2026年10月3日土曜日

マイルズの繊細な抒情性

  マイルズ・デイヴィス(1926-91)のアルバム『マイルズ・アヘッド』(1957)を随分久しぶりに聴いてみた(https://www.youtube.com/watch?v=6eDH5x0k9XU&list=RD6eDH5x0k9XU&start_radio=1)。ギル・エヴァンズの名アレンジは何ともcoolで、そこにマイルズの繊細で抒情的なプレイが絡むさまは何とも美しい。私がマイルズの音楽を好む理由の1つはこの「繊細な抒情性」だが、それは後年の彼の音楽でも失われることがなかったように聞こえる。

 

 ふと気になって吉田秀和がセザール・フランクを論じた比較的若い頃の文章を読み直してみた。が、一読後、私にとって彼は完全に「日本の洋楽受容史上の登場人物」になってしまったことを(以前から薄々感じてはいたのだが、今回は今更ながらに)痛感させられる。今後、私が吉田の書物を繙くことがあるとすれば、歴史の一齣を見るための史料としてでしかありえまい。

2026年10月1日木曜日

メモ(164)

  普通の生活の中で伝統邦楽に自然に触れられる機会の多かった世代の作曲家と、そうではなかった世代の作曲家の「日本(語)歌曲(オペラ)」を比べてみたら面白いと思う。伝統邦楽は日本語に節付けする際の重要な参照点であるとともに大きな縛りでもあったろうが、それを強く意識せざるをえなかった世代と、そうではない世代の「歌曲(オペラ)」には何かしら違いが見つかるのではなかろうか。 

2026年9月29日火曜日

メモ(163)

  ピアノの発表会で取り上げられる「定番名曲」というものがある。が、その中に20世紀、とりわけその後半以降に生まれた作品はどの程度入っているのだろうか。日本人作曲者の手になる「子供(初級)向け」の作品が選ばれることはあるにしても、同じ作曲家の本格的な作品が取り上げられることはあまりないのではないか。ともあれ、一度調べてみれば面白かろう。

2026年9月28日月曜日

なかにし礼の味わい深い言葉

  作詞家・小説家のなかにし礼(1938-2020)はベートーヴェンの第9終楽章「歓喜の歌」の訳詞を手がけているが、その序文で次のように述べている(ということを、今読んでいる渡辺裕先生の本で遅ればせながら知った)。とても味わい深いものなので、長くなるが孫引きしよう:

 

日本語で歌うと音楽の純度がさがるという。ということは言語で歌えば純度がさがらないということらしいが、なあにさがらないと思っているのは本人だけで、日本人がドイツ語を発音した瞬間にドイツ語はこわれているのである。どうせこわれるなら、無茶苦茶にこわして、自分の血とし肉とし、そのあとで何かを作り出せばよさそうなものなのにそれをしない。いつからか日本人はそんな風になった。むかしはそうではなかった。浅草オペラ時代のあの出鱈目さ加減と、あのエネルギーを思いおこせばわかることなのだが、あれは大衆芸能の話で、純音楽には関係ないと済まし顔でいう。しかし誰が何と言おうと、あの浅草オペラ時代が、日本が最高に西洋音楽を吸収した時期であったことに間違いはない。そのエネルギーの源はなんであったのかと言うと、当然のことながら言葉なのだ。日本語という言葉なのだ。

音楽の純度という目くらましに目がくらんで、言葉をないがしろにしはじめて、日本のクラシック音楽は活力を失った。オペラ、オペレッタ、歌曲。会場は限られたファンや専門家の溜り場であって、一般大衆は入りたいとも思わない場所になった(なかにし礼・詩『歓喜の歌日本語版―ベートーヴェン作曲「交響曲」第九番合唱終曲』、ハンナ、2018年)。

 

「ファンや専門家/一般大衆」という線引きの仕方には些か異論がないではないが、ここで述べられていることは概ねはその通りだと私も思う(し、私自身、近年は演奏会場の雰囲気に気圧されて次第に足が遠のいている)。

 私は以前、このブログでシューベルトの《冬の旅》の歌詞を松本隆が訳したものを話題にした(https://kenmusica.blogspot.com/2020/03/blog-post_10.html)が、オペラなどについても昔のようにどんどん訳詞でやればよいと思っている(私自身、学部学生時代に歌の教授が主催する会による日本語上演に合唱隊の一員として参加したことがあるが、とても楽しかった:https://kenmusica.blogspot.com/2021/08/blog-post_8.html)。もちろん、そのことにより原曲の何かが失われるのは確かだが、なかにしが言うように原語でやったところで「こわれている」のだから、「無茶苦茶にこわして、自分の血とし肉とし、そのあとで何かを作り出せばよ」いわけだ。原語上演が悪いというわけではないし、それはそれでけっこうなことだとは想う。が、「それしかない!」という原理主義は「日本のクラシック音楽」の「活力」をなおいっそう削ぐことになるに違いない。

2026年9月26日土曜日

〈ロボット三等兵の歌〉

  渡辺裕先生の『パロディにもほどがある!――〈替え歌〉文化の日本近代』(春秋社、2026年)を目下、とても楽しく読んでいる。そこで展開されている「論」はもちろん、そのためにあげられている具体例がまことに面白い。とともに、自分がこれまでに出会ってきた種々の替え歌を懐かしく思い起こしている。

 その中の1つに、前谷惟光(1917-74。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E8%B0%B7%E6%83%9F%E5%85%89)の名作漫画『ロボット三等兵』に収められていた〈ロボット三等兵の歌〉(という題名だったと記憶しているもの)がある。「歌」といってもそこに記されていたのは歌詞のみであり、〈天に代わりて不義を討つ〉の旋律を用いるよう指示されていた(なお、今回調べたところによると、この曲名は通称で、正式には〈日本陸軍〉が正しいそうだ:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%99%B8%E8%BB%8D_(%E8%BB%8D%E6%AD%8C)。私がこの漫画を貸本屋(!)で借りて読んだのは昭和40年代の終わり頃のことであり、当時の私がそんな歌のことは知るはずもない。そこで同居していた父方の祖母に(なぜかそのときは)弟が尋ねたところ、すぐにそれを歌ってくれ、弟もすぐに替え歌の歌詞でそれを歌ってみせた。その結果、この旋律はしかと私の脳裏に刻み込まれたのである。ただし、替え歌の歌詞とともに。

 その歌詞のすべてを覚えているわけではないが、たとえば上のリンク先にあげられている楽譜でいえば、「ちゅうゆうむそうのわがへいは/かんこのこえにおくられて」とあるところは「朝の三時に起こされて/大根切る手の冷たさよ」であり、最後の「ちかうこころのいさましさ」は「僕はロボット三等兵」となっていたはずだ。ともあれ、私にとっては件の旋律とともに浮かぶのはこの替え歌の歌詞の方であり、それはもはや変えようがない。この旋律は私にとっては軍歌のものではなく、旧日本軍の不条理を笑いのめした漫画の挿入歌のものとしてこれからもあり続けることになるのだろう。

