2026年5月12日火曜日

田中勝則『中村とうよう 音楽評論家の時代』を楽しく読んだ

  田中勝則『中村とうよう 音楽評論家の時代』(二見書房、2017年)をご近所図書館から借りてきて読んだ。ポピュラー音楽の評論家として一時代を築き上げた中村とうよう(1932-2011)の評伝である。その名はいろいろなところで目にしてきたけれどもその仕事ぶりは知らなかったので、同書を図書館で見つけたとき、「いつか読まねば!」と思っていたのである。

著者はとうよう氏と親しかった人であり、文の随所に氏への愛情がにじみ出ているが、同時に描く対象から適度に距離を置いている。のみならず、「音楽評論、あるいはポピュラー音楽研究なんていうことをやってゆこうと思ったときに、中村とうようという音楽評論家が残したことがひとつの大きな壁として存在しつづけることは間違いない」(前掲書、576頁)と氏の足跡を讃えながらも、「とうようさんという存在は、超えてこそ意味があるのだ。[……]中村とうようは、ぼくたちにとって『永遠のライヴァル』なのである。それがこの評伝の結論だ」(同)と言い切るのだ。何とも清々しい言葉であり、とうよう氏への最高の讃辞であろう。

なお、同書「昭和ポピュラー音楽史」の一断面としてまことに面白い。こうしたものを読むと、そこで取り上げられている音楽をいろいろ聴きたくなってしまうので困る。時間は有限だからだ。が、それでも……。

 

2026年5月6日水曜日

メモ(155)

  ポピュラー音楽では「曲先(きょくせん)」、すなわち、歌の旋律を先に書いたのちにそこに歌詞を当てはめていくということも行われているようだが、西洋芸術音楽の日本歌曲の分野ではそうした話はあまり聞いたことがない(が、器楽曲として人気の出たものの旋律に後から歌詞を付けたものはある)。しかしながら、考えてみれば、この「曲先」という手法は作曲家が歌詞の高低アクセントの束縛から逃れる1つの有効な手段ではなかろうか(もちろん、この場合、後から付けられる歌詞の方が旋律の高低の制約を受けることになるが)。その際、歌詞も作曲者が自分で書ければ、なおいっそうよい。逆に、詩人が自分で旋律をつくってみてもよいかもしれない。

2026年5月2日土曜日

村井康司『あなたの聴き方を変えるジャズ史』に共感

  前回話題にした村井康司の著書がまことに面白かったので、同氏の別の著書、『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(シンコーミュージック・エンタテイメント、2017年)をご近所図書館で借りてきて読んだが、これも実によかった。

著者のジャズ観はオープンで、「これがジャズだ。これしかない!」といった心の狭い、ことは決して言わない。著者はこれからのジャズについて、こう説くのだ――「『伝統芸能としてのジャズ』だけが『本物のジャズ』ではない、[……]既成の『ジャズ』からの自由こそが新たな『ジャズ』をもたらすのだ」(前掲書、277頁)。そして、こうも述べている――「ジャズははその最初からずっと『新しい耳』を持つ音楽家たちによって次のステージへと向かってきた音楽」(同書、278頁)であり、その「耳」とは「古い音楽から、それまで重要だとは思われていなかった、しかし実は重要な何かを聴き取る」(同)ものだと。

 この件を読んだとき、私は思った。「これはジャズに限ったことではなく、西洋芸術音楽でも同じことではないか」と(ちなみに、私が拙著『黄昏の調べ』の最終章で述べたこともこれと同じような考え方だ)。事実、その少し後で著者はこう言うのだ――「歴史に学び、しかし歴史にしばられないこと。[……]『不易流行』を目指すことにしか、ジャズの、いや音楽の、さらには文化の明日はない」(同)と。全く同感である。

 そうした結論に至るまでの同書の論述も実に面白く、そこで取り上げられていて自分が知らない音楽をいろいろ聴いてみたいと強く思った。

2026年4月26日日曜日

村井康司『世界史はジャズで踊る』に心躍る

  最近とても面白く読んだのが村井康司『世界史はジャズで踊る』(文春新書、2026年)である(https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166615278)。同書では「ジャズ」もさることながら、それに何らかのかたちで関わる他ジャンルのポピュラー音楽や民族音楽にもかなりの紙幅が割かれており、さまざまな音楽ジャンルの交流がまことに生き生きと描き出されている。いや、実に面白い。近年自分が興味を持っている「西洋芸術音楽の日本化」の問題を考える上でも同書は示唆に富む。

 同じ著者の『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(シンコーミュージック・エンタテイメント、2017年 も読み始めたが、こちらもやはり面白い。読んでいると、そこで紹介されている音楽をあれこれ聴きたくなるが、時は有限なので「あれもこれも」というわけにはいかない’(残念!)。自身の直感で取捨選択するしかあるまい。まあ、それが「ご縁」というものだろうか。

2026年4月19日日曜日

メモ(154)

  今や大学の純然たる西洋芸術音楽の作曲科では学生が集まらないので、ポピュラー系の作曲科と統合されるところが出てきている。これを日本における「西洋芸術音楽の衰退」と嘆くむきもあろうが、私にはむしろ斯界のイノヴェィションの好機であるように思われる(もちろん、それを生かすも殺すも当事者次第だが)。

