2025年6月22日日曜日

西洋音楽の作曲家の手になる「現代邦楽」曲への疑念

  NHK-FM「現代の音楽」で先週と今週、久保田晶子(薩摩琵琶)の「那由多の月」と題した演奏会を聴く。演目のほとんどは新旧の「現代邦楽」曲であり、最後に古典曲が取り上げられた。もっとも深い感動を持って聴けたのは最後の演目であり、「現代邦楽」曲はそれに比べれば今ひとつ面白くない(が、間宮芳生の《奥浄瑠璃「琵琶に磨臼」》と武満徹の《エクリプス》はそれなりに楽しかった)。その理由はおそらく、薩摩琵琶という楽器(ひいてはその背後にある音楽の「伝統」)を作曲者がうまくつかいこなせていないからであろう。多くの曲では薩摩琵琶の音はたんなる「素材」や「効果音」に留まるものであり、わざわざこの楽器を用いなくてもよいのではないかと思わされるものであった。もちろん、邦楽器のために新しい作品が書かれるのはまことにけっこうなことであるし、その中から名曲が生まれることへの期待は私にもある。が、たぶん、そうしたものは「伝統」をしかと身につけた邦楽器の演奏家自身が作曲した方がもっとよい結果を生むのではないだろうか。もちろん、西洋音楽の作曲家が邦楽器の作品に挑戦して悪いというのではない。が、その場合、自身がすでに西洋音楽で行っているのと同様に、当該楽器(やそれに類する楽器)の(「歌」を含む)演奏その音楽の伝統的な様式をある程度身につけてからにした方がよかろう。