2026年8月22日土曜日

イラン・パペ『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』に蒙を啓かれる

  ご近所図書館でたまたま目に留まったイラン・パペ『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』(早尾貴紀・監訳、河出新書、2025年)を読み、蒙を啓かれる思いがした。同書の著者はユダヤ系イスラエル人なのだが、書名にある問題について冷静かつ客観的な立場から論じ、この問題でイスラエル(シオニスト)が行ってきた(のみならず、現に行い続けている)不正(さらには、彼らを直接・間接に手助けしてきた諸外国の罪)を実証的に描き出している。イスラエルの問題性は自分なりに理解していたつもりだが、恥ずかしながら同書を読むまで、ここまで酷いとは知らなかった。

同書の「監訳者解説」によれば、著者は2006年に『パレスチナの民族浄化』(邦訳あり)という書を著しており、それもまさにイスラエルの悪を剔抉する内容のものなのだが、そのために母国イスラエルに居づらくなって国外に移住せざるを得なくなった(行く先は英国。つまり、自国の権益のためにイスラエル建国に道を開いた国)とのことである。そして、それ以降もパレスチナ問題をさまざまな角度から論じており、その精髄が『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』だという。なぜ、著者はそこまでこの問題を追及するのか? それはやはり、母国の行ってきた(そして、現に行い続けている)不正を改めさせたいとの思いがあるからであり、その根底にあるのは真の意味での同胞愛であろう。だからこそ、同書をこう締めくくるのだ:

 

みずからの過去をありのまま受け入れ、地理的に隣り合わせの国々との近似性を受け入れてはじめて、イスラエルは歴史的パレスチナと中東全体のためのよりよい未来を築く一翼を担えるようになる。生きているうちにその日を迎えたい。それがわたしたちの願いだ(同書、186頁)。

 

 その実現には 当事者のみならず、「パレスチナでのイスラエルの暴力が容認される国際社会(同書、「監訳者解説」、199頁)もまた変わっていく必要がある(同書の監訳者はそうした「国際社会」のありように「日本の政権も世論も荷担してしまっている」(同書、199頁)と述べている。なるほど、大勢としてはそうかもしれない。が、たとえば昨年の国連総会の演説でイスラエルへの自制を説いた石破茂元首相のような立派な政治家もいる――ということは、その支持者も少なからずいる――し、同書のようなものも出版されているわけだから、日本にも変われる可能性はあるはずだ)。国外で活動する著者の一連の仕事はむしろこちらの方に重きが置かれているのかもしれない。

 ともあれ、私も著者同様、いつの日かイスラエルが自らの手で過去をある程度清算し、隣人たちと平和的共存ができる日がやってくることを願わずにはいられない。それが遠い未来のことかもしれないにしても……

2026年8月20日木曜日

ああ、何と美しい音楽

  ああ、何と美しい音楽であろうか:https://www.youtube.com/watch?v=yZ5Nh9pkesE。森本恭正さんの近作、《翳の響き》を聴き、その旋律、響き、造形、そして、それらを貫く精神性、これらすべての美しさ(見事さ)が胸に迫ってきた。とても幸せな気分である。

2026年8月18日火曜日

ヴァレーズの《砂漠》で気分爽快

  久しぶりにエドガー・ヴァレーズ(1883-1965)の《砂漠》(1954)を聴く。私にとってはこれは夏向きの音楽だ。手持ちのいくつかのCDの中からロバート・クラフト指揮のものを選ぶ(https://www.youtube.com/watch?v=3a8KPp-be2U&list=RD3a8KPp-be2U&start_radio=1)。スピーカーから出てくる響きはまことに涼しげに感じられ、気分爽快になった。

 ところで、この作品は器楽による部分とテープに録音した電子音響による部分が交互に演奏される。後者については現在の聴き手にとってはもはや「博物館」の収蔵品のように感じられるだろうが(だからこそ面白いともいえる)、もしかしたらこの録音を収めたLPが発売された 1962年(初演の8年後)の聴き手にとっても些か古めかしく感じられたかもしれない。というのも、そうしたものをつくり出す技術とつくり出される音響のありようは日々どんどん変わっていっていたからだ。

 この《砂漠》の電子音響部分を現代のテイストでリミックスしたら面白いかもしれない。

2026年8月16日日曜日

詐欺サイトに憤慨

  先日我が家に迎えたピアノの機種について調べるためにネットを検索していると、とんでもないものを見つけた:https://greenstar.gibtehee.click/index.php?main_page=product_info&cPath=20&products_id=48680