 

2026年4月16日木曜日

作曲家のDukasは「デュカ(ー)ス」と表記するのが正しいとはいえ

  Paul Dukasの姓を日本語表記する場合「デュカ(ー)ス」が正しい(種々の辞典・事典を見ればそのことはすぐにわかる)。が、しばしば「デュカ」も見かける。先日もドビュッシー関連の本を読んでいたら「デュカ」に出くわしたところだ。また、フランス帰りの人でさえ「現地の人がそう発音していたのだから『デュカ』が正しい」と宣う。

なるほど、フランス語の発音の原則からすれば、最後のsを発音しないのが普通だ。が、固有名詞の読み方には例外がいくらでもある。そして、それを「現地の人」が知らない場合もあろう(日本の場合で考えてみられたい。そうした例は枚挙に暇がないはずだ)。事実、デュカス本人がそのことを嘆いている。曰く、「hélasを『エラ』と発音しますか? しないでしょう! なのに、私の名はなぜ……」(これはエネスクの回想録の一節。手元に現物がないので正確な引用ではない)。同胞にさえ正しく自分の姓を呼んでもらえないことが多々あったのだろう。お気の毒様。

 とはいえ、外国語の日本語表記には必ずしも原語の発音の実態に即していないものが少なからずあり、それが「日本語」として定着している。実際に手持ちの『小学館 ロベール 仏和大辞典』を繰ってみると、Dukasの項には[dykɑːs]という発音が示されていながらも、語義には「デュカ、デュカス(1865-1935):作曲家」と記されている。すなわち、日本での異なる表記の仕方を受け入れているわけだ(そもそも、その発音記号を正確に反映させるならば、「デュカース」とならねばならないのに、そうはしていない。ちなみに、他のものを調べてみると発音記号中の延ばす音を示す補助記号[ː]はなかったり、()で示されていたりする)。それゆえ、「デュカ」という表記にいちいち目くじらを立てる必要はないのかもしれない。

 ……が、私個人としては、音に関わる音楽関係の固有名表記についてはもう少し何とかした方がよいと思っている(この点については以前も話題にしたことがある:https://draft.blogger.com/blog/post/edit/8370436117668253788/2310196875849302726)。

  ちなみに、昔は学校の教科書では「バイオリン」「ベートーベン」などと表記されたものだが、最新の学習指導要領を見ると幸いにもそれは改められていた。新聞などでも私が知る限りでは「バイオリン」だったが、今はどうなのだろうか。購読を止めて久しく、現状を知らないので、そのうちご近所図書館で確認してみたい。

 

 ショパン作品のペダル記号をきちんと見直してみると、確かに自分が思っていたよりも使用が格段に少ない(たとえば、いわゆる「革命」エチュードには一箇所も用いられていない!)。驚きである。もちろん、だからといって、楽譜に記されたペダル記号をいついかなるときでも厳守すべきだとまでは私は思わない。が、オリジナルの記号が示す音楽のありようにきちんと目と耳を向け、それを現代のピアノ演奏でどう活かすかを探ってみることは(ピアノ学生を含む)これからの「ショパン弾き」には欠かせまい。 

2026年4月12日日曜日

『ショパン:忘れられた響きの発見――楽譜が示す57%ペダルなしの音楽を1841年製プレイエルで!』

  ピアニストでピリオド楽器の名手、山名敏之さんから新作CDをいただいた。それは 『ショパン:忘れられた響きの発見――楽譜が示す57%ペダルなしの音楽を1841年製プレイエルで!』と題したものである:https://kojimarokuon.com/products/alm-9289。これまでにもハイドンやシューベルト(連弾曲)でまことに刺激的なCDを出してこられた方だけに、今回のショパン盤の登場はうれしい驚きだ。

 だが、真の驚きは実際に聴いてみたのちに訪れる。すなわち、「楽譜が示す57%ペダルなしの音楽」(その詳しい説明は上記リンク先を参照)は、これまで自分が「ショパンの響き」だと思っていたものとは大きく異なっていたからだ。のみならず、そこに大きな説得力を覚えたからだ。

例えば前奏曲集作品28の第4番。よくある演奏ではペダルによって和音の推移が滑らかに繋がれるわけだが、それがまさに音楽をぼやかしていたことに気づかされる。また、第8番の第5-22小節での「ペダルなし」にも最初は仰天させられたが、よく聴くとペダルありの部分との対比が実によく利いており、音楽がいっそう劇的に感じられた(まあ、この箇所は記号の省略だとも考えられるが、「なし」でも音楽に説得力はあるので、どちらを選ぶかは演奏者の解釈次第だろう)。他の曲でも大なり小なりこうした驚きと発見があり、興奮しながら全編を聴き終えた(だけではなく、さらに2回繰り返し聴いた)。

もちろん、この山名さんのような流儀が本当に正しくて、現在の主流の奏法が誤っているということなのではない。後者にも後者なりの理(例えば往時と現在の楽器の違いや演奏する場の違い)があり、それが今現在少なからぬ演奏者や聴き手を惹きつけているという事実は決して軽視できない。が、山名さんの試みがショパン作品に新たな光を当ててくれた――精確に言えば、私たちがショパン作品で見落としていたもの、聴き逃していたものに気づかせてくれた――のは確かである。のみならず、主流派の奏法が将来改革される種を蒔いたかもしれない1人の聴き手、そして、ショパン音楽愛好家として私はそのことを喜ばずにはいられない。とともに、その試みがさらに理論と実践の両面で展開されることを期待したい。

