2026年7月26日日曜日

いろいろ

  先日、ベートーヴェンの田園交響曲を聴いていたときのこと。第5楽章が始まってしばらくしてから急に「この主題はまあ、何と不思議な旋律であることか」と感じた。ほとんどが分散和音でできており、お世辞にも美しい旋律だとはいえない。が、その何とものびやかなさまに聴いているこちらの心身も自然と同調してしまうのだ。それはこの主題に限らず、この楽章全体がそうであるし、他の楽章も概してそうだ。ベートーヴェンというと堅固な構築性が取りざたされることが多いが、この田園交響曲のような「のびやかさ」や「大らかさ」を持つ作品も少なくない。そして、今の私はむしろそうした面でベートーヴェンを好ましく感じている。

 

 このところ、改めて「楽曲分析」とは何かを考えている。それは結局のところ「何をわかりたいか」に応じてさまざまなかたちを採る(採らざるを得ない)ものであり、何か1つの「基本的な」流儀なるものがあるわけではない。だから、仮に楽曲分析について概説書のようなものを書くとすれば、対象に応じて変わりうるさまざまな流儀を併記し、「こんなふうにもできるんですよ」という例をあれこれ示すことができるのみだろう。

 

 ‘Als ich mein neues Klavier bekam’――これはフリードリヒ・グルダがギムナジウムの4年生のときに書いた作文の題名。我が家でも今日、まさに同じことがあり、とてもうれしい。中古だがとてもよい状態のもので、これからピアノを弾くのがいっそう楽しくなりそうだ。ともあれ、家族や今回の件でご縁のあった方々に心から感謝を。

2026年7月24日金曜日

メモ(160)

  ジョン・ケィジがサティの《ソクラテス》に基づく《チープ・イミティション》を書いたのは、著作権の都合で前者の編曲をバレエに用いることができなかったからだ。が、だとすると、後者は前者の「編曲」だとはみなされなかったことになる(もし、みなされていたならば著作権料を支払わねばならなかっただろう)。まあ、それは当然と言えば当然のこと。両者の譜面(ふづら)は大きく異なっているからだ。

 では、ケィジの「偶然性」による作品の制作に用いられたアイディアを拝借したとすればどうか。この場合も、結果としてできあがる譜面が全くの別物になるはずである以上、「編曲」とはみなされまい。が、ケィジ作品のある種のものでは、楽譜によるアウトプットに負けず劣らず(場合によってはそれ以上に)元のアイディアが重要であり、作品のアイデンティティに関わっている。となると、そうした「拝借」はcopyrightは侵していないが、authors’ rightsは侵しているのだと考えることもできよう。もちろん、ケィジはそんなことには拘らなかっただろうが。


 今年の夏もとにかく暑い。すると、音楽どころではなくなってくる。が、逆にこんな季節だからこそ聴きたくなるものもある。ケィジの音楽もそうしたものの1つだ。 

2026年7月21日火曜日

中野慶理先生の演奏動画

  私が尊敬し、敬愛するピアニストである中野慶理先生からご自身のリサイタルの一部を収録した動画がアップされていることをお知らせいただいた(https://www.youtube.com/watch?v=x3zzREeodYY)。そこでさっそく拝聴したが、やはりすばらしい。選曲は硬軟取り混ぜたものだが、いずれもその作品にふさわしい表現がなされており、とにかく引き込まれてしまった。

 最初の草野次郎《「宵待草」の主題によるパラフレーズ》はご存じの名曲に基づくものだが、なかなかの難物だ。というのも、多彩で繊細かつ微妙な表現をピアノから引き出せる人が弾かないと、甘ったるくてだらだらした曲になってしまいかねないからである。が、もちろん、中野先生の手にかかればそんな心配はない。原曲の持つ魅力を巧みにパラフレーズした作曲者の技とそこから生まれた豊かな音楽を存分に味わわせてもらった。

