(大阪))。演目は次の通り(5曲めまでが独奏で、6曲めのみピアノとの二重奏):

 

三善晃:組曲「会話」(1962
三善晃:リップル(1999
三善晃:トルス1968


一柳慧:森の肖像(1983
一柳慧:源流(1989
一柳慧:パガニーニ・パーソナル マリンバとピアノのための(1982

 

まことに見事だった(自己紹介動画がある:https://www.youtube.com/watch?v=KsShuSastoc)。

 中田さんの演奏を初めて聴いたのは随分前のことで、当時彼は高校を卒業するところだった。たまたま聴きに行った演奏会に出演していたのだが、舞台に登場しただけですでに何か独特の「気」を放っており、演奏もそれを裏切らないものだったのである。そのときはそれっきりで、長らく中田さんの演奏を聴く機会はなかったが、近年、昨日話題にしたオンガージュ・サロンでご本人と知り合う機会を得て、以来、演奏会を心待ちにしていたわけだ(以下、敬称略)。

 演目は同じ1933年に日本に生まれた、そして、作風がおよそ異なる2人の優れた作曲家の作品で構成されている。西洋音楽の古典本流に根ざして現代的な表現を試みた三善晃、そして、逆にそうした「本流」のことは十分に心得てはいながらもそこから距離を取って実験的で自由な表現を試みた一柳慧の作品を彼らのおよそ半世紀後に生まれた中田がどう奏でたか? 一言でいえば、作曲当時の「新しい音楽」は十分に弾きこまれた「古典」のように響いたのである。

 三善の音楽には元々「古典的なもの」への傾きがあったわけだが、私がこれまで未聴だった3つの作品を聴き、いっそう強く感じられた(2曲めでは音は変幻自在に動き、途中にはかけ声が入るなどするものの、それでも音楽の「かたち」はしっかりとあり、最後には中心音のDに戻るのだから)。そして、そうした音楽を中田は見事に造形してみせる。音に瑞々しい生気を与えつつ。

なお、この演奏を聴きながら、マリンバという楽器――に限らず独奏楽器としての打楽器――が「古典」西洋音楽にとってはなかなかに扱いにくいものだと感じた。音の性質上、「歌」と「ポリフォニー」をはっきりとかたちづくるのが容易ではないからだ。もちろん、だからこそ作曲家、そして演奏家はいろいろと工夫を凝らすわけであり、事実、三善作品と中田の演奏には十分に説得力があったように思う。

 が、私個人としては、一柳作品の方がマリンバにいっそう適しているように感じ、面白かった。1曲めのどこか飄々とした感じ、そして、2曲めの途中から現れるある型の反復とその変形のありよう(さらには中田の技の冴え)など、初めて聴く作品だったが十分に楽しめた(一緒に聴きに行った家族もとりわけこの2曲めが気に入ったようだ)。3曲めは昔々に(今から40年近く前だ!)初演の録音を放送で聴いて以来のお気に入りであるが、実演に接したのは初めて。そして、この曲が持ついろいろな意味での「広さ」にただただ圧倒されるパフォーマンスだった(それには中田のパートナーの崔理英の演奏も大きく与っている。この2人が金澤攝さんの《果実の味の前奏曲》第2集を演奏したらどうなるだろう? 是非とも聴いてみたいものだ)。

 ところで、私が聴いていた座席は2階席。なので、演奏者のマリンバ鍵盤上での動きをはっきりと見ることができて、これがまた面白かった。のみならず、音楽のありようもそこから何かしら観て取ることができ、音だけで聴くよりも何割か増しで楽しめたと思う。中田の音楽づくりは「自然体」であり、過剰な「演出」は皆無なのだが、そのことは演奏動作からもよくわかる。

 ともあれ、刺激的な音楽を存分に楽しませてもらった。中田さん、崔さん、どうもありがとうございました。

 

 今日であの大惨事から10年になる。にもかかわらず、物心両面で復興からはほど遠い(「復興」五輪などたちの悪い冗談、半ば詐欺のようなものでしかなく、復興にはほとんど何の関係もないどころか、コロナ禍を拡げる危険さえある)。いったいどうすれば、こんな酷い状態から脱することができるだろう?