ともあれ、この『ショパン:忘れられた響きの発見』はとりわけショパン・ファン、そして、ロマン派ピアノ音楽ファンには強くお薦めしたい1枚である。

2026年4月9日木曜日

『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋の段」に涙腺が緩む

  今日も国立文楽劇場へ。演目は『菅原伝授手習鑑』(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/exp2/exp2_new/w/000.html?_bdsid=24yJ02.pihdAgn.1775734140615.1775735064&_bd_prev_page=https%3A%2F%2Fwww.ntj.jac.go.jp%2Fschedule%2Fbunraku%2F2026%2F2026bunraku04%2F&_bdrpf=1)で、私が観てきたのはもっとも泣ける「寺子屋の段」を含む3つの段だ(涙腺の弱い私には効果てきめん)。もちろん、たんに泣けただけではなく、やはり演者のすばらしい技芸に深い感動を覚えた。

 面白かったのはその3つの段で、最初の「北嵯峨の段」ではこれからがとても楽しみな太夫の若手、3つめ本命の「寺子屋の段」の「切」では現在の名人、そして、「後」では次なる名人が演者を務めており(https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/bunraku/2026/0804haityaku.pdf)、その点でも面白かった。  

 それにしても、文楽への興味と愛が深まるにつれ、新作を観てみたいとの思いも強まる。きっと面白いだろうなあ。

2026年4月3日金曜日

驚き

  先日聴いていたFM番組でギタリストの山下和仁氏が亡くなっていたことを知った。驚きである。まだ60代半ばだというのに……。

 氏の実演は一度だけ聴いたことがある。随分昔のことで、1980年代前半のことだ。金沢市で催された何かの楽団(こちらは全く覚えていない)の演奏会の独奏者としてジュリアーニのギター協奏曲第1番を弾いていたのである。当時はまだギター音楽にそれほど馴染んでいなかったので、どれだけのことをそこから聞き取れたかはおぼつかないが、とにかく凄い演奏だったことは覚えている。

 私は必ずしも山下氏の音楽の熱心な聴き手ではなかったが、近年、氏の編曲・演奏による《展覧会の絵》に(今更ながらに)衝撃を受け、もっといろいろ聴いてみたいと思っていたところだった。実演に触れることはもはや叶わないが、遺された少なからぬ録音によって、この偉大なギタリストの音楽にいっそう親しむことにしたい。

2026年3月29日日曜日

見事なBGM

  自宅での午後の「コーヒー・タイム」には何かしらCDをかけることしている。ジャンルは問わない。クラシックのこともあればポピュラーのこともある。そして、それらにじっと聴き入ることもあれば、純然たるBGMとなる場合もある。

 今日はヨハン・シュトラウス2世その他の「ヴィーンもの」を収めた、ヴィリー・ボスコフスキー率いる楽団のCDを楽しんだ。概ねBGMとしてである。そして、今更ながらに気づいたのだが、シュトラウスの音楽BGMとしてまことにすばらしい(なお、これは彼の「作品」が傾聴に値しないということを意味するのではない)。これは決して貶してそう言っているのではない。彼の音楽は会話を妨げないし、その途中で不意に耳を傾けてもいつでも耳を楽しませてくれるのだから。いや、実に見事な職人芸である。一流の職人は二流以下の芸術家に勝る。

2026年3月22日日曜日

メモ(153)

  ドビュッシーのピアノ作品を深く味わうには下手でも自分でピアノを鳴らしてみるのがよいのではなかろうか。そうすれば、楽譜を読んだり演奏を聴いたりするだけではわからない響きを体験できるだろうから。

先日も《前奏曲集第2巻》の各曲をピアノであれこれ鳴らしてみたが、その何とも摩訶不思議な響きに改めて驚嘆させられた。もちろん、私ごときの奏でる響きなどはいわばピンぼけ写真のようなものだが、それでも実際に弾いて響きが立ち上る場でしか得られない喜びがある。すると、ドビュッシー演奏に長けたピアニストなどは、まさに「歓喜」のひとときを己の演奏によって味わうことができるのだろうなあ。ああ、うらやましい。

2026年3月15日日曜日

「川口成彦ピアノ・リサイタル」でスペイン音楽(と関連作品)に魅せられる

  昨日はびわ湖ホールで「川口成彦ピアノ・リサイタル」を聴いてきた(https://www.biwako-hall.or.jp/performance/biwa-gogo69)。このところこの若きピアニストの演奏に心惹かれているので、実演の機会を逃さず出かけてきたわけだ。演目は次の通り:

 

(前半)

グリーディ: ノスタルジア( 3つの短い小品』より)

ファリャ: 3つの舞曲( 『三角帽子』より)

プーランク: マヌエル・デ・ファリャの主題によるノヴェレッテ

ペドレル: 夜想曲

アルベニス: 港( 『イベリア』第1巻より第2曲)

ファリャ: 4つのスペイン小品

 

(後半)

ラヴェル: グロテスクなセレナード

ドビュッシー: ビーノの門( 前奏曲集 2 より第3曲)

