2021年3月12日金曜日

日本在住のあるロシア人の言語論

 たまたま見つけた動画で面白いものがあった。日本語を学び、日本で歌手をしているロシア人、アリシアさんが言葉の特性について実に達者な日本語であれこれ語っているもので、これが示唆に富んでいる:https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E

日本礼讃の部分はともかく(「隣の芝生は青い」)、言語や文化というものについて、この人が自分の体験や実感に基づいて語っていることは傾聴に値する。

 たとえば、アリシアさんが言うには、日本語のあいまいな表現、たとえば、「とりあえず」「いちおう」「そのうち」などといったものは「ロシア語には正確に翻訳できません。そういう発想が全然ロシアにはないからだと思います」。そして、続けてこうも言うのだ。「このあいまいさがずっと嫌いでした」と(その後、すかさず「今では結構好きです」とフォローすることも忘れていないのは、日本人の性格を理解しているという点でさすがである。が、ここでの「結構」という副詞が持つ微妙なニュアンスを聞き逃してはいけない)。これはおそらく、このアリシアさんに限らず、少なからぬ外国人が程度の差こそあれ、思っていることではないだろうか? 「日本人は本当のところ何を考えているのか、よくわからない」と。もちろん、これはお互い様で、平均的な日本人の感覚からすれば、外人は「ずけずけとものを言い過ぎる」ということになろうが、とにかく、思考様式や行動様式の違いが言語表現に現れているということである。

そして、ある言語を学ぶというのは、そうした様式をも体得することだとアリシアさんは言う(「日本語を学ぶということは、日本の精神に触れるということです。日本の精神にどっぷり浸かるということです」。この「日本語」は他のどの言語の場合にも当てはまるだろう)。そして、こうも指摘する。「私たちの心は、言葉でできている、[……]。私たちは、言葉を自分でコントロールして喋ってると思ってますが、[……]。言葉も、同時に、私たちをコントロールしているんです」。いや、まことにごもっとも(オーウェルの『1984年』で登場する「ニュー・スピーク」はこうした言葉の本質を悪用するものだ)。

 さて、同じことは音楽という「言語」についてもいえることだろう。日本人が西洋音楽を学ぶということは、たんに音を技術として使いこなし、その結果を享受することに留まらず、音楽が体現している精神を(良いところも悪いところもともに)学ぶということであるはずだ。そして、その意味で日本人はどれだけ西洋音楽を「モノにできている」のだろうか? 

(なお、私は必ずしも「日本(語)化された西洋音楽」に対して否定的ではない。むしろ、この国の中でのことに限っていえば、それはそれでかまわないとさえ考えている。 とはいえ、元の「西洋音楽」との違いははっきり認識しておくべきだとは思う。そして、その上で「日本化された西洋音楽」に留まるか、それともそれを脱しようとするかはその人の自由である。ただ、彼の地の人たちと同じ土俵に立とうとするならば音楽であれ、愛好家であれ、きちんとした「西洋音楽」の「言語」を身につける方がよかろう)