2026年9月24日木曜日

エルネスト・アルフテルのギター協奏曲に魅せられる

  昨日たまたま選んだCDに収められていたエルネスト・アルフテル(1905-89)のギター協奏曲(1969 )(https://www.youtube.com/watch?v=hBtKk7YzMpY&list=RDhBtKk7YzMpY&start_radio=1)にぐっと心を掴まれた。このCDはこれまでに何度も聴いていたにも拘わらず、私の注意・関心は他の曲に向いており、今回、あたかも初めて聴くような感じがした。が、却ってそれがよかったのかもしれない。素直に音楽のありように耳を傾けることができ、その魅力に気づかされたのである。

 ところで、このアルフテルだが、私は彼の名を「ファリャの門弟」として認識していた。彼こそが師の未完の大作《アトランティーダ》を補筆完成した人であり、それを私も聴いてはいるが、私の関心はなぜか当人の作品へは向かわなかったのである。が、今回ギター協奏曲のすばらしさを知り、もっとこの人の曲を聴いてみたいと思った。彼に限らずスペインの音楽にはイタリアまでの西洋音楽にはないテイスト(おそらく、イスラーム世界との交流がもたらしたもの)が感じられ、それがまたよい。

 なお、このエルネストの兄ロドルフォ(1900-87)も作曲家であり、こちらも私にとっては未知の存在だったのだが、これを機会に聴いてみることにしよう。また、この兄弟の甥クリストバル(1930-2021)もまた作曲家であり、その作品にはいくつか触れてはいたものの、やはりこれまで私の関心外であった。が、改めてYou Tubeでいくつか聴いてみるとなかなか面白い。となると、俄に関心がわいてくる。彼の息子ペドロ(1971-)も作曲家(と指揮者)だというから、こちらも気になるところだ。

2026年9月22日火曜日

Noteを利用し始めた

  ホームページをつくる計画はいまだに実現していないが、それまでの繋ぎとして、自分の論考や翻訳をNoteに載せることにした。今日はその第1回として「松本民之助研究ノート(1)」を投稿した(https://note.com/ken_musica1966/n/nfa2c23ee3a50)。これ以外にもいくつかのネタを同時並行して書いていくつもりだが、果たしてどうなることやら。

2026年9月20日日曜日

長谷川潔展を観て

  所用(仕事に非ず)で東京に夫婦で出かけてきた。一泊二日の濃密かつ有意義な時間だったが、その中に版画家・長谷川潔(1891-1980)の展覧会を観ることも含まれていた(https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/26/260711/)。すばらしかった。以前から「気になる」人だったが、時系列で多くの作品に触れたのは今回がはじめてである。

この長谷川もまさに「我が道」をひたすら追究し続けた人だということが展示された作品からはわかる。彼が到達した全く独自の境地はもちろんすばらしいものだったが、そこに到る過程も実に興味深い。長谷川の創作歴それ自体が1つのドラマであり、作品であるように感じられ、まことに見応えのある展覧会だった。

 この長谷川の作品にも私は先日のワイエス同様「静けさ」を強く感じた(もちろん、その内実は異なるが)。のみならず、一見「冷たい」画面の中にもどこか飄々としたユーモアのようなものも感じられ、それがまたよかった。ともあれ、本当によい作品に触れることができ、日々を生きる活力を与えられた。ありがたいことである。それがどんなスタイルであれ、どのような内容であれ、また、どの程度であれ、それに触れることによって「元気になれる」ものが私にとってはよい芸術だと言える。そして、人生の残りの時間(がどれだけあるかは正確なところはわからないにしても、この年齢になれば、少なさを感じずにはいられないもの)を思えば、そうした「よい」芸術以外の芸術は自分には不要である。

2026年9月18日金曜日

渡辺裕先生の新著

  渡辺裕先生から新著をお贈りいただいた。ありがたいことである。先生の著書は常に刺激的なのだが、今回は書名からしてそうだった。『パロディにもほどがある!』というのがそれだ(https://www.shunjusha.co.jp/book/b10193846.html)。この書名を見て驚かされるものの、副題を見るとなるほどと得心がいく。それはすなわち、「〈替え歌〉文化の日本近代」というものである。それにしても、次々と面白いネタを掘り出してくる先生の眼力にはただただ感嘆させられる。のみならず、常にそれを見事に捌いてみせてきたのだから、今回もまたそうなのだろう。というわけで、これから読むのが楽しみだ。

 

 うれしいことにISMLPにダリウス・ミヨーの弦楽四重奏曲の楽譜がすべてアップされた。とりわけ、第12番はずっと見てみたかったのでありがたい。

 また、このサイトには音楽理論関連の著作・楽譜もいろいろアップされていっているが、先日、パリ音楽院の和声コンクール第1等賞受賞(つまり、卒業試験合格)者の答案集があげられていたのには驚く。これはある時期、年ごとに出版されていたもので、今回あげられていたのは1925年のものである(https://imslp.org/wiki/Le%C3%A7ons_d'harmonie_des_%C3%A9l%C3%A8ves_ayant_remport%C3%A9_le_Premier_Prix_aux_Concours_des_Classes_d'Harmonie%2C_Ann%C3%A9e_1925_(Various))。この調子でいずれ他の年のものもアップされるのだろうか? 

2026年9月17日木曜日

ちょっとしたアイディア

  西洋芸術音楽の作曲のコンクールで審査員を務めるのは普通、(概ね「現代音楽」の)作曲家である。もちろん、それが悪いというわけではない。が、審査を演奏家と聴き手に任せるようなものがあってもよいのではなかろうか。

たとえば、独奏ピアノ曲を課題とする場合、提出された作品をまず多くのピアニストによって事前審査する。その場合、「自分が喜んで弾いてみたいと思う作品」という観点から選んでもらう。次いで、そこで選ばれたいくつかの作品を本選の演奏会で取り上げ、その場に居合わせた聴衆のみならず、その演奏をインターネットで同時配信し、やはり「自分がもう一度喜んで聴いてみたいと思う作品」という観点から投票してもらう。このようにすれば、業界人以外には「ほとんど誰も喜ばない」ような作品が選ばれることはなくなるだろうし、選ばれた作品がレパートリーとして定着する可能性も出てこよう。もちろん、実際にこうしたコンクールを行うにはいろいろと解決しなければならない問題はあろうが、それでもやってみる価値はあると思う。

 

2026年9月15日火曜日

松村禎三《管弦楽のための前奏曲》の新旧の録音

  松村禎三の名曲《管弦楽のための前奏曲》(1968)を同じ指揮者、岩城宏之による新旧の録音で聴き比べてみた。新(https://www.youtube.com/watch?v=3fLwMcsIx0o&list=RD3fLwMcsIx0o&start_radio=1)は1992年、旧(https://www.youtube.com/watch?v=aEcBkk2p1_s&list=OLAK5uy_mgBXXAa3X0FDDyxip4PBlcGPW4vJXXWuk&index=1)は1970年の演奏・録音である。後者は作曲年に近い時期のものであり、前者はほぼ四半世紀後の演奏だが、随分感じが異なる。私は旧の演奏の方を好む。それに対して新の方からはどこか焦点がぼやけてた、冗長な感じを受ける(この曲の場合に限らず、ある時期以降の岩城指揮の演奏は総じてそのようなものに聞こえる。他方、若い頃の録音は現代作品の魅力をしっかり味わわせてくれる)。もっとも、これはあくまでも私の感じ方。新の方を「円熟」と聴く人もいるのかもしれない。