途絶えたセレナード( 前奏曲集 1 より第9曲)

グラナダの夕暮れ( 『版画』より第2曲)

グラナドス:オリエンタル(『スペイン舞曲集』op. 37より第2曲)

      アンダルーサ(同上第5曲)

ファリャ:ベティカ幻想曲

     火祭りの踊り( 『恋は魔術師』より)ひま

 

(アンコール)

ファリャ:讃歌「ドビュッシーの墓のために」

トゥリーナ:サクロ・モンテ(『ジプシー舞曲集 1集』op. 55より第5曲)

モンポウ:歌と踊り 8

ロドリーゴ:春の子守唄

 

スペイン音楽を好み、かつファリャ作品を愛する私にとってはまことにうれしいプログラム(今年生誕150年のファリャ作品を中心に編まれたもの)であり、川口はエラールの1927年製コンサート・グランドと1864年製のアップライトによって見事に全曲を聴かせきってくれた。

 どの曲の演奏もすばらしかった。世の演奏には聴き手に良くも悪くも緊張を強いるものが少なくないが、川口の演奏はそうではなく、こちらも何ら身構えることなく音楽にすっと入っていけて楽しめるものだった。

 もっとも聴き応えがあったのはファリャの《ベティカ幻想曲》だ(「ベティカ」は「アンダルシア」の古名)。実演ではなかなか聴けない作品だということだけではなく、まさに「幻想」的な(ファリャ特有の「渋さ」を持った)スペイン音楽絵巻を生き生きと繰り広げてくれたからである(まさに「アンダルシアに憧れて」ならぬ「アンダルシアに魅せられて」だ)。

 2台の楽器の弾き分けも実によかった。とりわけ、エラール・アップライトの魅惑の響きは忘れがたい。その楽器によって、たとえばグラナドスの〈オリエンタル〉はこの上なく美しくもどこか悲しく奏でられ、〈讃歌「ドビュッシーの墓[=ドビュッシー追悼]のために〉は何とも切実に――つまり、作曲者がドビュッシーに抱いていたであろう思いがひしひしと伝わってくるような感じがする――響かせられたのだから。

 ともあれ、実にすてきなリサイタルだった。一緒に聴いていた妻は今やすっかり川口ファンだが、私もまた。いつかこのすばらしいピアニストが《イベリア》全曲を取り上げてくれる日が来ますように。

2026年3月11日水曜日

拙い自作品への愛着

  自分の「趣味の作曲」で書いたもののほとんどは捨ててしまった。とりわけ、「現代音楽病」の重症期のものは。だが、ごく若い頃につくったもののいくつかはなぜだか捨てられない。「しょーもない」ものだとはわかっていても愛着があるのだ。

それゆえ、時折、そうした作品に手を入れ直している。今も、40年近く前に書いたピアノ曲をあれこれいじっている。そして、自分で弾くには難しい曲なのでDoricoに打ち込んで聴いてみると、「ああ、これはこれで悪くないじゃないか」と思ってしまう。まあ、あくまでも自分で聴く分のことでしかないが……(以下に最初の頁のみあげておこう。これ以降の中間部が少し込み入っており、自分の演奏技術では「手に負えない」ものになっている。なお、この画像では見えにくいが上の段のト音記号の上には「8」が付いている。すなわち、実音は記音のオクターヴ上になる。この作品では敢えてほとんど高音域を用いた)。ともあれ、まことに安上がりな趣味である。


 

 

 今日は大震災の日なので、それに関連したニューズがインターネット上で(とくに検索しなくとも見出しとして)あれこれ目に付く。時計の針は戻しようがないが、過去から何かを学んで未来に活かすことは大切だろう。しかし、だとすると、昨日、東京大空襲についてのニューズが同じように目に飛び込んでこなかったのはなぜだろう?

2026年3月6日金曜日

「演奏会」という語のよそよそしさ

  「演奏会」という語はクラシック音楽にはしっくりくるが、ポピュラー音楽にはどうも合わない。何かしらよそよそしい(さらにいえば、「堅苦しい」)感じがするからだ。そうした音楽にはやはり、「コンサート」や「ライヴ」などの語が似つかわしい。もっとも、実のところ、クラシック音楽に対しても「演奏会」という語はあまり使わないようにした方がよいのかもしれない。

 ちなみに、近年の私はクラシック音楽の「演奏会」という場によそよそしさを感じるようになってきており、年々足が遠のいている。そこで奏でられ、歌われている音楽そのものは大好きであるにもかかわらず……。もちろん、中には聴きに行きたいと思うものや、実際に出かけてよかったものもある。が、そうした「出会い」を必要以上に積極的に探し求めることはせず、得てして「偶々ご縁があった」ものを聴いている。

 今月出かけることになっている唯一の演奏会、もとい、コンサートも妻が見つけてきたものだが、今から楽しみでならない。その感想は後日述べることにしたい。

2026年3月1日日曜日

ケクランの『和声概論』の第3巻がIMSLPに

  今日、IMSLPでケクランのページを見てみると、『和声概論』の第3巻、すなわち、課題の解答編が上げられていた(https://imslp.org/wiki/Trait%C3%A9_de_l'harmonie_(Koechlin%2C_Charles))。

