先日「これは驚き」という記事で話題にした「大先生」は「怖い先生」ということで有名な人だったそうだ。昔はそうした「先生」が少なくなかったようで、怒鳴り散らすのみならず、物を投げつけたり、手を上げたりするなど、「厳格さ」とは全く別の意味でも怖い先生がいろいろいたようである。
そうした「先生」たちは指導に熱が入るあまり、ついついそのように「怖く」なってしまったのだろう。だが、それは精神面・身体面での「暴力」以外の何ものでもなく、決して許されるものではあるまい。普通の学校教育の場などであれば、緊急事態に際して教師の「怖さ」が意味を持つことはありうるが、音楽の専門教育の場で教師がわざわざ暴力的な怖さを発揮する必要がどこにあるというのだろう?
ところが、昨今そうした昔の「怖い」先生のことが再評価されつつあるようだ(たとえば、井口成基)。もちろん、彼らが日本の洋楽受容で果たした役割の大きさは大いに賞賛されるべきだろう。が、そうした「功」とともに「罪」の大きさについても冷静に検証されてしかるべきなのに、そうはなっていない。ということは、今でも程度や規模こそ異なりはしても、同じような「先生」が再生産され続けているのかもしれない。児童虐待を受けた子供がのちに虐待する親になるのと同様に(調べてみると、件の「大先生」の先生もやはり「怖い」先生として恐れられた人であった)。現在は昔のようなあからさまに暴力的に「怖い」先生は減ったかもしれないが、その変種たる「理不尽な」先生はあれこれいるようだ。もちろん、そんな先生ばかりではなく、厳格でありながらも人間として魅力的なすばらしい先生も少なからずいるのは確かだが。
日本の西洋音楽受容研究において、「怖い先生」というのは1つの面白い主題であろう。そうした教師のスタイルが何に由来し、どのようにして受け継がれ、どのような結果をもたらしたのかを冷静に検証することは、現在の西洋音楽実践にとっても意義を持つに違いない。