2026年6月25日木曜日

関口存男『冠詞』への格好の手引き

  希代のドイツ語学者関口存男(1894-1958)の著書にはあれこれ目を通してきており、言語というものの面白さと奥深さを教えられてはきたが、主著『冠詞』全3巻には手を出しかねていた。内容があまりに高度だからだ(いちおうぱらぱらとめくってみたことはあるので、そのことはわかる)。が、やはりこれはいつかきちんと読んでみたいとずっと思っていたところ、格好の手引きが見つかった。細谷行輝 監修 / 内堀大地 責任編集『冠詞の思想[改訂版]―関口存男著『冠詞』と意味形態論への招待―』(三修社。2026年)がそれだ(https://www.sanshusha.co.jp/np/isbn/9784384061901/)。同書は2016年に出たものの改訂版なのだが、初出のときに「そのうち読んでみなければ」と思っているうちに版切れになってしまったもの。だが、幸いにも今年になってその改訂版が出たことを知り、さっそく手にとってみたのである。

 読み始めて、関口の冠詞論の射程の広さと深さに改めて圧倒されるとともに、「よくぞ、ここまで整理整頓してくれました!」と思わずにはいられない。それほどに原著の記述は難しいからだ。が、この『冠詞の思想』があれば、今度こそ『冠詞』の最後までたどり着けるような気がする(もちろん、「目を通してみた」のレヴェルに留まるものではあろうが)。それによって自分のドイツ語読解力を高めることよりも、「言語」というものの奥深さをもっと知り、味わいたいという気持ちの方が強い。そして、それはおそらく異文化としての西洋音楽についての自分の理解を深めることにも繋がるはずだ。

 

 『チェロ湖』を読了してから、文学熱が再燃している。そこで昔々読んだ(だけの)ものをいろいろ再読し始めているが、それで改めて思うのは「ある種の文学作品を味わうにはある程度の人生経験が必要である」 ということだ。もちろん、そうした「経験」は人それぞれである。が、とにかく生きてきた中で自分が直接見知った事柄が作品を読む上で深みと広がりを与えてくれるわけである。だから、「再読」とはいいながら、実は「初読」のとき以上の新鮮な驚きや感激がそこにはあり、楽しくて仕方がない(同じことは音楽作品についても言える)。

2026年6月19日金曜日

いしいしんじ『チェロ湖』を読了

  いしいしんじ『チェロ湖』(新潮社、2025年:https://www.shinchosha.co.jp/book/436305/)を読了した。同書の存在は妻に教えられたのだ(妻はそれを愛読している某氏のブログで知ったとのこと)が、「よくぞ教えてくれた!」と感謝感謝。およそ900頁にも及ぶ大作であり、読むのにけっこう時間がかかったが、それはまことに幸せな時間だった。

 感想は次の一個に尽きる――「胸が一杯になった」。もちろん、読みながらさまざまな思いが心に浮かんだが、それを整理整頓して文章にしてしまうと、どこか嘘が混じってしまうような気がしてならない。研究書・論文やその類の読み物、あるいはノンフィクションならば「読んだこと」はきちんと言葉で整理すべきだが、文学作品には必ずしもその必要はあるまい。 

 ともあれ、『チェロ湖』を読み終えたときの思いを一言で集約すると先に述べたものになるわけだが、そうした「思い」はもしかしたら、音楽ならばもう少し細かく表現できるかもしれない。そして、それはいずれ《チェロ湖》と題するチェロ独奏曲に結実するかもしれない(自分の「趣味の作曲」では大したものはできそうにもないが、それでもよいのである)。

2026年6月9日火曜日

急にウストヴォーリスカヤが聴きたくなって

  なぜだか急にガリーナ・ウストヴォーリスカヤ(1919-2006)の音楽が聴きたくなり、手持ちのCDを取り出してきた。ピアノ作品を収めたものである。最初の収録曲は《12の前奏曲》(1953)(https://www.youtube.com/watch?v=90gYt43IljA&list=RD90gYt43IljA&start_radio=1)だが、これが最初の音から頭にぐさっと突き刺さってくる。全くむだのない、少ない音で言いたいことを余すところなく言い切ってしまうこの音楽にはとにかく圧倒されてしまう。彼女のピアノ曲は全部で90分強なので、1回の演奏会に十分収まる。というわけで、誰か近場でやってくれないかなあ。

 

 大野眞嗣『「響き」に革命を起こすロシアピアニズム』(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、2019年)を大学図書館で借りて読んでみた。日本における「ロシアピアニズム」の旗振り役の1人の著書であり、それなりに面白かった。とりわけ、日本のピアノ教育の問題点がいろいろと指摘されていたが、それは十分に頷けるものであった。また、「ロシアピアニズム」というものについての自分の知識の欠如を補ってくれる点でも有益であった。

 が、それはそれとして、気になることもある。著者はコンクールの勝者数をあげ、「音楽の本場ドイツでもロシア人教授が増加」(前掲書、155頁)といった現状(のあくまでも一端)を示しつつ、「ピアニズムの本場はすでにロシアにある」(同、154頁)と言う。また、「ドイツ系やフランス系のピアニズムで弾いているピアニストが、ラフマニノフやスクリャービンを弾こうとしても、十分に表現できない」(同、69頁)と述べる一方で、「ロシアピアニズムはあらゆる作曲家の作品に通用する」(同)と宣う。こうした件を読むと、なんだか「ロシアピアニズム帝国主義」宣言のようでむずむずしてくる。コンクール勝者数の件についていえば、「なるほど、そういえばある時期からどのコンクールでも似たような演奏ばかりになり、音楽がつまらなくなったなあ」と合点がいくし(もちろん、これは「コンクール」というもの自体にも問題があろう)、「ロシアピアニズムに拠っているというわけではないドイツ系やフランス系、そして日本人のピアニストが弾くロシアものの中にも十分面白いものがあるのに……」と思わずにはいられない。同書はいろいろと有益な情報や知見を含んでるのに、これでは読者にそっぽを向かせてしまう。もったいないことである(ちなみに私は「ロシアピアニズム」自体については興味がある。数ある流派の1つとしてだ。それだけにその特徴をもっと精確かつ客観的に論じてくれる人の登場に期待している)。

