團伊玖磨(1924-2001)が矢代秋雄(1929-76)のことを書いた随筆がある。それは「パイプのけむり」シリーズの第11冊、『重ねてパイプのけむり』(1980)に収められた「雲の行列」と題された一篇だ(以下、引用はすべてそこからのものである)。そこでは矢代との出会いから別れまでが綴られており、なかなか味わい深いものである(ので、興味をお持ちの方はご一読を)。
團が矢代に初めて会ったのは中学生時代のこと。昭和14年だというから、團は15歳、矢代は10歳になる年だったことになる。「暁星の小学生だった」矢代は「幼い指を鍵盤の上に走らせながら、次から次へと自作の小品を弾くのだった」。そして團も「お返しに[……]作曲した許りだった幾つかの歌を弾き語りで歌った」。驚きなのは、それに対する秋雄少年の反応である。曰く「アンリ・デュパルクの影響がありますね」。まあ、これは10歳の少年が言う台詞ではない。しかも、團は当時、まさに「デュパルクの『フィデレー』や『旅への誘い』に影響された歌を次々に書いていた時期だったのである」と言う。
矢代から学んだ者が口々に述べるのは、彼がどんな曲でも知っていて、即座にピアノで弾くことができた、ということだった。おそらく、その「知って」いるは表面的な知識ではなく、作品の中身についての的確な理解を伴うものだったことだろう。
では、そうした広範な作品への知識と理解は矢代の創作にどんな影響を及ぼしたであろうか? もちろん、プラス面での影響も少なからずあっただろうが、たぶん、マイナス面での影響の方が大きかったのではないだろうか。すなわち、幅広く深い教養が創作の邪魔をしたのではないか、ということである(そうした例は彼に限ったことではない。「博覧強記」を謳われる者は創作者としてはたいてい二流、三流である。その点で矢代は数少ない例外だったと言えよう)。何かをやろうとしても、「ああ、これはすでに誰それがしていることだ」ということが矢代にはすぐにわかったであろうし、そうなると独創性を重んじる「芸術」の世界では同じことはもうできない。矢代は寡作家だったが、それには持ち前の完璧主義だけではなく、西洋芸術の音楽作品についての教養があまりに広く深かったことも大いに与っていたのではなかろうか(もちろん、「知らなければ」結果として既存の作品と似たものをつくってしまう危険はあったろうが、そんなことを気にせず思うがままに筆を進められることの方が創作家にとっては遙かに大切であろう)。
