2026年4月3日金曜日

驚き

  先日聴いていたFM番組でギタリストの山下和仁氏が亡くなっていたことを知った。驚きである。まだ60代半ばだというのに……。

 氏の実演は一度だけ聴いたことがある。随分昔のことで、1980年代前半のことだ。金沢市で催された何かの楽団(こちらは全く覚えていない)の演奏会の独奏者としてジュリアーニのギター協奏曲第1番を弾いていたのである。当時はまだギター音楽にそれほど馴染んでいなかったので、どれだけのことをそこから聞き取れたかはおぼつかないが、とにかく凄い演奏だったことは覚えている。

 私は必ずしも山下氏の音楽の熱心な聴き手ではなかったが、近年、氏の編曲・演奏による《展覧会の絵》に(今更ながらに)衝撃を受け、もっといろいろ聴いてみたいと思っていたところだった。実演に触れることはもはや叶わないが、遺された少なからぬ録音によって、この偉大なギタリストの音楽にいっそう親しむことにしたい。

2026年3月29日日曜日

見事なBGM

  自宅での午後の「コーヒー・タイム」には何かしらCDをかけることしている。ジャンルは問わない。クラシックのこともあればポピュラーのこともある。そして、それらにじっと聴き入ることもあれば、純然たるBGMとなる場合もある。

 今日はヨハン・シュトラウス2世その他の「ヴィーンもの」を収めた、ヴィリー・ボスコフスキー率いる楽団のCDを楽しんだ。概ねBGMとしてである。そして、今更ながらに気づいたのだが、シュトラウスの音楽BGMとしてまことにすばらしい(なお、これは彼の「作品」が傾聴に値しないということを意味するのではない)。これは決して貶してそう言っているのではない。彼の音楽は会話を妨げないし、その途中で不意に耳を傾けてもいつでも耳を楽しませてくれるのだから。いや、実に見事な職人芸である。一流の職人は二流以下の芸術家に勝る。

2026年3月22日日曜日

メモ(153)

  ドビュッシーのピアノ作品を深く味わうには下手でも自分でピアノを鳴らしてみるのがよいのではなかろうか。そうすれば、楽譜を読んだり演奏を聴いたりするだけではわからない響きを体験できるだろうから。

先日も《前奏曲集第2巻》の各曲をピアノであれこれ鳴らしてみたが、その何とも摩訶不思議な響きに改めて驚嘆させられた。もちろん、私ごときの奏でる響きなどはいわばピンぼけ写真のようなものだが、それでも実際に弾いて響きが立ち上る場でしか得られない喜びがある。すると、ドビュッシー演奏に長けたピアニストなどは、まさに「歓喜」のひとときを己の演奏によって味わうことができるのだろうなあ。ああ、うらやましい。

2026年3月15日日曜日

「川口成彦ピアノ・リサイタル」でスペイン音楽(と関連作品)に魅せられる

  昨日はびわ湖ホールで「川口成彦ピアノ・リサイタル」を聴いてきた(https://www.biwako-hall.or.jp/performance/biwa-gogo69)。このところこの若きピアニストの演奏に心惹かれているので、実演の機会を逃さず出かけてきたわけだ。演目は次の通り:

 

(前半)

グリーディ: ノスタルジア( 3つの短い小品』より)

ファリャ: 3つの舞曲( 『三角帽子』より)

プーランク: マヌエル・デ・ファリャの主題によるノヴェレッテ

ペドレル: 夜想曲

アルベニス: 港( 『イベリア』第1巻より第2曲)

ファリャ: 4つのスペイン小品

 

(後半)

ラヴェル: グロテスクなセレナード

ドビュッシー: ビーノの門( 前奏曲集 2 より第3曲)

途絶えたセレナード( 前奏曲集 1 より第9曲)

グラナダの夕暮れ( 『版画』より第2曲)

グラナドス:オリエンタル(『スペイン舞曲集』op. 37より第2曲)

      アンダルーサ(同上第5曲)

ファリャ:ベティカ幻想曲

     火祭りの踊り( 『恋は魔術師』より)ひま

 

(アンコール)

ファリャ:讃歌「ドビュッシーの墓のために」

トゥリーナ:サクロ・モンテ(『ジプシー舞曲集 1集』op. 55より第5曲)

モンポウ:歌と踊り 8

ロドリーゴ:春の子守唄

 

スペイン音楽を好み、かつファリャ作品を愛する私にとってはまことにうれしいプログラム(今年生誕150年のファリャ作品を中心に編まれたもの)であり、川口はエラールの1927年製コンサート・グランドと1864年製のアップライトによって見事に全曲を聴かせきってくれた。

 どの曲の演奏もすばらしかった。世の演奏には聴き手に良くも悪くも緊張を強いるものが少なくないが、川口の演奏はそうではなく、こちらも何ら身構えることなく音楽にすっと入っていけて楽しめるものだった。

 もっとも聴き応えがあったのはファリャの《ベティカ幻想曲》だ(「ベティカ」は「アンダルシア」の古名)。実演ではなかなか聴けない作品だということだけではなく、まさに「幻想」的な(ファリャ特有の「渋さ」を持った)スペイン音楽絵巻を生き生きと繰り広げてくれたからである(まさに「アンダルシアに憧れて」ならぬ「アンダルシアに魅せられて」だ)。