 続くショパンの《幻想曲》もやはり難物である。これも真の意味での技術と音楽性を持たないピアニストの手にかかると見るも無惨な音楽(なんだか同じところをぐるぐる回っているような感じ)になってしまう作品だが、中野先生はこの作品の劇的なドラマを見事に聴かせきった。最後のカデンツの何と感動的だったことか。

 ベートーヴェンの〈ロンド ハ長調〉はピアノの初学者にとってはお馴染みの曲である。が、それだけにただなんとなく通過されがちでもったいない作品でもある。私はなぜかこの曲が大好きなので、今回聴けてとてもうれしかった。先生の演奏を聴きながら、なぜか’Sehnsucht(憧れ)という語が浮かび、最後までそれが頭から離れなかった。それはもしかしたら、子供の頃に自分が音楽に対して抱いた感情の記憶をこの演奏が呼び覚ましてくれたからかもしれない。

 締めくくりの2曲はアンコール演奏であろうか。久石譲の〈もののけ姫〉と〈人生のメリーゴーラウンド〉というお馴染みの映画音楽である。これがまたすばらしかった。もちろん楽曲自体の持つ魅力もある。が、それに加えてこうしたものを何の外連味もなくすっと弾いてみせる先生の技と音楽性の賜物でもあろう。

 ともあれ、抜粋とはいえ、実にすばらしい、そして、素敵な演奏だった。こうしたものを聴くと、今度は久しぶりに演奏会場で中野先生の演奏に接したいものだと強く思う。さて、そのときはどんな作品が取り上げられ、どのような演奏がなされるだろうか。楽しみにその機会を待つことにしたい。

2026年7月18日土曜日

メモ(159)

  管弦楽曲の創作における「管弦楽法」に相当するものを優れたピアノ曲の作曲家は十分に心得ていることだろう。この楽器で奏でられる垂直・水平の両面での音の連なりと組み合わせは多種多様な響きをもたらすわけであり、それを統制する技術力は作品の出来に大いに関わってくる。

音の構成がいくら見事でも、それがピアノという楽器の現実に合わないものであれば、その作品はピアノ曲としては出来がよいとはいえまい(ベートーヴェンのピアノ曲ではたまにそうした頁に出くわす)。逆に、楽譜の音だけを見るならば今ひとつ物足りないように思われる作品でもいざピアノで弾いてみると大いに輝きを増すものもある。

 こうした観点から独奏ピアノ作品とその歴史を精査してみれば面白かろう(もちろん、その場合、時代による楽器の違いを考慮する必要はあろう)。

 

 何かをつくりあげていくには恐るべき時間と労力が必要なのに対し、それを壊すことはあっという間にできる。もちろん、創造的破壊が必要なこともあろう。だが。今この国で繰り広げられているさまざまな「破壊」(反面、本当に破壊されるべきものは一向に破壊されないが……)は果たしてどうなのだろう?

2026年7月17日金曜日

ある面で「人間的、あまりに人間的な」回想録を再読

  先日、旧ソ連出身のピアニスト、ドミトリ・パパーノ(1929-2020)の『回想・モスクワの音楽家たち』(音楽之友社、2003年)を再読していた。著者の恩師アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル(1875-1961)のことや往時のソ連の音楽院や音楽界のありようが活写されており、まことに面白かった。加えて、そこで描かれている「人間ドラマ」も実に興味深い。

著者はあくまでも当事者なので、他者への評価には当然主観が色濃く反映されている。とりわけ、同業のピアニストへの評価は人物評も含めてなかなかに辛辣なものもある。たとえば、上の世代のヴィクトル・メルジャーノフ(1919-2012)に対しては1949 年のショパン・コンクール入賞の時点で実質的にキャリアは終わっている、などと言うのだ。ところが、調べてみるとその判定はどうも厳しすぎるようで、メルジャーノフはそれなりに活躍していた(し、録音を聴き比べると、少なくとも私にはパパーノ以上に優れたピアニストだと思われた)のである。逆に自分が親しいピアニストには随分点が甘い。もっとも、それもこれもひっくるめて、鋭い観察眼を持つ著者の手になる貴重なドキュメントであるとともに「人間的、あまりに人間的な」回想録は面白かった。未読の方には是非、一読をお勧めしたい。

 ちなみに、旧ソ連出身のピアニストで私が興味を持つのは、著者のパパーノよりも上の世代か、もしくはもっと下の世代である。1930年代生まれの同国出身のピアニストの演奏には概ね心が動かない。なぜだろう?

