2026年10月15日木曜日

さよなら『パイプのけむり』

  今、團伊玖磨(1924-2001)の『パイプのけむり』シリーズを読み直している(現在全27巻中の第6巻)。これで何度目になるだろうか。もしかしたら、氏の本業たる音楽の作品よりもこの余技の産物たる随筆集の方に自分はいっそう親しんでいるかもしれない。

 とはいえ、たぶん、今回の読み直しが最後になると思っている。これまでにもう十分堪能したからで、これ以上再読に時間を割く必要を感じないからだ。しかも、今の読み直しにしたところで、必要な事柄を「拾い読み」しているにすぎない。これが済めば同シリーズ(最後の第27巻の書名は『さよならパイプのけむり』)には「さよなら」である。今まで随分楽しませてもらったことに感謝。

 

 手持ちのCDで池辺晋一郎のシンフォニー第6番「個の座標の上で」(1993 )を借りてきたスコアを眺めつつ聴き直してみたが、まことに面白かった。30分近い演奏時間を要する作品なのだが、その音楽のドラマには説得力があり、今回はじめて面白いと思えた(今まで何を聴いていたのだろう?)。そこで池辺の他のシンフォニー(この表記は作曲者自身によるもの。第1番のみ「交響曲」と表記されている)への興味が俄に生じた。今のところ第11番まであるようなので、少しずつ聴いてゆきたい。

 

2026年10月13日火曜日

ユニゾンの音階と分散和音

  ピアノ学習においては音階と分散和音は必修項目とされる。それらは音楽の中で重要かつ出現頻度の高い構成要素なので、これだけを取り出して練習することは確かに「合理的」だとはいえる。

 だが、時折、「自分は音階の練習など一切しなかった」と宣うピアニストもいる。たとえば、レオポルト・ゴトフスキ(1870-1938)がそうだが、彼は基本的には独学の人だった。にもかかわらず、あれだけの超絶技巧を身につけたわけだから、いわゆる「天才」であり、そのような人の事例は参考にはなるまい。とはいえ、彼ほどではないピアニストでもやはり「自分は……」と言う人もいないではなく、それは結局、実際の作品を練習する中で音階を弾けるようにしたということなのだろう。

ところで、その音階や分散和音の練習だが、得てしてオクターヴのユニゾンでなされているようだが、このやり方については批判もあるようだ。というのも、両手のつくりは左右対称なので、ユニゾンだと同時に異なる動きをしなければならず、それだけ注意が分散されるからだろう。ならば、わざわざ両手でユニゾンを弾くよりも、注意深く片手ずつ練習し、その動きに習熟する方がいっそう合理的だというわけだ。

さらにいえば、両手ユニゾンの音階や分散和音が実際のピアノ作品の中にどれだけ出てくるかと考えてみると、意外に多くはないことに気づかされる。協奏曲や室内楽曲ならば他の楽器が絡んでくるのでピアノがユニゾンの音階や分散和音を弾いてもさまになるが、独奏曲の場合には一人ですべてをこなさなければならないわけなので、自ずと使用場面は限られざるをえない(音階よりも分散和音の方が使い道が些か多いということはあるにしても)。となれば、音階が分散和音をすべての調で機械的にドリルのように練習するよりも、実際の作品に即して練習する方が実際的だし、「音楽的」だと思われるが、どうだろうか。それとも、こうしたやり方は非効率的だとして却けられるべきものなのだろうか?

2026年10月10日土曜日

モーリス・オアナへの興味

  以前から些か気になっている作曲家の1人にモーリス・オアナ(Maurice Ohana, 1914-92)がいる。「フランスの作曲家」ということになってはいるが、生まれは当時フランス領のモロッコで、両親はアンダルシアのユダヤ人。父が英国の市民権を持っていたのでオアナ自身もそれを受け継ぎ、第二次大戦時には英国の軍務につく。戦後にはパリに移住し、そこを拠点に活動したものの、正式に市民権を得たのは1976年のことだった。

このような経歴のゆえだろうか、オアナの音楽は、フランスに生まれ育ってパリ音楽院その他の音楽学校で学んだいかにも「フランスの作曲家」らしい人たち(たとえば、同世代でいえばアンリ・デュティユなど)の音楽とは何かが大きく異なっている。

