2025年7月1日火曜日

メモ(147)

  西洋芸術音楽の流儀で日本語による歌曲を書く場合、(音高のみならずリズムの面でも)自然な旋律美を追究すると日本語の響きが少なからず損なわれてしまうし、かといって、日本語の特性を最大限に活かそうとすると「語り」のようなものになってしまい、旋律美を実現するのが難しくなる。

 かつての日本(語)歌曲作家の中には「旋律」と「語り」の狭間で悪戦苦闘する者がそれなりにいたようだが、今はどうなのだろう? 昨今の種々の歌曲集からは「旋律重視」の傾向が観て取られるが、もちろん、だからといってそれらの作曲者が日本語を軽視しているわけでもあるまい。