2026年8月7日金曜日

文楽『まちの灯』に感動

  昨晩はBunraku Summer Festival https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2026/bunrakusummerfestival/)を観に国立文楽劇場へ。演目がチャップリンの名作『街の灯』を翻案した『まちの灯』とあらば見逃すわけにはいかない。そして、これはやはり「大当たり」だった。

 思えば原作の名画を観たのは40年以上前のこと。当時はNHKで昔の映画がしばしば取り上げられており、それでチャップリンの作品や『カサブランカ』『第三の男』その他の往年の名画を知り、楽しむことができたわけである。その中でも『街の灯』は感動的な一本として心に残っていた。その名画を文楽に翻案するとどうなるのか――この点に好奇心はあっても、不安は全くなかった。事実、仕上がりはまことに自然であり、文楽として大いに楽しみ、感動できたのである。

 文楽ゆえに舞台は日本の大阪、登場人物も日本名であり、物語はごく自然に進んでいく。土台は喜劇なので随所で大いに笑わせてもらったし、最後にはじんとくるものがあった。主役の与次郎(!)の人形遣いは桐竹勘十郎だったが、今回、改めてそのすばらしい芸に魅了される。とりわけ大詰めでの微妙かつ繊細な(静止も含めての)動きからは微塵も目を離せなかった(その場面でのヒロインお花の人形遣い吉田勘彌もすばらしかった)。また、五段目から大詰にかけての太夫は豊竹若太夫だったが、これがまた実に見事(客席からは当然のように「待ってました!」の掛け声が……)。最初の第一声で観客を物語の世界へぐっと引き込んでしまい、最後までとらえて放さないのだ(この人ならば、原作の『街の灯』で弁士を見事に務めることだろう)。

 では、「音楽」はどうだったか。この『まちの灯』が翻案ものの新作である以上、音楽(もちろん、太夫の伴奏も含まれる)は新たに書かれねばならなかったわけだが、今回それを担当し、自らも五段目から大詰にかけて出演した鶴澤友之助はこう述べている:

 

文楽がお好きなお客様も、チャップリンがお好きなお客様にも楽しんでいただきたいので、それを意識しました。オリジナルの映画の音楽も匂わすような旋律は少し入れておりますが、基本的には完全に古典の義太夫節です。奇抜ではなく斬新であるように、義太夫節の中に自然に溶け込むように一生懸命考えて作曲させていただきました(https://www.ntj.jac.go.jp/topics/bunraku/2026/bunrakusummerfestival/)。

 

「古典の義太夫節」のなんたるかをまだつかんではいない私に本当の意味で事の成否の判別がつくわけではないが、聴き手としてはその音楽には心から魅せられた。時折、いかにも文楽らしい音楽の中に時折西洋音楽的な要素が入ってくるのだが、それが少しも浮いてはおらず、そのとき舞台で演じられ、そして、語られている事柄にうまく合っているように感じられた。いや、お見事。

 というわけで、とにかくまことに面白く、楽しく、感動的な舞台であった。こうした新作はこれからも機会があれば観てみたいものである。もちろん、古典の演目も。10月には『本朝廿四孝』を観に行くことになっているので、今から楽しみではならない。

2026年8月4日火曜日

メモ(161)

  1週間ほど前にドビュッシーの音楽における「旋律性と音響性の重なり」ということを話題にしたが、このことはいろいろな問題に展開できるだろう。

20世紀後半の「現代音楽」の作曲家の多くはおそらく、ドビュッシーからもっぱら「音響性」の面を学びとり、それが旋律性と二重性を成すことはあまり眼中になかったように思われる(その点、武満徹は少数の例外的存在かもしれない。が、その彼も80年代以降の作品では逆に旋律性が音響性をほとんど覆い隠し、音楽のありようが平板になってしまった)。そのため、彼らの作品には「音響」面での魅力はあるものの、それ以上の「深み」や「広がり」があまり感じられない。たぶん、そうした作品はいずれ忘れ去られることになるのではなかろうか(まあ、遠い将来、発掘される可能性を持つ「名曲」もあるが)。

その点、ご本尊のドビュッシーの作品は時代の移り変わりを経ても、さまざまな「聴かれ方」をされ、末永く生き残ることだろう。そして、その意味で彼の音楽からはまだまだいろいろなことが学べるはずだ。

2026年8月3日月曜日

ハンス・アイスラーの管弦楽曲を楽しく聴く

  ハンス・アイスラー(1898-1962)の管弦楽曲を手持ちのCD(今や生産中止のまことに便利な10枚組)で久しぶりに聴いてみたが、まことに面白い。とにかく「聴かせる」音楽に仕上がっており、その見事な職人芸に打たれる(たとえば、次のものなど:https://www.youtube.com/watch?v=xErSSMF8ruw&list=RDxErSSMF8ruw&start_radio=1)。彼はシェーンベルクの弟子で、「新ヴィーン楽派第4の男」とも言われる人だが、果たして現在、彼の作品がどの程度受容されているのだろうか。

 試しにHMVのショップで調べてみると、CD20点しかない。だが、同門のヴェーバーンの場合はもっと少ない(さすがにもう少しポピュラーなベルクではDVDなども含めて51点あった)。となると、アイスラーだけが冷遇されているわけでもなさそうだ。

 演奏会ではどうなのだろうか。ちなみに、私はヴェーバーン作品は何度か実演で聴いたことがあるが、アイスラー作品は一度もないし、近場の演奏会で取り上げられた例も知らない。もちろん、欧米ではもっと演奏の機会があるだろうが(Wikipediaの日本語版とは異なり、ドイツ語版での「ハンス・アイスラー」の項はまことに充実している)、それほど人気があるわけでもなかろう。

 アイスラーの作風は元々先鋭的なものだったのだが、やがて社会主義に共鳴して(師匠シェーンベルクなどに比べれば)「わかりやすい」ものに転じた。だが、その中身は(私が聴く限りでは)しっかりしており、決して権力や大衆に迎合しているわけではない。それゆえ、「前衛」時代の作品も含めて、もっと演奏されてもよいような気がする(ちなみに、楽譜についてはBreitkopf全集が刊行中)。私の場合、器楽曲の方に興味があるのだが、彼の3曲のピアノ・ソナタを取り上げる演奏会があれば、迷わずに聴きにいくだろう。

 

2026年8月1日土曜日

演奏と演技の違い?