値段の安さに驚きだが、これは常識ではありえない。そこで注意してこのページを見ていると、おかしな文言が目に入る。曰く「在庫が少ないので、ご注文はお早めに!」。ということは同じ機種を複数台扱っているのか? ところが、下の方を見ると製造番号がきちんとあげられているではないか。言うまでもないが、ピアノは1台ごとに製造番号が異なるわけで、これはますます怪しい。そこで調べてみると、果たして詐欺サイト、つまり、代金を振り込んでも商品を送ってこない詐欺師の手になるものであった(ということは、このピアノ以外の「商品」もすべてそうだということになる)。

 検索してみると、同様な詐欺サイトは複数あった(https://bhfycqot.iyibal.com/index.php?main_page=product_info&products_id=21494。この価格は絶対にあり得ない!)のだが、このA1に関してはどれも同じ製造番号があげられていた。なぜそんなことになるのか? そこでさらに調べてみると、この楽器をかつてきちんとした楽器店が中古品として扱っており、その際ネット上にあげられていたデータを流用していたようなのだ。全く、よくやるよ。まあ、ピアノのような高い買い物、しかも直接自分で試し弾きせずに購うようなことのないものでこうした詐欺に引っかかる人はいないだろうが、もっと安い商品ならば欺される人も少なくないのではないか。ともあれ、見慣れないサイトで買い物をしようとする際にはご用心のほどを。

 ところで、件のサイトがインチキだということを別の点からも断言できる。すなわち、そこにあげられている製造番号のピアノこそ、まさに我が家に迎えたものだからだ(何たる偶然!)。もちろん、きちんとしたところ、すなわち、(おそらく先に述べた「きちんとした楽器店」から購入した人が手放したものを引き受けたであろう)アトリエ・ピアノピアさんからである。そして、このピアノには大いに満足している。製造が1994年だから、それから32年の年月が経つわけだが、状態はまことによく、これまでにこの楽器を弾いてきた方々や扱ってきた方々に大切にされてきたのだろう。このよいご縁にはただただ感謝あるのみだ。それだけに詐欺サイトの件は不愉快極まりない。

 

2026年8月14日金曜日

これは驚き

  先日、読書をしていて、ある件に心底驚いた。内容をかいつまんで言うと次のようになる――日本のあるピアノの大先生(国立の大学で長く教鞭を執った人)が1人の生徒を高校入学時から大学院修了までの9年間教えたのだが、演奏上の悪い癖を直させることができなかった。そのためか、その生徒は演奏家として立つことを断念し教師として生きる選択としたというのだが、その門出にあたって大先生は「生徒の前で弾いてはいけない。もし、弾くときにはそれが『悪い見本』だと断ってからにしなさい」と弟子に言ったという――(いつもなら典拠を示すところだが、そこには実名が書かれており、私は必ずしも個人攻撃をしたいわけではないので、今回は略す)。なるほど、その生徒にピアニストとしてのある種の技術が欠けていたのは確かだろう。が、9年も面倒をみていながら、それを直すことができないというのは、教師の側にもかなり大きな問題があるのではないか。そして、件の大先生にはその自覚が一切ないのだ。これを驚かずにいられようか。

 もちろん、名演奏家は必ずしも名教師ではない。むしろ、逆のことが多いようだ。何となれば、才能のある演奏家は凡人ができないことをさらっとやってのけるが、それだけに凡人がそうできない理由がわからないからだ。その大先生もそうだったのかもしれない。が、少なくとも苦労している生徒の現実は目にしていたわけだから、その手助けをできる別の教師(が仮にいたとすれば、その手)に委ねるという手もあったはずだ。それが無理ならば、もっと早い段階で引導を渡すということもできたであろう。それを大学院修了までさせたあげくに上述のようなことを言うのだから、あんまりだ。

 もっとも、これは日本に限ったことではないようで、もっと酷い話もある。すなわち、フランスのあるピアノの先生は自分の弟子が国際コンクールでの演奏で「極端に不合理な動き」をすることを嘆いておきながら、人から「どうして悪い習慣をやめるように注意しなかつたのか」と「咎められると「身体的な問題点を矯正するのは自分の義務ではない」と答えたという(ピーター・フォイヒトヴァンガー『ピアノにおける音楽的表現のためのエクササイズ』、CLAP2026年、12頁)。つまり、自分が面倒を見るのは音楽面のことであり、それ以外のことは関係ない、というわけだ。