 

 さとうさおり氏は結局辞職することとなった。残念だが、自分の身を守るためにはそうせざるを得なかったのだろう。今までご苦労さまでした。そして、別の場面での今後の活躍に期待しています。

 それにしても、こんなことになるなんて、全く世も末である。この一連の件について若者の感想を聞いてみたいものだ。

2026年9月13日日曜日

ローレン・ラッシュも亡くなっていた

  前回に続いて「あの人は今(生きているのかな)?」と気になり、米国の作曲家、ローレン・ラッシュについて調べてみたところ、こちらも今年の2月に亡くなっていた。1935年の8月生まれなので、90歳だったということになる。

 このラッシュの名は日本ではほとんど知られていないが、なかなか魅力的な作品を書く人だった(もっとも私が知っているのも半世紀以上前の作品である)。追悼の意味で《dans le Sable》を久しぶりに聴く((https://www.youtube.com/watch?v=DQhQ0xqBGhw&list=RDDQhQ0xqBGhw&start_radio=1)。やはり名曲である。

2026年9月11日金曜日

ヴァーシャーリ・タマーシュが亡くなっていた

  時々、「あの人は今(生きているのかな)」?」と気になる。そこで今日はピアニストのヴァーシャーリ・タマーシュ(ハンガリー人なので名は「姓・名」の順)のことを調べてみると、果たして今年の2月に亡くなっていた。1933年8月生まれなので、92歳だったことになる。また一人、往年の名ピアニスト(たとえば次の演奏などどうだろうか:https://www.youtube.com/watch?v=RRl_O5LZhig&list=RDRRl_O5LZhig&start_radio=1)が世を去った。寂しいことだが、その分、現役のピアニストの活躍に期待しよう。

2026年9月9日水曜日

メモ(162)

  丸山眞男(1914-96)が熱烈な音楽愛好家だったのはよく知られたことであるが、その程度が半端ではなかったことは、中野雄『丸山眞男 音楽の対話』(文春新書、1999年)を読むとよくわかる。

 その丸山の音楽観や音楽論それ自体には今日さほど意味があるわけではないが、次の2つの点で分析、考察に値するものであろう。すなわち、①「丸山眞男」という人の考え方や感じ方を知り、理解する上での資料として ②日本の西洋音楽受容のある時期における1つの典型例として――この2点である。私は後者に興味がないではないが、それを追究する気力も時間もない。面白い研究になるはずだから、誰かやってくれないかなあ。

2026年9月7日月曜日

杉山哲雄先生のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会シリーズ

  杉山哲雄先生からリサイタルのご案内をいただいた。ベートーヴェンが来年没後200年を迎えるにあたり、ピアノ・ソナタ全曲の演奏会シリーズを先生は行っているのだが(https://www.shin-en.jp/schedule20251002/)、今回お知らせいただいたのは「シリーズⅢ 傑作の森(全2回)」(曲目については上のリンク先を参照のこと)。大好きな「田園」ソナタも含まれているので聴いてみたいところなのだが、いかんせん東京は遠い(涙)。だが、来年の最終回、最後の3つのソナタは何としても聴きに行くつもりだ。

先生には横浜国立大学大学院在学中にピアノを教わった(今から35年前!)。私のピアノの腕は先生から本当の意味で教わるには全く不十分だったが、それでもやはり何かを教えていただいた(のみならず、70代後半になっても音楽家として自己のアップディトを怠らない先生のありようは、今なお私に何かを教え続けてくれている)と思っており、恩師の1人だと断言できる。その先生が現在どのようなベートーヴェンを奏でるのかに深い興味を関心を持たずにはいられない。

2026年9月5日土曜日

往年の「現代音楽」作品に魅せられる

  急に昔の日本の「現代音楽」が聴きたくなり、手持ちのCDを取り出してきた。松村禎三(1929-2007)、間宮邦生(1929-2024)、篠原眞(1931-2024)などの作品を久しぶりに触れてみたのだが、どれも皆、すばらしい。何気なく聴き始めたところ、すぐに音楽に引き込まれてしまい、耳が離せなくなった。昨今の「現代音楽」作品では残念ながらこうしたことはない。

 さて、その理由として考えられるのは、

 

①昨今の「現代音楽」作品の質が下がった。

②聴き手たる私の判断力が昨今の音楽に追いついていない。

③「現代音楽」というものがもはや時代に合わないものとなった。

④たんに私の趣味の問題。

 

といったことであろうか。

まず、①だが、たぶん、これはなかろう。少なくとも今世紀になってから私が耳にした新作はいずれも「よく書けている」ように思われるからだ。

次の②だが、そうした可能性を完全に否定することはできない(が、「無理に追いつかなくてもよいではないか」とも私は思っている。もちろん、自分の聴き方のイノヴェィションを怠るつもりはないが、それは流行に追いつく/追いつかないとは別の次元でなされるものである)。

続く③だが、私はこの点を強く感じている。先にあげた作曲家たちの作品は1950~70年代につくられたものだったが、それらを私は「過去の音楽」として聴いている。そして、その「過去」と作品のありように親和性を覚える。言い換えれば、「時代の表現」としての説得力を感じたのである。その点、昨今の「現代音楽」作品に対してそうした説得力を感じることはあまりない。それはすなわち、「時代の表現」としてはもっとふさわしいものが他にあるように感じられるということだ。

そして、最後の④だが、これは少なからずあると思う。上の③にしたところで、突き詰めればそれは私個人の感じ方の問題だと言えよう。とはいえ、作品に向き合うのは個人であり、世間(斯界)の評価など関係ない。要はその作品が自分の「胸に響く」かどうかが肝心なのだから。そして、それだけに、昨今の新作でそうしたものに出会いたいと心底思っている。そして、「現代音楽」の作曲家たちには、そうした音楽に否定的な聴き手をも魅了するような作品を書いて欲しいものだし、そうした作品が現れることへの期待を私は常に持ち続けているつもりだ。

 

 東京都議のさとうさおり氏が議員辞職を撤回したとのこと。喜ばしいことである。氏は親しい人に何かがあったり、自身も脅迫されたりしたとのことだが、とんでもないことだ。選挙できちんと選出された議員の活動が暴力的な手段で妨げられることなどあってはならない(それはさとう氏だけのことではなく、彼女に敵対する議員であっても同様)。議員には己の信条に従って存分に活動してもらいたいものであるし、さればこそ、投票する側としても一票を投じる意義があるというものだ。