  西洋音楽の「作品」を演奏するとき、演奏者はそれを己の身に引き受けつつも、同時にいくらか突き放している――つまり、自分が現に行っていることを醒めた目(耳)でとらえ、フィードバックを行っている(たとえばブゾーニは何かが憑依したような演奏をしているにもかかわらず、「醒めた目」の必要性を説いている)。

では、役者はどうなのだろう? 彼らは自分の役柄を舞台の上で「生き」ているわけだが、やはり同時に「醒めた目」で己の演技を見ているのだろうか? 私は演劇には暗いので知らないが、何かそうしたことを説いたものがあれば読んでみたい。

 

 新しい(中古)ピアノが我が家に来てほぼ1週間。これからゆっくり時間をかけて楽器を自分に合うように弾きこんでいくとともに、自分の身体を楽器に合わせていくことになる。果たして1年後にそこから産み出される音はどう変わっているだろうか。

2026年7月30日木曜日

Me too.

  今日、妻が述べた言葉――「地震が心配で心ざわつきますが、自分が幸いにも日常の暮らしを営むことが出来るならばそれぞれに精一杯仕事をこなし、あとは黙ってどこかで支援をする。それに尽きるのではないだろうかと過ごしています」。私もそう思う。

2026年7月29日水曜日

珍しくも二晩続けて

  とことん出不精の私だが、珍しくも二晩続けてお出かけを。

 

 昨晩は夫婦で「阪大コレギウム・ムジクム「楽器再発見」映画上映&ワークショップ」(https://musicologyosaka.wordpress.com/2026/07/17/%e3%80%90%e7%ac%ac26%e5%9b%9e-%e9%98%aa%e5%a4%a7%e3%82%b3%e3%83%ac%e3%82%ae%e3%82%a6%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%83%a0%e3%82%b8%e3%82%af%e3%83%a0%e3%80%8c%e6%a5%bd%e5%99%a8%e5%86%8d%e7%99%ba%e8%a6%8b/)。今回の司会者が旧知の森本恵一さんであり、そこで取り上げられた楽器にも興味があったし、このところ拙宅の楽器についていろいろお世話になっているPIANOPIAの小川瞳さんも出演するとなれば出かけないという手はない。映画はすでに昨年に観ているのでワークショップのみ参加したが、とても楽しかった。小レクチャーも充実していたし、いろいろと楽器に触れられたのもよかった。旧知の方何人かとお話もできたし。ともあれ、企画・運営に関わった方々に心から御礼申し上げたい。

なお、この「阪大コレギウム・ムジクム」の存在はこれまで全く知らなかったのだが、何か面白そうな会のときにはまた参加してみたいものだ。好奇心一杯の音楽愛好者の方々にもお勧めしたい。

 

 今晩はザ・フェニックスホールで「フェニックス・エヴォリューション・シリーズ114

トリオ・エクス×ブラームス ~3つの第2番、円熟の響き~」(https://phoenixhall.jp/performance/2026/07/29/25093/)を聴いてきた。前から楽しみにしていたのだが、その期待は十分に満たされた。

 演奏会前半にはブラームスのチェロ・ソナタとヴァイオリン・ソナタの、そして、後半にはピアノ三重奏曲のそれぞれ「第2番」が取り上げられていたのだが、断然後半がすばらしかった。前半のソナタもなかなかよい演奏だったが、些かきれいにまとまりすぎているきらいがなくなかった。それに対して、三重奏曲では表現がもっと大胆かつ繊細なものとなっており、その説得力のある演奏にはその3人が一緒に演奏することの意義がまことにはっきりと示されているように感じられた。よい音楽を聴かせてもらい大満足である。演奏者と関係者の皆様、どうもありがとうございました。

2026年7月27日月曜日

ドビュッシーの音楽における旋律性と音響性の重なり

  ドビュッシーは自分の音楽が「旋律を廃止したもの」として賞賛されていることに驚き、それが「ただ旋律であろうとしてしかいない」と声を大にして異議を唱えたという。では、賞賛者たちはドビュッシーの音楽のありようを根本的に見誤ったのだろうか? そんなことはないと私は思う。なるほど、「旋律を廃止」というのは言い過ぎだったかもしれないが、そう受け取られても仕方のない面がそこにあったのは確かだろう。すなわち、彼の音楽は旋律を構成要素の一部として包含する「音響(サウンド)」としても聴かれたに違いない。

 おそらく、このことは次のように考えればよいのではなかろうか――①ドビュッシーの音楽は「旋律性」と「音響性」を重ね持っている。②両者の程度は作品によって、また、1つの作品の中でも場面によって異なっており、それが音楽に多彩さ、広がりと深みをもたらしている。③そして、そのことが作品の理解・解釈にかなりの幅の大きさを生み出している(すなわち、旋律性と音響性のどちらに注目するかによって作品の見え方(聞こえ方)が大きく異なってくる)――というふうにである。