これは第12巻にすでに目を通している人にとっては待望のものであろう。また、この巻だけでも独立して読む(弾いてみる)価値はあろう。

 ついでにあれこれ他を見ていたら、アンドレ・ジェダルジュの『フーガ概論』の邦訳があって驚いた(https://imslp.org/wiki/Trait%C3%A9_de_la_fugue_(G%C3%A9dalge%2C_Andr%C3%A9))。

名著の誉れ高いこの「分厚い」本を日本語で読めるのはありがたいことである。この翻訳を仕上げた篤志家の偉業を心から讃えたい。

 そういえば、ケクランもフーガ教本を書いており、それも「学習フーガ」に関するものだ。これはまだIMSLPにはあげられていないが、いずれ誰かがあげることだろう。私は同書を勤務先の図書館で借りて眺めてみたことがあるが、これもなかなか充実した教本である。

 

 ふと思い立って、Dorico でJ. S. バッハの〈6声のリチェルカーレ〉を「写経」し始めた。声部毎に色を変えてみれば随分読みやすくなるだろうと思ってのことだ。以下にあげるのは声部が6つ出そろったところを含むページである(なお、原譜では2小節一組に記譜されているが、Doricoではどうすればよいかがわからなかったので、この写経ではそうはしていない。また、黄色はタイで繋がれた音で、これはすべての声部に共通。また、大譜表の上段は右手担当、下段は左手担当にしてある):

 

 

 「日本人は現状から未来を予測し、それに対応した『計画』を立てるということが、極めて困難な民族である[……]。目先の発明・工夫は得意だが、根本的な発想の転換をすることは大の苦手である」(井沢元彦『逆説の日本史4・中世鳴動編』、小学館文庫、1999年、416頁)という指摘はおそらく正しい(個人としてはそうした「困難」や「苦手」を乗り越えられる人は少なからずいる(いた)はずだが、社会や組織がそうした個人を無力化してしまうのだろう)。私が直接知るこの国の近過去についてはまさにその通りだと言える。ならば、この先も……。のみならず、今のように国が教育に出し惜しみをしている(出すにしても、余り効果的ではないやり方をしている)ようでは「目先の発明・工夫」さえも怪しくなってくるのではないか。

 

 

2026年2月26日木曜日

《イベリア》の遠近感

  このところアルベニスの《イベリア》への愛が再燃している。昨晩もラローチャの録音(全4回中の2回目のもの)で前半を久しぶりに聴いたが、やはりすばらしい。今回改めて魅せられたのは、音楽が持つ独特の遠近感だ。それは多声的、多層的な書法のたまものだが、決してそれだけではない。ピアノという楽器をとことんまで活用する手法があってこそである。その点で《イベリア》は奇跡的な存在であり、だからこそ、いかなる編曲をもこの曲集は拒むのだろう。ピアノよりも多様な音色を駆使でき、音も自由に扱える管弦楽をもってしても(実際、いくつかの編曲あるが)、原曲で1台のピアノが生み出す遠近感は再現できまい。

もちろん、それを弾くピアニストには難行苦行が課されるわけだが、それを乗り越えた数少ない者は《イベリア》の音の世界を現実化する幸せを味わうことができる。そして、私も1人の聴き手としてそうした場にリアルタイムで立ち会う(つまり、すぐれた生演奏を聴く)機会が訪れることを強く願っている。

 

 ヘンレ社から出ていた4分冊の《イベリア》が昨年1冊にまとめられていたことを最近知った。そこで早速見てみたが、とくに変更点はないようだ。元の版が出てから10年以上間が空いていたのに、改善の機会を放棄したわけだ。もったいない。とはいえ、この版がショット社刊のもう1つの原典版、さらには春秋社の森安版とともに有用なのは確かだろう。

2026年2月18日水曜日

ショスタコーヴィチの名言

  ショスタコーヴィチの名言――「わたしたちはそれぞれ、きびしい批評家を自分のなかに抱え込んでいる。厳格になるというのはそれほど困難ではないが、自分の聴覚に感じた不快さを万人の前に公表する価値などあるのだろうか」(ソロモン・ヴォルコフ編(水野忠夫・訳)『ショスタコーヴィチの証言』、中公文庫、1985年、50頁)。そして、大部分の人はショスタコーヴィチほど鋭敏な聴覚を持ってはいないのだから、なおのこと……。

2026年2月11日水曜日

いずみシンフォニエッタ大阪の第55回定期演奏会

  今日、今年初めて演奏会に出かけてきた。いずみシンフォニエッタ大阪の第55回定期演奏会(指揮:飯森範親)がそれだ。今回から音楽監督が交替し、新たな展開が期待されるところだったが、まさにそれに十分応える内容だった(https://www.izumihall.jp/schedule/20260211)。

 多種多様な演目は次の通り:

 

 P.オリヴェロス:The Well and The Gentle

川島素晴:ピチェクラリン讃歌

西村 朗:オルゴン 室内オーケストラのための 

 

M.フェルドマン:マダム・プレスは先週90歳で亡くなった

【公募作品】渡邉翔太:朧げな風景の中でⅠ(世界初演)

藤倉 大:箏協奏曲(独奏:片岡リサ)

 

いずれもしかるべき水準の作品であり、まことによく考えられたプログラムだ。もちろん、個々の作品に対しては私個人の好き嫌いはある。が、それはそれ。演奏会全体としてはすぐれたものだったと思う。