2026年9月3日木曜日

静けさと厳しさと――アンドリュー・ワイエス展を観て

  今日はアンドリュー・ワイエス(1917-2009)の展覧会を観てきた(https://wyeth2026.jp/)。すばらしかった。ワイエスは米国の画家で、前世紀半ばに前衛美術が斯界を席巻していたときに、我が道を行き――具象的な表現――を続けた人である。実はこのワイエスのことはほとんど知らなかったのだが、今回、幸いにもその作品に触れる機会を得た(なお、以下に述べるのはあくまでも私個人の実感にすぎず、それに異論を持つ人も当然いることだろう)。

 まず胸を打たれたのは「ぶれのなさ」である。周りがどうであろうと、ワイエスは自分でこうと決めた道を行き、とことんそれを追究している。20世紀、とりわけその後半には次々と新技法が現れては消えて行ったわけだが、その中で少なからぬ画家はいとも身軽に路線変更を行い、「新しさ」を求めていった。が、ワイエスはそうではなく、「よりよい」表現を求め続けたようだ。とはいえ、それは決して己の作風に固執してその枠内で技術の深化を図ったものではない。自分の持ち味をどう活かすかを真剣に考え、虚心坦懐に描き続けたに違いない。

 ワイエスの数々の作品を目にし、そのいずれにも共通して受けた印象がある。それは「静けさ」だ。そこには「新しさ」や「独創性」を誇示しようとの「欲」は一切感じられない。彼が描き出そうとしているのはその内なる世界であり、それがしかるべき「強さ」と「厳しさ」をもってなされている。画面からは精神の余計な雑音が一切排除されており、そのために表現はまことに直截的なものになっているように私には感じられ、深い感動を味わった。

 そうしたワイエスの絵と好対照をなすのが、同じ美術館でなされていた昨今の「モダン・アート」の展示だ。ワイエスの作品は何の解説がなくとも観る者に強く何かを訴えかけてくるのに対して、今日観たモダン・アート作品はそうではない。作者自身の手で何やらもっともらしい解説が付けられているのでそれに沿って作品を観てみるのだが、一向にピンとこない。まして、解説がなければさっぱりわからない。こう言うと、「ワイエスの表現が具象的だからわかりやすいのであって、それとは異なる表現のものを同じ土俵で論じるのはいかがなものか」と反論されるかもしれない。が、問題はそんなところにあるのではない。具象的な表現による作品でもつまらないものは掃いて捨てるほどあるし、逆にモダン・アート作品でも有無を言わさずに迫ってくるものもあるのだから。表現方法の違いを超えて作品が観る者に訴えかける力――その大小の違いを私は問題にしているのであり、その点で昨今の少なからぬモダン・アート作品はワイエス作品には遙かに及ばないように私には思われてならない。

 そして、同じようなことを私は音楽の分野でも強く感じている。すなわち、昨今の「現代音楽」作品は私の心の琴線をほとんど震わせてくれない、と。そして、そのことを私はとても残念に思っている。今の時代にふさわしい音楽表現に触れ、心の底から感動したいのに……。それにはもちろん、聴き手たる私の側にも何か問題があるのであろう。が、決してそれだけではあるまい。

 おっと、ワイエス展の感想からかなり話がずれてしまった。が、今述べたような問題を改めて私に突きつけてくれるほどに彼の絵画は刺激的であった。

2026年9月1日火曜日

青い橋?

  ちょっとしたきっかけがあり、増山実『今夜、喫茶マチカネで』(集英社、2024年)を読む。私が学生時代を含めて14 年ほど暮らした界隈が舞台になっている小説であり、随所に懐かしい光景が現れる反面、知らなかったこともいろいろあり、とても楽しかった。もちろん、「小説」なので虚実入り乱れているわけだが、そこがまたよい(驚くべきことに、私が在籍した学科のことさえ話題として登場する)。

 物語の舞台となる街の駅名は「待兼山」で、商店街の外れにある橋が「青い橋」となっていたが、それは実際のものとは異なる。「まあ、小説だからなあ」と納得しながら読み進めていたのだが、最後の第七話になって、実際の駅名「石橋」(現在は「石橋阪大前」)と「赤い橋」が登場するのだ。しかも、その理由がすごい。実はパラレル・ワールドの話だったのである。それまで「人情話」として読み進めていただけに、これには驚いた(そういえば、この作品の前に読んだ『勇者たちへの伝言――いつの日か来た道』ではタイム・スリップが物語で重要な役割を果たしていた)。

 ところで、この『今夜、喫茶マチカネで』の中にとてもよい一節があった。第六話「風をあつめて」に登場する人物の台詞である:

 

一人一人が、自分にできることをやっていくしかないんや。自分ができることで、少しは人に喜ばれるようなことを、それぞれが突き詰めていくしかない。そうしたら、その未来が、今より悪うなるはずはない(同書、215頁)。

 

全く同感である(ちなみに、章名にある「風をあつめて」ははっぴいえんどの楽曲に由来する。今回初めて知ったのだが、よい曲だ:https://www.youtube.com/watch?v=PfFEPtJE0D4&list=RDPfFEPtJE0D4&start_radio=1)。

2026年8月30日日曜日

コンタルスキー兄弟の懐かしのディスク

  ドイツ・グラモフォンから出ているコンタルスキー兄弟のCDボックスはまことに聴き応えのあるもので、全18枚のどれもが貴重な記録である。その中で私がとりわけ好むものが何枚かあり、その1つがリゲティとB. A. ツィマーマンの作品を収めたものだ(次にあげるのはその一部):

https://www.youtube.com/watch?v=zYVCpHHxBlk&list=RDzYVCpHHxBlk&start_radio=1

 

私がこのディスクに初めて出会ったのは中学生の頃で、当時はもちろんLPだった。当時よく利用していた金沢市立図書館にはレコードを聴けるコーナーがあり、そこになぜかこのような一般受けしない現代音楽のLPが収められていたのである。その頃はまだリゲティとツィマーマンのことなどほとんど知らず、ジャケットがちょっと面白かったので聴いてみたのである。そのときには正直なところあまりぴんとこず、「ああ、こんな音楽もあるんだなあ」くらいのことしか思わなかった。

とはいえ、その後、「現代音楽」に本格的に熱中し、わけてもツィマーマンの音楽は熱愛するに到ったし、リゲティの音楽も好きになった。そして、今、件の録音を(CDで)聴き直してみても、実に楽しい。のみならず、今から40年以上前のことを思いだしもする。それだけ自分が歳を取ったということであろうか。その間に音楽の世界は随分様変わりしてしまったことだなあ。

 

 世の中がこれだけ変わっていっているのに、旧態依然のところもある。そこに風穴を開けようと孤軍奮闘していた政治家の1人が東京都議のさとうさおり氏だが、やむを得ない事情があるらしく、辞職することになってしまった。本当に残念。だが、短い間だとはいえ、よくもあそこまで議会で問題を追及したものだ。それを讃えるとともに、別のかたちでの再起を期待したい。

2026年8月28日金曜日

メタ文楽?