 なるほど、それはそれで1つの考え方ではあろう。が、目の前の生徒が苦しんでいるにもかかわらず、その問題点の解決を手伝わない、もしくは解決に導いてやれないというのは、教師としていかがなものだろうか(上の事例を示したフォイヒトヴァンガーも「それが教師の義務でないとしたら、いったい誰の義務だというのであろうか」(同)と憤慨している)。その問題点に教師が気づいていなかったのならば仕方がない。が、そうではなかったのならば、何もできなかったことを教師は恥じてしかるべきだったろうに(もし恥じていたのならば、大先生がその件を人に語るときにそうした調子があったはずだが、それはなく、生徒の資質の問題にすぎないとみなしていたようだ。そして、だからこそ、平気で人に話せたのだろう)。まあ、大先生の件は昔のことであり、現在の日本ではこのようなことはないであろう、と信じたい…………。

2026年8月11日火曜日

山﨑努『俳優のノート』に読み耽る

  このところ朝の空き時間に読み耽っているのが山﨑努『俳優のノート』(文春文庫、2013年。初出単行本は2000年)だ。これは著者が1998年に新国立劇場で上演された『リア王』で王を演じた際、その準備から上演に至るまでの期間にとられたノートに基づく本である。私には演劇を劇場で観る習慣はなく(興味はないではないが、それに割ける時間もお金もない)、斯界のことはほとんど何も知らないが、だからこそ同書は私にとっていわば「未知との遭遇」であり、まことに面白い。

 だが、面白さの理由はそれだけではない。演劇と同じく音楽もperforming art1つであり、西洋芸術音楽の場合、他者の「作品」を取り上げる場合がほとんどだから、同書を読みながらいろいろなことを考えさせられるのだ。「台本(&演出家)と俳優の関係は楽譜(&指揮者)と演奏家の関係とある面ではパラレルだが、ある面では必ずしもそうではない。では、どこがどんなふうに?」――などなど、ときには読書から離れて考え込んでしまう。が、それがまた楽しい(いずれ機会を改めて、気になった箇所を抜き出してそれにコメントを付けてみたいと思っている)。ともあれ、同書は(アマチュアも含む)音楽に関わる者にとっても有益なものであろう。

2026年8月9日日曜日

真夏のスクリャービン

  今日は林瑛華さんの「スクリャービン ピアノソナタ全曲演奏会 前編」を聴きに大阪の街中に出かけてきた(於:三木楽器 開成館)。林さんは私が現在非常勤で務めている大学での元学生(今から7年前のことだ)。スクリャービンのソナタを主題として修士論文の作成に熱心に取り組んでいたが、当時から「いつかソナタの全曲演奏を!」と目標を掲げており、今や遂にそれを実現しつつあるわけだ(「しつつ」というのは、まだ「後編」が残っているからである)。すばらしいことである。となれば、これは聴き逃せないではないか。

 「前編」たる今回演奏されたのは前半に第1と第5、後半に第7,910番のソナタである。第1番は演奏会最初に持ってくるには(ピアニストにとっても、そして、聴き手にとっても)あまりにヘヴィーな作品であるが、前編と後編の各会に異なる時期のソナタを収め、時系列に並べるとなれば、そうするしかなかったのだろう。まあ、はじめのうちはいくらか演奏は硬かったが曲が進むにつれて次第に調子が出てきたようだったし、聴く側としても耳が馴染んでいった。続く第5番は以前に別の場所で林さんの演奏を聴いたことがあるのだが、そのときよりも格段に「練れた」ものだった。この難曲を力でねじ伏せるのではなく(そうした演奏が少なくない!)、しなやかに音楽づくりを行っており、その点にとても好感が持てた。

 後半は前半よりもさらによかった。林さんの演奏は割とすっきりした軽やかなものだったが、スクリャービンの音楽のある重要な一面をうまくとらえているように思われた。とともに、演奏からは彼の音楽への愛がよく感じられ、それもよい。曲を追う毎に演奏はしなやかさと自由さを増してゆき、最後の第10番はとりわけすてきな演奏だった。

 「後編」は半年後のことだが、その間に林さんは音楽づくりをいっそう深めて演奏に臨むに違いない。楽しみである。