 では、以下、曲順に簡単に感想を述べていこう。最初のオリヴェロス作品は初めて聴いたが、なかなかに興味深かった(これまで彼女の音楽にはさほど関心がなく、数曲しか知らなかったが、他にももっと知りたいと思った)。全体は大きく二分されるが、その前半の音のありようはいわば遠心的、そして、後半は逆に求心的で、それぞれの部分が、そしてまた両者の違いが面白い。

 続く川島作品と西村作品については、自分の好みではないので具体的な感想は控えておこう。いずれもよくできた作品だと思うし、それを好む人がいても当然であろう。が、私の心には響かなかったのである(その理由を説明することはできるが、そんなことをここでしても意味があるまい)。残念。

 後半最初のフェルドマン作品は今日の私のお目当ての1つだった。そして、その期待は満たされた。先のオリヴェロス作品の前半部分と対照的に、このフェルドマン作品は極度に求心的であり、聴き手に大きな集中力を要求する。が、そこで繰り広げられている音の世界は何とも不思議な美に満ちている。いずれ、もう少し長め(ただし、1時間以内)のフェルドマン作品も取り上げて欲しいところだ。

 続く【公募作品】が私のもう1つのお目当てであり、こちらも楽しく聴かせてもらった。作品の内容は「朧げな風景の中で」という作品名そのままで、何とも清々しい音の風景が現出させられていた。「Ⅰ」と銘打たれているということは、これに続く作品がすでに書かれているか構想されているのだろうか。少しばかり気になるところではある。ただ、今回の「風景」はまことに静的なものであり、その「中で」はほとんど何も起こっていない。そこが魅力であったとは言えるのだが、「Ⅱ」以降ではそれとは些か異なる趣向のものであって欲しいと(私個人は)思う。

 さて、最後は藤倉作品。音楽のありようは熟練の職人芸の産物であり、とりわけ箏に対する管弦楽の扱いは見事としかいいようがない。が、この作品に対しても私の心は反応してくれなかった。作品が悪いのではない。私との相性が合わなかっただけである。残念。

 以上、勝手なことを述べたが、演奏会全体としては大いに楽しませてもらったし、新音楽監督がこれから打ち出す企画への期待もふくらんだ。今のようにいろいろなことが困難になりつつある中で、こうした演奏会シリーズが続けられていることは本当にありがたい(し、そう思っているのは私だけではあるまい)。というわけで、関係者の方々に心から御礼を申し上げたい。

2026年2月7日土曜日

かっこいい吹奏楽曲[訂正の追記あり]

  最近、アニメ『響け! ユーフォニアム』を(クラシック音楽絡みの作品なので)遅ればせながら見始めたのだが、その中に登場する次の曲はなかなかよいなあ思う:https://www.youtube.com/watch?v=rDiyeydXtnQ&list=RDrDiyeydXtnQ&start_radio=1。私の弟や妹が学生時代に吹奏楽をやっていたために自分も時折それを聴く機会があったが、この作品はその際に耳にした米国産のスタンダード・ナンバーに通じるスタイルのものであり、何かしら懐かしさを覚える。そして、すなおに「かっこいいなあ」と感じ、若さの輝きに感動させられる。

とりわけぐっとくるのが、上にあげた動画の5’ 33”あたりのところだ*。ここから最後に至るまでの音楽の流れは実に感動的。とにかくすてきな曲である。

訂正の追記:「*」以降で最初に書いた和声進行についてだが、内容が間違っていた。お恥ずかしい限りである。なぜ、そのように聞こえてしまったのだろう? 今日(2月11日の朝に)突然、どこか変だと思い、よく聴き直してみたら、ここの進行はⅤ→Ⅰ→Ⅴ/Ⅴ7の3転→Ⅴの2転→というものだった。そういえば、この曲の主調も初めて聴いたときにはハ長調に聞こえたのだが、あるときおかしいと感じて確認し直した次第。また、最後の転調についてもやはり、1音高く聞こえていたようで、ドミナント調のヘ長調が正しい。

このようなミスは昔はあまりしなかったのだが、最近は増えてきた。そういえば、複数の音楽家の自伝や評伝の類で「歳をとって音が高く(低く)聞こえるようになった」といった話をいろいろ目にしていたが、それがいよいよ自分の身にも降りかかってきたということかもしれないし、あるいは、もっと別の理由があるのかもしれない。いずれにせよ、気をつけねばなるまい(この機会にノエル・ギャロンのソルフェージュ曲集に取り組んで音感の鍛え直しをしてみようかなあ)。

2026年2月4日水曜日

〈ラバピエス〉の2種類の楽譜

  先日話題にしたアルベニスの〈ラバピエス〉だが、最終的に2通りのものをつくりあげる予定だ。すなわち、①原譜の複雑怪奇な手の配分を改めて(ただし、できる限り元のかたちを尊重する)、直接楽譜から演奏できるかたちにしたもの ②その楽譜からさらに臨時記号をすべて取り去り、#は緑、♭は赤、ダブル#は水色、ダブル♭はふじ色、そして、タイで結ばれた音符を黄色に塗ったもの、この2である[追記:1 箇所だけ♭を消し忘れていたのに後から気づいた]。以下、それぞれ最初の部分をあげておこう:

 


 

 


②のようなものをわざわざつくるのは、原譜にあるあまりに多くの臨時記号が読譜を困難ならしめているからだ。それゆえ、このようなかたちにすれば格段に読譜がたやすくなる。これまでにこうした楽譜を手書きでつくりかけていたのだが、Doricoでは音符に色付けができるとわかったので、それに乗り換えた次第。プロがつくればもっとうまくできるのだろうが、私用なのでこれで十分だ。機械による写経ではあるが、その間に実際にピアノでいろいろ確かめているので大いに勉強になる。

 なお、①の作成にあたってはすでに3種類ある同じ趣向の版(イグレシアス版、ゴンサレス版、ニエト版)を参照しつつ、改良を図っている。それらの版はすべて自筆譜、あるいはそれに由来する原典版に基づいているのだが、私は初版に基づく原典版(ヘンレ社版)に拠っている(その理由を説明すると長くなるので、それはまた別の機会に)。

 

 昨日、選挙の期日前投票を済ませてきた。いろいろな思いを込めつつ。

2026年2月1日日曜日

ありがたきはインターネット上の善意の記事

  楽譜書きソフトDorico 6でアルベニスの《イベリア》第8曲〈ラバピエス〉を打ち込み始めた。これは1つには勉強のためであり、もう1つには自分なりに「見やすい」楽譜をつくるためである。以前使っていたPrint Musicでは無理だった細かい作業が今のソフトではできるのだが、まだまだ不慣れなので四苦八苦している。

 市販されているマニュアル本は1つしかなく、しかも、「そこそこ」のできなので、わからないことはインターネットで調べるしかない。そこでまず目を通すのはメーカーのサイトだ。すると、必要なことが書かれているので役立っている。が、それでも「?」という場合はいろいろ出てくる。そんなときに助けになるのが、このソフトのユーザー個人の記事だ。今日も「さて、いったいどうしたものか……」と悩んでいた事柄について、見事な裏技的解決法をそうしたものから教わった。まことにありがたいことである。

 このようなことがあると、それがたとえどれほどささやかなものであるとしても自分も何かしら人の役に立てる情報発信ができればよいなあと思わずにはいられない(もちろん、それは簡単ではなかろうが、そう心がけるのは悪いことではあるまい)。

 

 先日、必要があってドヴォジャークの第8交響曲を勉強し直していたが、作品のあまりのすばらしさに今更ながらに驚かされた。これからも種々の「名曲」についてこうしたことが我が身に起こることだろうが、次が楽しみである。

2026年1月25日日曜日

ルベルト・ジェラルトの生誕130年

  昨晩、久しぶりにルベルト・ジェラルト(1896-1970)の第2交響曲(1957-59)を聴き直したが、面白い曲だと改めて感じた(https://www.youtube.com/results?search_query=roberto+gerhard+symphony+2)。それは一方では同時代の若者の作品に観られる「音響」志向を示しつつも、他方では師のシェーンベルクのように「土台としての古典」を決して軽んじていない。それゆえ、そこには両者のせめぎあいがもたらす(よく言えば)緊張や(悪く言えば)綻びが生じるわけだが、ジェラルトはそこが不満だったのだろうか、のちにこの曲の改作を試みっている(が、未完に終わった)。私はむしろその緊張こそがこの交響曲の面白さだと思うのだが、どうだろうか。

 ところで、このジェラルトは今年生誕130年だ。だからといって、そのために彼の作品がいっそう積極的に取り上げられることはないだろうが、私は勝手に「ジェラルト生誕130年」を祝いつつ、彼の音楽にもっと親しむことにしたい。

 

 今日で愛犬シャーロットが我が家にきてちょうど9年が経った。その間に実にいろいろなことがあったが、その存在にどれほど心癒やされ、救われたことか。というわけで、この愛犬に心からの感謝を。


 

2026年1月22日木曜日

「摂州合邦辻」

  今年初の音楽関連のお出かけはクラシック音楽ではなく文楽だった。今日、国立文楽劇場で第1部(https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2025/2026bunraku01/)を妻とともに観て(聴いて)きたが、すばらしかった。

 元々は第2部に行きたかったのにうまく席が取れずに第1部にしたのだが、これが「大当たり」。というのも、「摂州合邦辻」が何とも面白い演目だったからだ。その筋書きは些か荒唐無稽(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%B7%9E%E5%90%88%E9%82%A6%E8%BE%BBであるにもかかわらず、劇として不思議な魅力があるのに加えて、今日の演者の技芸がまことに見事だったのである。とりわけ、「切」での豊竹若太夫と鶴澤清介のコンビには圧倒される。「前」での豊竹呂勢太夫と鶴澤清治のコンビもよかった。

ちなみに、この2組が登場したとき、後ろの席から「待ってました!」「呂勢太夫、清治」「若太夫、清介」と、そして、最後には「大当たり!」と掛け声があった。文楽に古くから親しんでいる見巧者の方のものなのだろう。ともあれ、それを耳にし、私も気分が盛り上がった。いやあ、文楽って本当にいいもんですね。