  一昨日、京都で三谷幸喜・作『人形ぎらい』を妻とともに観てきた。これは普通の演劇ではなく、文楽のフォーマット(すなわち、人形、太夫、三味線)を借りて行われる劇である(それは「三谷文楽」と銘打たれている(https://stage.parco.jp/program/ningyogirai2026。近年文楽に魅せられている者として、これは見逃せないと思い出かけたが、期待をはるかに上回る面白さであった。

 作品の概要については(文面をコピーできないので)上のリンク先をごらんいただきたいが、全編抱腹絶倒で、「よくもまあ、こんな話を考えつくものだなあ」と作者の才にはただただ感嘆するばかり。

 他方、こうした話(「文楽についての文楽(メタ文楽)」だとも言えるもの)をもごく自然にこなす文楽の演者(太夫、三味線、人形遣い)の技にも唸らされる。彼らは伝統芸能の担い手であるだけではなく、文楽というフォーマットによる現代の物語の優れた演者でもあるのだと(先日文楽劇場で観た「まちの灯」に続いて)強く感じさせられた。

 そうした劇とその上演の見事さに加え、「演劇」と「文楽」のすばらしい「コラボ」ぶりにも感銘を受けた。どんなジャンルの芸能であれ、時にはこうした「異業種交流」は有益だろうが、それは「言うは易く行うは難し」である。「いちおうやってみました」といった水準で終わる場合や無謀なものが少なくないのだが、今回の『人形ぎらい』はそうではなかった。この点でも作者と演者を心から讃えたい。

2026年8月26日水曜日

「怖い」先生

  先日「これは驚き」という記事で話題にした「大先生」は「怖い先生」ということで有名な人だったそうだ。昔はそうした「先生」が少なくなかったようで、怒鳴り散らすのみならず、物を投げつけたり、手を上げたりするなど、「厳格さ」とは全く別の意味でも怖い先生がいろいろいたようである。

そうした「先生」たちは指導に熱が入るあまり、ついついそのように「怖く」なってしまったのだろう。だが、それは精神面・身体面での「暴力」以外の何ものでもなく、現在ならば決して許されるものではあるまい。普通の学校教育の場などであれば、緊急事態に際して教師の「怖さ」が意味を持つことはありうるが、音楽の専門教育の場で教師がわざわざ暴力的な怖さを発揮する必要がどこにあったというのだろう?

ところが、昨今そうした昔の「怖い」先生のことが再評価されつつあるようだ(たとえば、井口成基)。もちろん、彼らが日本の洋楽受容で果たした役割の大きさは大いに賞賛されるべきだろう。が、そうした「功」とともに「罪」の大きさについても冷静に検証されてしかるべきなのに(その際、種々の脈絡を無視して単純に今日の視点から過去を断罪しないように気をつける必要はあるが……)、そうはなっていない。ということは、今でも程度や規模こそ異なりはしても、同じような「先生」が再生産され続けているのかもしれない。児童虐待を受けた子供がのちに虐待する親になるのと同様に(調べてみると、件の「大先生」の先生もやはり「怖い」先生として恐れられた人であった)。現在は昔のようなあからさまに暴力的に「怖い」先生は減ったかもしれないが、その変種たる「理不尽な」先生はあれこれいるようだ。もちろん、そんな先生ばかりではなく、厳格でありながらも人間として魅力的なすばらしい先生も少なからずいるのは確かだが(事実、私が習ったピアノの先生は最初の1人をのぞき、皆、よい先生たちであったし、私が直接知っている先生方にも「怖い」人や「理不尽な」人はいない)。

日本の西洋音楽受容研究において、「怖い先生」というのは1つの面白い主題であろう。そうした教師のスタイルが何に由来し、どのようにして受け継がれ、どのような結果をもたらしたのかを冷静に検証することは、現在の西洋音楽実践にとっても意義を持つに違いない。

2026年8月24日月曜日

シベリウスもまた

  今朝、いつものようにFM放送を聴くと、すぐには曲名のわからない管弦楽曲が流れていた。そこで30秒ほど聴いていると、「ははあ、これはシベリウスっぽいなあ」と思ったが、果たしてそうだった。彼の交響曲以外の管弦楽曲は2、3を除き、聴いたことはあるにしても頭に入っていないのだが、むしろそのために新鮮な気分で楽しめた。

 その作品は《レンミンカイネン組曲》(別名《4つの伝説曲》)作品22(1893-95)。交響曲以前の作品だが、すでにシベリウスの個性が十分に発揮されており、実に面白い。それゆえ、また聴き直してみたいと思ったが、幸いCDは持っているので、これからそうすることにしよう。

 今朝はそれ以外にも第6交響曲も取り上げられていたが、まことにすばらしい音楽である。それを聴きながらふと思ったことがある。すなわち、ドビュッシーとはかなり異なる流儀ではあるが、シベリウスの音楽でもまた「旋律性」と「音響性」が重なり合っている、ということだ(ちなみに、ドビュッシーは1862年、シベリウスは1865年の生まれで全くの同世代である)。そして、この個性は先にあげた《レンミンカイネン組曲》の段階ですでに現れており、第6交響曲などの時期には全く独自の境地に到っているわけだ。ともあれ、もう少し涼しくなったら、シベリウスの音楽をいろいろ聴き直してみよう。

2026年8月22日土曜日

イラン・パペ『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』に蒙を啓かれる

  ご近所図書館でたまたま目に留まったイラン・パペ『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』(早尾貴紀・監訳、河出新書、2025年)を読み、蒙を啓かれる思いがした。同書の著者はユダヤ系イスラエル人なのだが、書名にある問題について冷静かつ客観的な立場から論じ、この問題でイスラエル(シオニスト)が行ってきた(のみならず、現に行い続けている)不正(さらには、彼らを直接・間接に手助けしてきた諸外国の罪)を実証的に描き出している。イスラエルの問題性は自分なりに理解していたつもりだが、恥ずかしながら同書を読むまで、ここまで酷いとは知らなかった。

同書の「監訳者解説」によれば、著者は2006年に『パレスチナの民族浄化』(邦訳あり)という書を著しており、それもまさにイスラエルの悪を剔抉する内容のものなのだが、そのために母国イスラエルに居づらくなって国外に移住せざるを得なくなった(行く先は英国。つまり、自国の権益のためにイスラエル建国に道を開いた国)とのことである。そして、それ以降もパレスチナ問題をさまざまな角度から論じており、その精髄が『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』だという。なぜ、著者はそこまでこの問題を追及するのか? それはやはり、母国の行ってきた(そして、現に行い続けている)不正を改めさせたいとの思いがあるからであり、その根底にあるのは真の意味での同胞愛であろう。だからこそ、同書をこう締めくくるのだ:

 

みずからの過去をありのまま受け入れ、地理的に隣り合わせの国々との近似性を受け入れてはじめて、イスラエルは歴史的パレスチナと中東全体のためのよりよい未来を築く一翼を担えるようになる。生きているうちにその日を迎えたい。それがわたしたちの願いだ(同書、186頁)。

 