さて、オアナはピアノ演奏にも秀でており、作曲家として立つ以前にピアニストとして活動していた。そして、その才能を認めたアンドレ・ジッドは『ショパンについての覚え書き』を書く際にオアナに協力を求めたという。そんなオアナの作品の1つにピアノのための《24の前奏曲》(1973)がある(https://www.youtube.com/watch?v=SOAOcJMVFQk&list=OLAK5uy_mQoXfVTYaPL7l3Zyg5FcwJtutlsA-c3hc&index=5)が、当然作曲者はショパンの同名の作品を意識したに違いない(もちろん、両者の作風は全く異なるが)。このオアナの前奏曲集を近場の演奏会で取り上げてくれる人がいないかなあ。

 

2026年10月8日木曜日

危機は好機?

  現在のAIならば、「○○風の曲」をかなりの精度で書くことができよう(「○○」は作曲家名)。商業音楽ならば用途によっては実用に耐えるものができるようになってきている。

 すると、芸術音楽においても、早晩、同じようになるかもしれない(もしかしたら、すでにそれだけの作品を産み出してるのかもしれない)。となると、「人間」の作曲家には生き残りの術はあるのか?

 可能性として1つ考えられるのが、20世紀に生じた「作曲と演奏の分業化」を廃して、19世紀までのように「作曲家本人が自分の作品を演奏する」というかたちに戻すという手である。本人が自分の作品を奏でることまではAIが取って代わることはできないからだ。

 そして、もし、そのように「作曲家の自作自演」というかたちが普通になれば、いろいろな意味で作曲家は自身以外の演奏家や聴き手との関係を再考しないわけにはいかなくなるに違いない(たとえば、「演奏不可能」に近い楽譜を書いて涼しい顔をしていることなど、もはやできなくなる)。

 なるほど、AIは作曲家にとって驚異かもしれない。が、そこには逆にイノヴェイションの好機が潜んでいるかもしれないのだ。

2026年10月6日火曜日

ベートーヴェンの《バガテル集》を楽しく聴いている

  このところベートーヴェンのピアノの《バガテル集》(作品33、119、126)を好んで聴いている(手持ちのCDとは異なる演奏だが、名演:https://www.youtube.com/watch?v=GVl9txM-baE&list=RDGVl9txM-baE&start_radio=1)。それはまさにベートーヴェン一流の「奇想の玉手箱」だ。そうした「奇想」はソナタのような曲にも含まれてはいるのだが、《バガテル集》ではそれが直截かつ生々しく示されており、そこが面白い。こうした音楽をピアノ学習者が早い時期に知れば、同じ作曲家のソナタに対する見方もかなり変わるだろうに。 

2026年10月3日土曜日

マイルズの繊細な抒情性

  マイルズ・デイヴィス(1926-91)のアルバム『マイルズ・アヘッド』(1957)を随分久しぶりに聴いてみた(https://www.youtube.com/watch?v=6eDH5x0k9XU&list=RD6eDH5x0k9XU&start_radio=1)。ギル・エヴァンズの名アレンジは何ともcoolで、そこにマイルズの繊細で抒情的なプレイが絡むさまは何とも美しい。私がマイルズの音楽を好む理由の1つはこの「繊細な抒情性」だが、それは後年の彼の音楽でも失われることがなかったように聞こえる。

 

 ふと気になって吉田秀和がセザール・フランクを論じた比較的若い頃の文章を読み直してみた。が、一読後、私にとって彼は完全に「日本の洋楽受容史上の登場人物」になってしまったことを(以前から薄々感じてはいたのだが、今回は今更ながらに)痛感させられる。今後、私が吉田の書物を繙くことがあるとすれば、歴史の一齣を見るための史料としてでしかありえまい。

2026年10月1日木曜日

メモ(164)

  普通の生活の中で伝統邦楽に自然に触れられる機会の多かった世代の作曲家と、そうではなかった世代の作曲家の「日本(語)歌曲(オペラ)」を比べてみたら面白いと思う。伝統邦楽は日本語に節付けする際の重要な参照点であるとともに大きな縛りでもあったろうが、それを強く意識せざるをえなかった世代と、そうではない世代の「歌曲(オペラ)」には何かしら違いが見つかるのではなかろうか。