2024年5月19日日曜日

モートン・ローリゼン

  先ほどラジオをつけたら、何とも妙なる合唱の調べが聞こえてきた。現代の感覚からすれば何とも古式ゆかしき音調なのだが、さりとて本当に大昔の音楽だというわけでもない。「いったい誰の曲かなあ」と思いながら聴いていたら、演奏が終わり、作曲者と曲名が告げられた。それはモートン・ローリゼン(Morten Lauridsen, 1943-)の《薔薇の歌 Les Chansons des Roses》(1993)というものだった(ラジオとは異なる音源だが参考までにhttps://www.youtube.com/watch?v=4O5wuizenu8)。

私にとっては全く未知の作曲家と音楽だったが、NHK-FMの「ビバ! 合唱」という番組の今回の題名には「現代の人気作曲家」とある(https://www.nhk.jp/p/viva/rs/8P466QK189/episode/re/4VRWZXV6XG/)。この「人気」というのは合唱の世界でのことなのだろうが、他の作品も聴いてみると、なるほどそうした人気も十分頷ける。のみならず、自分も合唱に加わって歌ってみたら楽しいだろうなあと思った。

ところで、ふと気になって、Oxford Music Onlineで調べてみると項目があった(米国の作曲家なのだが名前の綴りからすれば北欧がルーツの人に思われたが、果たしてデンマーク系だった。なお、Morten Lauridsenという名はデンマーク語の発音では「ン・ウリトスン」(赤字が強勢)となるそうだ(https://www.sfs.osaka-u.ac.jp/user/danish/dictionary/det_hele.pdf)が、もちろん、米国の生まれ育ちなので英語読みすべきだろう)。しかし、それはこれほどの大きな辞典だからこそであって、タラスキンの浩瀚な音楽史本の20世紀後半の巻にもThe Cambridge History of Twentieth-Century Musicにもローリゼンの名は出てこない。まあ、これは仕方がないことではある。音楽の世界もまた広いということであり、そのすべてを1冊の本でカヴァーできるはずもないからだ。とはいえ、そうした「世界の広さ」に対して、1人の人が自分で「これが音楽だ」と思っている世界の「狭さ」は忘れるべきではなかろう。

 さて、上記ローリゼンの音楽はとてもよい感じだったので、件の番組は最後まで聴いてしまった。ところが、その後の番組「現代の音楽」(以前は長らく聴いていなかったのだが、最近はなるべく聴くようにしている)は残念ながらさに非ず。今回は「笙アンサンブル」の演奏会が取り上げられており、「これは面白そうだ」と思って聴きはじめたら、最初の作品があまりに馬鹿げたものだった(笙にわざわざ奏でさせるような類の音楽ではなかった)のでラジオのスイッチを切ってしまったのである。これは私の音楽世界の「狭さ」のゆえであろうが、決してそれだけではないとも思う。

2024年5月16日木曜日

キュビスム展へ

  今日は京都市京セラ美術館へ「パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展 美の革命」を観に行ってきた(https://cubisme.exhn.jp/)。前から楽しみにしていたのだが、まことに充実した内容で大満足。キュビスムの絵画や彫刻をずっと観ていると、何か異次元に迷い込んだような気がして面白い。

 そんなときに思い浮かぶのがストラヴィンスキーだ。既存の素材を解体し、妙な具合に変形し、再構成した彼のある時期の音楽はキュビスムの画面を彷彿させる。今日、数々の絵画や彫刻を眺める私の頭の中ではストラヴィンスキーの音楽があれこれ鳴り響いたのだった。

 それにしても、このキュビスムに限らず、ある時期までの芸術には少なからぬ人々を巻き込み、夢中にさせたムーヴメントがいろいろあったが、今はどうか。

2024年5月9日木曜日

「日本語的演奏」は本場で受け入れられることになるのか?