 その実現には 当事者のみならず、「パレスチナでのイスラエルの暴力が容認される国際社会」(同書、「監訳者解説」、199頁)もまた変わっていく必要がある(同書の監訳者はそうした「国際社会」のありように「日本の政権も世論も荷担してしまっている」(同書、199頁)と述べている。なるほど、大勢としてはそうかもしれない。が、たとえば昨年の国連総会の演説でイスラエルへの自制を説いた石破茂元首相のような立派な政治家もいる――ということは、その支持者も少なからずいる――し、同書のようなものも出版されているわけだから、日本にも変われる可能性はあるはずだ)。国外で活動する著者の一連の仕事はむしろこちらの方に重きが置かれているのかもしれない。

 ともあれ、私も著者同様、いつの日かイスラエルが自らの手で過去をある程度清算し、隣人たちと平和的共存ができる日がやってくることを願わずにはいられない。それが遠い未来のことかもしれないにしても……。

2026年8月20日木曜日

ああ、何と美しい音楽

  ああ、何と美しい音楽であろうか:https://www.youtube.com/watch?v=yZ5Nh9pkesE。森本恭正さんの近作、《翳の響き》を聴き、その旋律、響き、造形、そして、それらを貫く精神性、これらすべての美しさ(見事さ)が胸に迫ってきた。とても幸せな気分である。

2026年8月18日火曜日

ヴァレーズの《砂漠》で気分爽快

  久しぶりにエドガー・ヴァレーズ(1883-1965)の《砂漠》(1954)を聴く。私にとってはこれは夏向きの音楽だ。手持ちのいくつかのCDの中からロバート・クラフト指揮のものを選ぶ(https://www.youtube.com/watch?v=3a8KPp-be2U&list=RD3a8KPp-be2U&start_radio=1)。スピーカーから出てくる響きはまことに涼しげに感じられ、気分爽快になった。

 ところで、この作品は器楽による部分とテープに録音した電子音響による部分が交互に演奏される。後者については現在の聴き手にとってはもはや「博物館」の収蔵品のように感じられるだろうが(だからこそ面白いともいえる)、もしかしたらこの録音を収めたLPが発売された 1962年(初演の8年後)の聴き手にとっても些か古めかしく感じられたかもしれない。というのも、そうしたものをつくり出す技術とつくり出される音響のありようは日々どんどん変わっていっていたからだ。

 この《砂漠》の電子音響部分を現代のテイストでリミックスしたら面白いかもしれない。

2026年8月16日日曜日

詐欺サイトに憤慨

  先日我が家に迎えたピアノの機種について調べるためにネットを検索していると、とんでもないものを見つけた:https://greenstar.gibtehee.click/index.php?main_page=product_info&cPath=20&products_id=48680。

値段の安さに驚きだが、これは常識ではありえない。そこで注意してこのページを見ていると、おかしな文言が目に入る。曰く「在庫が少ないので、ご注文はお早めに!」。ということは同じ機種を複数台扱っているのか? ところが、下の方を見ると製造番号がきちんとあげられているではないか。言うまでもないが、ピアノは1台ごとに製造番号が異なるわけで、これはますます怪しい。そこで調べてみると、果たして詐欺サイト、つまり、代金を振り込んでも商品を送ってこない詐欺師の手になるものであった(ということは、このピアノ以外の「商品」もすべてそうだということになる)。

 検索してみると、同様な詐欺サイトは複数あった(https://bhfycqot.iyibal.com/index.php?main_page=product_info&products_id=21494。この価格は絶対にあり得ない!)のだが、このA1に関してはどれも同じ製造番号があげられていた。なぜそんなことになるのか? そこでさらに調べてみると、この楽器をかつてきちんとした楽器店が中古品として扱っており、その際ネット上にあげられていたデータを流用していたようなのだ。全く、よくやるよ。まあ、ピアノのような高い買い物、しかも直接自分で試し弾きせずに購うようなことのないものでこうした詐欺に引っかかる人はいないだろうが、もっと安い商品ならば欺される人も少なくないのではないか。ともあれ、見慣れないサイトで買い物をしようとする際にはご用心のほどを。

 ところで、件のサイトがインチキだということを別の点からも断言できる。すなわち、そこにあげられている製造番号のピアノこそ、まさに我が家に迎えたものだからだ(何たる偶然!)。もちろん、きちんとしたところ、すなわち、(おそらく先に述べた「きちんとした楽器店」から購入した人が手放したものを引き受けたであろう)アトリエ・ピアノピアさんからである。そして、このピアノには大いに満足している。製造が1994年だから、それから32年の年月が経つわけだが、状態はまことによく、これまでにこの楽器を弾いてきた方々や扱ってきた方々に大切にされてきたのだろう。このよいご縁にはただただ感謝あるのみだ。それだけに詐欺サイトの件は不愉快極まりない。

 

2026年8月14日金曜日

これは驚き

  先日、読書をしていて、ある件に心底驚いた。内容をかいつまんで言うと次のようになる――日本のあるピアノの大先生(国立の大学で長く教鞭を執った人)が1人の生徒を高校入学時から大学院修了までの9年間教えたのだが、演奏上の悪い癖を直させることができなかった。そのためか、その生徒は演奏家として立つことを断念し教師として生きる選択としたというのだが、その門出にあたって大先生は「生徒の前で弾いてはいけない。もし、弾くときにはそれが『悪い見本』だと断ってからにしなさい」と弟子に言ったという――(いつもなら典拠を示すところだが、そこには実名が書かれており、私は必ずしも個人攻撃をしたいわけではないので、今回は略す)。なるほど、その生徒にピアニストとしてのある種の技術が欠けていたのは確かだろう。が、9年も面倒をみていながら、それを直すことができないというのは、教師の側にもかなり大きな問題があるのではないか。そして、件の大先生にはその自覚が一切ないのだ。これを驚かずにいられようか。

 もちろん、名演奏家は必ずしも名教師ではない。むしろ、逆のことが多いようだ。何となれば、才能のある演奏家は凡人ができないことをさらっとやってのけるが、それだけに凡人がそうできない理由がわからないからだ。その大先生もそうだったのかもしれない。が、少なくとも苦労している生徒の現実は目にしていたわけだから、その手助けをできる別の教師(が仮にいたとすれば、その手)に委ねるという手もあったはずだ。それが無理ならば、もっと早い段階で引導を渡すということもできたであろう。それを大学院修了までさせたあげくに上述のようなことを言うのだから、あんまりだ。

 もっとも、これは日本に限ったことではないようで、もっと酷い話もある。すなわち、フランスのあるピアノの先生は自分の弟子が国際コンクールでの演奏で「極端に不合理な動き」をすることを嘆いておきながら、人から「どうして悪い習慣をやめるように注意しなかつたのか」と「咎められると「身体的な問題点を矯正するのは自分の義務ではない」と答えたという(ピーター・フォイヒトヴァンガー『ピアノにおける音楽的表現のためのエクササイズ』、CLAP、2026年、12頁)。つまり、自分が面倒を見るのは音楽面のことであり、それ以外のことは関係ない、というわけだ。