 

  ガリーナ・ウストヴォーリスカヤ(1919-2006)の交響曲をCDで聴いているが、ただただ圧倒されるばかり(たとえば、次のものなどどうだろう。手持ちのCDの演奏とは異なるが、宇コア付きなので取り上げた:https://www.youtube.com/watch?v=aKOQ1r_zmgs&list=RDaKOQ1r_zmgs&start_radio=1)。そのサウンドは昨今の世情によく合うではないか。

2026年7月15日水曜日

NHK-FMの「コンテンポラリーを聴く」を聴きはしたものの

  先週はNHK-FMで「コンテンポラリーを聴く」と題して最近の海外で催された「現代音楽」関連の演奏会が取り上げられていた。たまたま付けたラジオでそれを知り、リアルタイムではなく、「聴き逃し配信」を利用して都合のよい時間に聴いていた。日曜朝に放送されている「現代の音楽」の番組づくりが低調極まりなくて聴くのを止めてしまっていただけに、この「コンテンポラリーを聴く」はなかなかに貴重な放送であった。

 さて、そこで取り上げられていたのは基本的には近年の作品なのだが(中には過去・現在の大家の作品も含まれてはいたが)、その多くはいわば「音響のコンポジション」あるいは「音響デザイン」の作品であり、まあ、それなりに耳を楽しませてくれるのだが、自分にとってはそれ以上のものではなかった(中にはつまらなくて途中で聴くのを止めた作品もいくつかある)。理屈抜きにこちらの心を鷲掴みにしてくれるような作品に出会いたかったのだが、残念ながらそれは今回叶わなかった。とはいえ、こうした番組はこれからも聴きたいと思っている。「よき出会い」を求めてのことだ。もっとも、そのために日々番組表をチェックしようとまでは思わない。あくまでも偶然の出会いに任せるつもりだ。 

2026年7月13日月曜日

何とも摩訶不思議で面妖な響き

  ニコライ・ロスラヴェツ(1881-1944)のピアノ曲をまとめて聴き、とりわけ次のものに驚いた:https://www.youtube.com/watch?v=GlpxNRipo_Q&list=RDGlpxNRipo_Q&start_radio=1

何とも摩訶不思議な響きではないか(もっとも面妖なのが第2曲。5’37”当たりからのもの。なお、私がCDで聴いたのは別のピアニストの演奏。それにもかかわらずこの動画をあげたのは、楽譜を見ることができるからだ)。ピアノからこのような響きをロスラヴェツは早くも1914年に引き出していたのである。

 ロスラヴェツの名は1980年代にすでに目にしており、作品も12曲はその時期に聴きはしたが、そのときにはそれ以上の興味・関心をそのときは持てなかった。その後も、散発的にピアノ曲に触れてはみたものの、やはり心は動かない。ところが、先日、「ピアノ曲全集」のCDを聴き(第2曲の演奏:https://www.youtube.com/watch?v=l0_CYM1P5uQ&list=RDl0_CYM1P5uQ&start_radio=1、「これは凄い!」と今更ながらに思ったわけだ。いったいどうやったら、あのような響きをピアノで生み出すことができるのか……。

 もっとも、このような作風ゆえにロスラヴェツは革命後のソ連で大きな方向転換を迫られることとなり、不遇の後半生を送ったようだ。もし、彼が祖国に早々に見切りを付けて国外に出ていたら、果たしてどのような作品を書いていただろうか?