 ところで、著者は「日本人にしかできない演奏を」(同、215頁)ということを述べているが、これには日本の音楽家のありようの1つとして大いに頷ける。著者の演奏をいくつか聴いてみたが、たとえば次のものなどは全くの「日本語的演奏」である(https://www.youtube.com/watch?v=TN1GKcG2L4g&list=RDTN1GKcG2L4g&start_radio=1)。平均的な日本人の演奏よりも響きが豊かなので、その分「演歌」度も高まっているわけだが、これはこれでありだと思う(決して皮肉でこう言うのではない。なるほど私の好みの演奏ではないが、これをよいと感じる人もいるに違いない)。

2026年5月31日日曜日

メモ(157)

  「論理」や「合理性」が決して「普遍的」なものではなく、「文化的なもの」であり、日本でのそれが諸外国でのそれと異なるものである(渡邊雅子『「論理的思考」の文化的基盤』、岩波書店、2023年)とすれば、日本人の西洋芸術音楽の作曲や演奏にもそのことが何かしら反映されていることだろう。いくら彼の地の流儀で学んだとしても、消し去ることのできない「地」の部分が残り続けるのではなかろうか。これはプラス、マイナスの両面で探られてしかるべき問題だと思う。

 

 すばらしい演奏だ:https://www.youtube.com/watch?v=dQNS2qlFo7U&list=RDdQNS2qlFo7U&start_radio=1。こうしたものを聴くと、たんに奏法の違いだけではなく、音楽というもの自体に対する認識のありようが何かしら現在のピアニストとは異なっているのではないかと思われてならない。もちろん、現在の人だからこそできる何かもあるわけではあるが。 

  

2026年5月26日火曜日

ソニー・ロリンズが亡くなったとのことだが……

  ソニー・ロリンズが亡くなったとの報道を目にする。もうすでに亡くなっていたと思っていた(失礼!)ので驚いた。95歳だったとのことだから。ジャズ・ミュージシャンにしては長命であろう。

ロリンズには関心はあったものの、ずっと先延ばしになっており、手持ちのCD1枚(しかも、コールマン・ホーキンズとの共演もの)しかない。が、その1枚を取り出してきて、随分久しぶりに聴いてみる。ナイスだった。というわけで、いずれやはりきちんと彼の音楽を聴いてみたいと思った。

 

 中立的な立場から「ロシア奏法」なるものについて誰か研究してくれないかなあ。巷で目にする言説は肯定派か否定派かのいずれかの立場からのものであり、そのままでは受け取りがたいところがある(ので、ロシア奏法がどのようなものなのかは私にはまだわからない)。

もし、それほどまでに「ロシア奏法」が独特のものならば、その独特さがどこにあるのか知りたいものだ。また、逆に実はそれが他の国の奏法と根本では大きく異ならないものだとするならば、なぜ今「ロシア奏法」が声高に唱えられるのかが知りたい。ともあれ、この「ロシア奏法」は、その内実のみならず、諸外国での受容のありようも含めて実に面白い研究主題だと思う。というわけで、誰か……。

2026年5月24日日曜日

今更「ブルーズ」とは……

  原語の実際の発音とは異なるかたちで外来語として定着してしまい、もはや変えようのない語は少なくない。音楽関連でもいろいろある。たとえば、今年生誕100年の偉大なミュージシャン、Miles Davisの名は「マイルス」と表記されるのが普通だが、最後のsの発音は/z/が正しい。まあ、これはもしかしたら将来、「マイルズ」と表記されるようになる可能性は皆無ではないかもしれない。というのも、彼の名は必ずしも誰もが知っているというわけではないからだ。

 が、「ブルース」はどうか。気になって調べところ、やはりこれも本来は「ブルーズ」と発音すべき語だった。が、「ブルース」という語の一般の認知度はおそらく「マイルズ」とは比較にならないほど高いだろうから、今更、いや、これからもずっと「ブルーズ」にするのは無理だと思われる。いや、その必要はあるまい。「ブルース」は日本語の語彙に登録されてしまっているのだから。もちろん、そこには意味の変質と拡張が伴っているが、異文化受容とはそのようなものである。そして、そこが面白いとも言えよう。 

 

2026年5月19日火曜日

メモ(156)

  音楽の演奏も一種の「語り」である以上、その語り口、レトリックの巧拙は聴き手の受け取り方に違いをもたらすことになろう。

 ある楽曲が聴き手にとって既知のものである場合、その新たな演奏に対して聴き手は「こうあって欲しい」という聴き方をすでに持っていることが多い。そして、その期待が大きく裏切られることに対して不寛容であることもまた……。だが、レトリックが巧みならば、自分の好みとは大きく異なる演奏であっても、聴き手は説得され、魅了されることもあろう。

 その都度一回限りの演奏行為において、レトリックというものの重要性がもっと考えられ、探られてもよいと思う(まあ、「名人」と喚ばれる人たちはそうしたレトリックをそれと意識せずに実践しているのだろうが……)。