2026年1月18日日曜日

ヨゼフ・ホフマンも生誕150年

  ピアニストのヨゼフ・ホフマン(1876-1956 )も今年生誕150年だった。ラフマニノフが好敵手とみなした名人である。

 私がホフマン(の演奏録音)を初めて聴いたのは中学生のときだ。昔のピアニストを特集した番組でのことで、演目は彼の師の1人、モリッツ・モシュコフスキの《スペイン奇想曲》だった(https://www.youtube.com/watch?v=rYc15E7g5Ho&list=RDrYc15E7g5Ho&start_radio=1。ちなみに、現在最高のピアニストの1人であるスティーヴン・ハフもこの曲を録音しているが、その内容から判断するに、彼はホフマンのこの曲の演奏をかなり研究しているようだ)。とにかく圧倒されてしまい、この大ピアニストをもっと聴いてみたいと思った。

 だが、当時、すなわち、1980年代の初めにはそれは無理なことだった。日本で手に入る録音など皆無に等しかったのだから。いや、日本だけではない。外国でも果たしてどれだけの音源が当時入手可能だったことだろうか。現役のLPは基本的には現役の演奏家のためのものだったのである(もちろん、過去の名演奏家の録音も販売されていたが、よほど「売れる」もの以外は「ついで」であった)。

 ところが「商品」として過去の録音に価値が見出されたり、CD時代になってディスクの製造コストが下がったりして、あるいはその他にも理由があったのだろうが、ある時期から昔々の名演奏の録音が容易に入手できるようになった。そして、インターネットがそれに拍車をかけた。

 というわけで、上にあげたような録音がかんたんに聴けるようになり、以前ならば文字情報で「隔靴掻痒」にしか知りようがなかった演奏のありように(録音によるものだとはいえ)実際に触れ、その技芸を味わうことができるようになったわけだ。

さて、今現役の演奏家たちの録音がたとえば「生誕150年」を迎えたときにこのホフマンのように聴かれているだろうか? もちろん、現在にもすばらしい演奏家はそれなりにいるに違いない。が、そもそも演奏家の数とその録音の数がホフマンの時代に比べれば格段に多いので、相当熾烈な競争が繰り広げられるそうだ(また、インターネット環境も今と同じだという保証はどこにもない)。

2026年1月16日金曜日

ファリャの生誕150年

  今年生誕150年の大物のことをすっかり忘れていた。それはマヌエル・デ・ファリャ(1876-1946。ということは、今年没後80年でもある)。言うまでもなくスペイン近代音楽の巨匠だ。

 もっとも、私がファリャの音楽をほんとうに愛するようになったのはそう昔のことではない。たとえば、名作とされる《スペインの夜の庭》などは、ある時期まで今ひとつ好きになれなかったくらいだ。

 が、今は違う。幸い国内版の楽譜がいろいろ手に入るようになり、それらを眺めつつ作品を聴いていると、この作曲家のあまりに渋い技と芸に魅せられずにはいられない。

 残念ながら日本語で読めるファリャ文献はほとんどない。以前は興津憲作『ファリャ 作品と生涯』(音楽之友社、1987年)があったが、版が途絶えて久しい。となると、この記念すべき年に新たなファリャ本が刊行されるか、少なくとも興津本が復刊されるかして欲しいところだ(以前、Nancy Lee HarperManuel de Falla : his life and musicLanham, Md. : Scarecrow Press , 2005)をぱらぱらとめくってみたときに、「これは誰かが訳してもよいのになあ」と思ったが、昨今の出版事情では難しいかもしれない)。  

 

2026年1月12日月曜日

メモ(152)

  広義の「調性」が「中心音を持つ」という意味だとすれば、当然、機能和声の成立以前の旋法音楽や解体以後のある種の音楽もその射程に含まれることになる。そして、この意味で調性という語が用いられる場合も少なくない。

 が、そうはいっても、やはりこの語は「機能和声に基づく音楽」という意味で用いられる場合が圧倒的に多い。それはおそらく、用語がきちんと整備されていないからであろう。ならば、時期による「調性」のありようの違いを示す語を付け足せば、この問題は改善されるのではないだろうか。

 そこで試案を示したい。まず、機能和声に基づく音楽の場合には「機能調性」とし、それ以前の時代の旋法音楽の場合には「未(あるいは「前」)機能調性」、そして、以後の時代のある種の音楽については「脱機能調性」とすれば、どうだろう。

2026年1月10日土曜日

ちょっとしたファンタジー

  ロマーン・インガルデン(1893-1970)の「音楽作品の同一性」についての論において、音楽作品とは「さまざまな現実化の可能性の束である」(福田達夫の論文「演奏の美学のために」での表現)だとされる。この場合の「現実化」とはそのつどの演奏や聴取のことであり、それによって作品の不確定なありようがあくまでもその場限りのものとして確定されることになる。

最近、ふと思ったことだが、こうしたインガルデンの論はどこか量子力学でいう「重ね合わせ」と「観測問題」を連想させる。もちろん、両者の論が全くの別物であることは重々承知している。ちなみに、インガルデンがその論を構想・執筆しはじめた時期(論の末尾には「パリ1928―ルヴフ  1933―クラクフ 1957」と記されているが、この日付のうちのはじめの2つ)はまさに量子力学がかたちをなしていった時期とほぼ一致する。くどいようだが、だからといって両者に直接の繋がりがあるということでは断じてない。が、その時期の一致ということに、私は面白い偶然以上のものを感じてしまう。