 2台の楽器の弾き分けも実によかった。とりわけ、エラール・アップライトの魅惑の響きは忘れがたい。その楽器によって、たとえばグラナドスの〈オリエンタル〉はこの上なく美しくもどこか悲しく奏でられ、〈讃歌「ドビュッシーの墓[=ドビュッシー追悼]のために〉は何とも切実に――つまり、作曲者がドビュッシーに抱いていたであろう思いがひしひしと伝わってくるような感じがする――響かせられたのだから。

 ともあれ、実にすてきなリサイタルだった。一緒に聴いていた妻は今やすっかり川口ファンだが、私もまた。いつかこのすばらしいピアニストが《イベリア》全曲を取り上げてくれる日が来ますように。

2026年3月11日水曜日

拙い自作品への愛着

  自分の「趣味の作曲」で書いたもののほとんどは捨ててしまった。とりわけ、「現代音楽病」の重症期のものは。だが、ごく若い頃につくったもののいくつかはなぜだか捨てられない。「しょーもない」ものだとはわかっていても愛着があるのだ。

それゆえ、時折、そうした作品に手を入れ直している。今も、40年近く前に書いたピアノ曲をあれこれいじっている。そして、自分で弾くには難しい曲なのでDoricoに打ち込んで聴いてみると、「ああ、これはこれで悪くないじゃないか」と思ってしまう。まあ、あくまでも自分で聴く分のことでしかないが……(以下に最初の頁のみあげておこう。これ以降の中間部が少し込み入っており、自分の演奏技術では「手に負えない」ものになっている)。ともあれ、まことに安上がりな趣味である。


 

 

 今日は大震災の日なので、それに関連したニューズがインターネット上で(とくに検索しなくとも見出しとして)あれこれ目に付く。時計の針は戻しようがないが、過去から何かを学んで未来に活かすことは大切だろう。しかし、だとすると、昨日、東京大空襲についてのニューズが同じように目に飛び込んでこなかったのはなぜだろう?

2026年3月6日金曜日

「演奏会」という語のよそよそしさ

  「演奏会」という語はクラシック音楽にはしっくりくるが、ポピュラー音楽にはどうも合わない。何かしらよそよそしい(さらにいえば、「堅苦しい」)感じがするからだ。そうした音楽にはやはり、「コンサート」や「ライヴ」などの語が似つかわしい。もっとも、実のところ、クラシック音楽に対しても「演奏会」という語はあまり使わないようにした方がよいのかもしれない。

 ちなみに、近年の私はクラシック音楽の「演奏会」という場によそよそしさを感じるようになってきており、年々足が遠のいている。そこで奏でられ、歌われている音楽そのものは大好きであるにもかかわらず……。もちろん、中には聴きに行きたいと思うものや、実際に出かけてよかったものもある。が、そうした「出会い」を必要以上に積極的に探し求めることはせず、得てして「偶々ご縁があった」ものを聴いている。

 今月出かけることになっている唯一の演奏会、もとい、コンサートも妻が見つけてきたものだが、今から楽しみでならない。その感想は後日述べることにしたい。

2026年3月1日日曜日

ケクランの『和声概論』の第3巻がIMSLPに

  今日、IMSLPでケクランのページを見てみると、『和声概論』の第3巻、すなわち、課題の解答編が上げられていた(https://imslp.org/wiki/Trait%C3%A9_de_l'harmonie_(Koechlin%2C_Charles))。

これは第12巻にすでに目を通している人にとっては待望のものであろう。また、この巻だけでも独立して読む(弾いてみる)価値はあろう。

 ついでにあれこれ他を見ていたら、アンドレ・ジェダルジュの『フーガ概論』の邦訳があって驚いた(https://imslp.org/wiki/Trait%C3%A9_de_la_fugue_(G%C3%A9dalge%2C_Andr%C3%A9))。

名著の誉れ高いこの「分厚い」本を日本語で読めるのはありがたいことである。この翻訳を仕上げた篤志家の偉業を心から讃えたい。

 そういえば、ケクランもフーガ教本を書いており、それも「学習フーガ」に関するものだ。これはまだIMSLPにはあげられていないが、いずれ誰かがあげることだろう。私は同書を勤務先の図書館で借りて眺めてみたことがあるが、これもなかなか充実した教本である。

 

 ふと思い立って、Dorico でJ. S. バッハの〈6声のリチェルカーレ〉を「写経」し始めた。声部毎に色を変えてみれば随分読みやすくなるだろうと思ってのことだ。以下にあげるのは声部が6つ出そろったところを含むページである(なお、原譜では2小節一組に記譜されているが、Doricoではどうすればよいかがわからなかったので、この写経ではそうはしていない。また、黄色はタイで繋がれた音で、これはすべての声部に共通。また、大譜表の上段は右手担当、下段は左手担当にしてある):

 

 

 「日本人は現状から未来を予測し、それに対応した『計画』を立てるということが、極めて困難な民族である[……]。目先の発明・工夫は得意だが、根本的な発想の転換をすることは大の苦手である」(井沢元彦『逆説の日本史4・中世鳴動編』、小学館文庫、1999年、416頁)という指摘はおそらく正しい(個人としてはそうした「困難」や「苦手」を乗り越えられる人は少なからずいる(いた)はずだが、社会や組織がそうした個人を無力化してしまうのだろう)。私が直接知るこの国の近過去についてはまさにその通りだと言える。ならば、この先も……。のみならず、今のように国が教育に出し惜しみをしている(出すにしても、余り効果的ではないやり方をしている)ようでは「目先の発明・工夫」さえも怪しくなってくるのではないか。