  先日、ピアニストの辻井伸行氏が日本人ピアニストとしてははじめてドイツ・グラモフォンと専属契約を結んだというニューズに接した。まことに喜ばしいことである。今後の海外でのさらなる活躍を祈りたい。

 とともに、私はもう1つ、別な関心を抱いている。辻井氏の演奏は典型的な「日本語的演奏」なのだが*、そうしたものが西洋芸術音楽の本場で(すでに活動している氏が)これまで以上に受け入れられていくことになるのか、あるいは、もしかしたらいずれ拒絶されることになるのかが大いに気になるのだ。もちろん、前者であって欲しいし、それは西洋芸術音楽にとっても長い目で見ればプラスになると思うのだが……。

 

*「日本語的演奏」については次を参照:https://www.jstage.jst.go.jp/article/daion/62/0/62_58/_article/-char/ja。また、その例として、辻井氏が弾くラフマニノフの第3協奏曲のある箇所(次の動画の4’20”以降:https://www.youtube.com/watch?v=VlsxkBSMO14)を、そして、比較対象として作曲者自身の演奏で同じ箇所(次の動画の4’03以降:https://www.youtube.com/watch?v=UKziGGumuEk)をあげておこう。これはどちらが「正しい」とか「正しくない」とか、あるいは、「よい」とか「悪い」とかいうことなのではなく、端的に異なっている。

2024年5月4日土曜日

NHK『みんなのうた』で

  先日、たまたまNHK-FMでお目当ての番組の合間にあった『みんなのうた』で次の曲を聴いた。曲も歌もすてきだ:https://www.youtube.com/watch?v=6wmgO3uJ3eg

2024年5月3日金曜日

別宮貞雄の失言?

  別宮貞雄(1922-2012)は作曲家であるとともになかなかの論客であった。そして、私はどちらかといえば、後者の点で別宮に敬服している(彼の音楽作品も嫌いではないが、今のところ深い感銘を受けるには到っていない)。彼の文章は常に明晰であり、強い説得力を持っているからだ。

 が、そんな別宮の言葉とは思えないようなものに出会って驚いたことがある。それは中丸美繪『鍵盤の天皇――井口基成とその血族』(中央公論新社、2022年)に納められたインタヴューの一節である。そこで別宮は「評論家というのは自分で音楽ができるわけではないし、本当のところたいしてわかっていない」(同書、437頁)と言うのだ。

  もちろん、作曲家・別宮貞雄がこう言いたくなる気持ちもわからぬではない。というのも、彼の作品は「現代音楽」全盛期に評論家から概ね冷遇されてきたからだ。しかしながら、それはそれとして、もし、音楽の専門家にしか本当にわからないような作品を自分が書いているのだとすれば、別宮はごく普通の聴き手のことをどう考えていたのか。 

いや、これは少しばかり意地が悪かった。おそらく、別宮には普通の聴き手のことを貶めるつもりは微塵もなかったろう。というのも、回想録『作曲生活40年 音楽に魅せられて』(音楽之友社、1995年)の中で、一般大学の学生が書く自作《有間皇子》への感想文について「中々立派な感想文があるのである。[……]専門の批評家も言ってくれなかった文藻にぶつかる」(同書、199頁)などと述べているからだ。つまり、別宮は普通の聴き手のことを決して低く見ているわけではないのだ。それゆえ、先にあげた「評論家というのは」云々の一節は、やはり評論家への積年の恨みが言わせた言葉だと解すべきだろう

だが、それはそれとして、実のところ、別宮が言うことには一片の真実が含まれているとも私は思う。すなわち、専門の音楽家とそうではない者の間では音楽の受け取り方は何かしら違ったものであらざるをえない、ということだ。ただし、それは前者の受け取り方が正しくて後者のそれが間違っている、などといった単純な話ではない。それに類することはこれまでにもこのブログの中で何度か述べてきた(し、拙著『演奏行為論』でも演奏というものに関して同様な問題に触れている)のだが、その本格的な展開を今年こそは『ミニマ・エスティカ』で行わねば……。