 なるほど、それはそれで1つの考え方ではあろう。が、目の前の生徒が苦しんでいるにもかかわらず、その問題点の解決を手伝わない、もしくは解決に導いてやれないというのは、教師としていかがなものだろうか(上の事例を示したフォイヒトヴァンガーも「それが教師の義務でないとしたら、いったい誰の義務だというのであろうか」(同)と憤慨している)。その問題点に教師が気づいていなかったのならば仕方がない。が、そうではなかったのならば、何もできなかったことを教師は恥じてしかるべきだったろうに(もし恥じていたのならば、大先生がその件を人に語るときにそうした調子があったはずだが、それはなく、生徒の資質の問題にすぎないとみなしていたようだ。そして、だからこそ、平気で人に話せたのだろう)。まあ、大先生の件は昔のことであり、現在の日本ではこのようなことはないであろう、と信じたい…………。

2026年8月11日火曜日

山﨑努『俳優のノート』に読み耽る

  このところ朝の空き時間に読み耽っているのが山﨑努『俳優のノート』(文春文庫、2013年。初出単行本は2000年)だ。これは著者が1998年に新国立劇場で上演された『リア王』で王を演じた際、その準備から上演に至るまでの期間にとられたノートに基づく本である。私には演劇を劇場で観る習慣はなく(興味はないではないが、それに割ける時間もお金もない)、斯界のことはほとんど何も知らないが、だからこそ同書は私にとっていわば「未知との遭遇」であり、まことに面白い。

 だが、面白さの理由はそれだけではない。演劇と同じく音楽もperforming artの1つであり、西洋芸術音楽の場合、他者の「作品」を取り上げる場合がほとんどだから、同書を読みながらいろいろなことを考えさせられるのだ。「台本(&演出家)と俳優の関係は楽譜(&指揮者)と演奏家の関係とある面ではパラレルだが、ある面では必ずしもそうではない。では、どこがどんなふうに?」――などなど、ときには読書から離れて考え込んでしまう。が、それがまた楽しい(いずれ機会を改めて、気になった箇所を抜き出してそれにコメントを付けてみたいと思っている)。ともあれ、同書は(アマチュアも含む)音楽に関わる者にとっても有益なものであろう。

2026年8月9日日曜日

真夏のスクリャービン

  今日は林瑛華さんの「スクリャービン ピアノソナタ全曲演奏会 前編」を聴きに大阪の街中に出かけてきた(於:三木楽器 開成館)。林さんは私が現在非常勤で務めている大学での元学生(今から7年前のことだ)。スクリャービンのソナタを主題として修士論文の作成に熱心に取り組んでいたが、当時から「いつかソナタの全曲演奏を!」と目標を掲げており、今や遂にそれを実現しつつあるわけだ(「しつつ」というのは、まだ「後編」が残っているからである)。すばらしいことである。となれば、これは聴き逃せないではないか。

 「前編」たる今回演奏されたのは前半に第1と第5、後半に第7,9、10番のソナタである。第1番は演奏会最初に持ってくるには(ピアニストにとっても、そして、聴き手にとっても)あまりにヘヴィーな作品であるが、前編と後編の各会に異なる時期のソナタを収め、時系列に並べるとなれば、そうするしかなかったのだろう。まあ、はじめのうちはいくらか演奏は硬かったが曲が進むにつれて次第に調子が出てきたようだったし、聴く側としても耳が馴染んでいった。続く第5番は以前に別の場所で林さんの演奏を聴いたことがあるのだが、そのときよりも格段に「練れた」ものだった。この難曲を力でねじ伏せるのではなく(そうした演奏が少なくない!)、しなやかに音楽づくりを行っており、その点にとても好感が持てた。

 後半は前半よりもさらによかった。林さんの演奏は割とすっきりした軽やかなものだったが、スクリャービンの音楽のある重要な一面をうまくとらえているように思われた。とともに、演奏からは彼の音楽への愛がよく感じられ、それもよい。曲を追う毎に演奏はしなやかさと自由さを増してゆき、最後の第10番はとりわけすてきな演奏だった。

 「後編」は半年後のことだが、その間に林さんは音楽づくりをいっそう深めて演奏に臨むに違いない。楽しみである。

2026年8月7日金曜日

文楽『まちの灯』に感動

  昨晩はBunraku Summer Festival( https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2026/bunrakusummerfestival/)を観に国立文楽劇場へ。演目がチャップリンの名作『街の灯』を翻案した『まちの灯』とあらば見逃すわけにはいかない。そして、これはやはり「大当たり」だった。

 思えば原作の名画を観たのは40年以上前のこと。当時はNHKで昔の映画がしばしば取り上げられており、それでチャップリンの作品や『カサブランカ』『第三の男』その他の往年の名画を知り、楽しむことができたわけである。その中でも『街の灯』は感動的な一本として心に残っていた。その名画を文楽に翻案するとどうなるのか――この点に好奇心はあっても、不安は全くなかった。事実、仕上がりはまことに自然であり、文楽として大いに楽しみ、感動できたのである。

 文楽ゆえに舞台は日本の大阪、登場人物も日本名であり、物語はごく自然に進んでいく。土台は喜劇なので随所で大いに笑わせてもらったし、最後にはじんとくるものがあった。主役の与次郎(!)の人形遣いは桐竹勘十郎だったが、今回、改めてそのすばらしい芸に魅了される。とりわけ大詰めでの微妙かつ繊細な(静止も含めての)動きからは微塵も目を離せなかった(その場面でのヒロインお花の人形遣い吉田勘彌もすばらしかった)。また、五段目から大詰にかけての太夫は豊竹若太夫だったが、これがまた実に見事(客席からは当然のように「待ってました!」の掛け声が……)。最初の第一声で観客を物語の世界へぐっと引き込んでしまい、最後までとらえて放さないのだ(この人ならば、原作の『街の灯』で弁士を見事に務めることだろう)。

 では、「音楽」はどうだったか。この『まちの灯』が翻案ものの新作である以上、音楽(もちろん、太夫の伴奏も含まれる)は新たに書かれねばならなかったわけだが、今回それを担当し、自らも五段目から大詰にかけて出演した鶴澤友之助はこう述べている:

 

文楽がお好きなお客様も、チャップリンがお好きなお客様にも楽しんでいただきたいので、それを意識しました。オリジナルの映画の音楽も匂わすような旋律は少し入れておりますが、基本的には完全に古典の義太夫節です。奇抜ではなく斬新であるように、義太夫節の中に自然に溶け込むように一生懸命考えて作曲させていただきました(https://www.ntj.jac.go.jp/topics/bunraku/2026/bunrakusummerfestival/)。

 

「古典の義太夫節」のなんたるかをまだつかんではいない私に本当の意味で事の成否の判別がつくわけではないが、聴き手としてはその音楽には心から魅せられた。時折、いかにも文楽らしい音楽の中に時折西洋音楽的な要素が入ってくるのだが、それが少しも浮いてはおらず、そのとき舞台で演じられ、そして、語られている事柄にうまく合っているように感じられた。いや、お見事。

 というわけで、とにかくまことに面白く、楽しく、感動的な舞台であった。こうした新作はこれからも機会があれば観てみたいものである。もちろん、古典の演目も。10月には『本朝廿四孝』を観に行くことになっているので、今から楽しみではならない。

2026年8月4日火曜日

メモ(161)

  1週間ほど前にドビュッシーの音楽における「旋律性と音響性の重なり」ということを話題にしたが、このことはいろいろな問題に展開できるだろう。

20世紀後半の「現代音楽」の作曲家の多くはおそらく、ドビュッシーからもっぱら「音響性」の面を学びとり、それが旋律性と二重性を成すことはあまり眼中になかったように思われる(その点、武満徹は少数の例外的存在かもしれない。が、その彼も80年代以降の作品では逆に旋律性が音響性をほとんど覆い隠し、音楽のありようが平板になってしまった)。そのため、彼らの作品には「音響」面での魅力はあるものの、それ以上の「深み」や「広がり」があまり感じられない。たぶん、そうした作品はいずれ忘れ去られることになるのではなかろうか(まあ、遠い将来、発掘される可能性を持つ「名曲」もあるが)。

その点、ご本尊のドビュッシーの作品は時代の移り変わりを経ても、さまざまな「聴かれ方」をされ、末永く生き残ることだろう。そして、その意味で彼の音楽からはまだまだいろいろなことが学べるはずだ。

2026年8月3日月曜日

ハンス・アイスラーの管弦楽曲を楽しく聴く

  ハンス・アイスラー(1898-1962)の管弦楽曲を手持ちのCD(今や生産中止のまことに便利な10枚組)で久しぶりに聴いてみたが、まことに面白い。とにかく「聴かせる」音楽に仕上がっており、その見事な職人芸に打たれる(たとえば、次のものなど:https://www.youtube.com/watch?v=xErSSMF8ruw&list=RDxErSSMF8ruw&start_radio=1)。彼はシェーンベルクの弟子で、「新ヴィーン楽派第4の男」とも言われる人だが、果たして現在、彼の作品がどの程度受容されているのだろうか。

 試しにHMVのショップで調べてみると、CDは20点しかない。だが、同門のヴェーバーンの場合はもっと少ない(さすがにもう少しポピュラーなベルクではDVDなども含めて51点あった)。となると、アイスラーだけが冷遇されているわけでもなさそうだ。

 演奏会ではどうなのだろうか。ちなみに、私はヴェーバーン作品は何度か実演で聴いたことがあるが、アイスラー作品は一度もないし、近場の演奏会で取り上げられた例も知らない。もちろん、欧米ではもっと演奏の機会があるだろうが(Wikipediaの日本語版とは異なり、ドイツ語版での'Hanns Eisler'の項はまことに充実している)、それほど人気があるわけでもなかろう。

 アイスラーの作風は元々先鋭的なものだったのだが、やがて社会主義に共鳴して(師匠シェーンベルクなどに比べれば)「わかりやすい」ものに転じた。だが、その中身は(私が聴く限りでは)しっかりしており、決して権力や大衆に迎合しているわけではない。それゆえ、「前衛」時代の作品も含めて、もっと演奏されてもよいような気がする(ちなみに、楽譜についてはBreitkopf全集が刊行中)。私の場合、器楽曲の方に興味があるのだが、彼の3曲のピアノ・ソナタを取り上げる演奏会があれば、迷わずに聴きにいくだろう。

 

2026年8月1日土曜日

演奏と演技の違い?

  西洋音楽の「作品」を演奏するとき、演奏者はそれを己の身に引き受けつつも、同時にいくらか突き放している――つまり、自分が現に行っていることを醒めた目(耳)でとらえ、フィードバックを行っている(たとえばブゾーニは何かが憑依したような演奏をしているにもかかわらず、「醒めた目」の必要性を説いている)。

では、役者はどうなのだろう? 彼らは自分の役柄を舞台の上で「生き」ているわけだが、やはり同時に「醒めた目」で己の演技を見ているのだろうか? 私は演劇には暗いので知らないが、何かそうしたことを説いたものがあれば読んでみたい。

 

 新しい(中古)ピアノが我が家に来てほぼ1週間。これからゆっくり時間をかけて楽器を自分に合うように弾きこんでいくとともに、自分の身体を楽器に合わせていくことになる。果たして1年後にそこから産み出される音はどう変わっているだろうか。

2026年7月30日木曜日

Me too.

  今日、妻が記した言葉――「地震が心配で心ざわつきますが、自分が幸いにも日常の暮らしを営むことが出来るならばそれぞれに精一杯仕事をこなし、あとは黙ってどこかで支援をする。それに尽きるのではないだろうかと過ごしています」。私もそう思う。

2026年7月29日水曜日

珍しくも二晩続けて

  とことん出不精の私だが、珍しくも二晩続けてお出かけを。

 

 昨晩は夫婦で「阪大コレギウム・ムジクム「楽器再発見」映画上映&ワークショップ」(https://musicologyosaka.wordpress.com/2026/07/17/%e3%80%90%e7%ac%ac26%e5%9b%9e-%e9%98%aa%e5%a4%a7%e3%82%b3%e3%83%ac%e3%82%ae%e3%82%a6%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%83%a0%e3%82%b8%e3%82%af%e3%83%a0%e3%80%8c%e6%a5%bd%e5%99%a8%e5%86%8d%e7%99%ba%e8%a6%8b/)。今回の司会者が旧知の森本恵一さんであり、そこで取り上げられた楽器にも興味があったし、このところ拙宅の楽器についていろいろお世話になっているPIANOPIAの小川瞳さんも出演するとなれば出かけないという手はない。映画はすでに昨年に観ているのでワークショップのみ参加したが、とても楽しかった。小レクチャーも充実していたし、いろいろと楽器に触れられたのもよかった。旧知の方何人かとお話もできたし。ともあれ、企画・運営に関わった方々に心から御礼申し上げたい。

なお、この「阪大コレギウム・ムジクム」の存在はこれまで全く知らなかったのだが、何か面白そうな会のときにはまた参加してみたいものだ。好奇心一杯の音楽愛好者の方々にもお勧めしたい。

 

 今晩はザ・フェニックスホールで「フェニックス・エヴォリューション・シリーズ114

トリオ・エクス×ブラームス ~3つの第2番、円熟の響き~」(https://phoenixhall.jp/performance/2026/07/29/25093/)を聴いてきた。前から楽しみにしていたのだが、その期待は十分に満たされた。

 演奏会前半にはブラームスのチェロ・ソナタとヴァイオリン・ソナタの、そして、後半にはピアノ三重奏曲のそれぞれ「第2番」が取り上げられていたのだが、断然後半がすばらしかった。前半のソナタもなかなかよい演奏だったが、些かきれいにまとまりすぎているきらいがなくなかった。それに対して、三重奏曲では表現がもっと大胆かつ繊細なものとなっており、その説得力のある演奏にはその3人が一緒に演奏することの意義がまことにはっきりと示されているように感じられた。よい音楽を聴かせてもらい大満足である。演奏者と関係者の皆様、どうもありがとうございました。