2026年7月11日土曜日

いずみシンフォニエッタ大阪の第56回定期演奏会

  今日はいずみシンフォニエッタ大阪の第56回定期演奏会を聴いてきた(https://www.izumihall.jp/schedule/20260711)。演目は以下の通り:

 

 前半

リゲティ:100台のメトロノームのための交響詩 *

エトヴェシュ:リゲティ牧歌(日本初演)

ワーグナー:ジークフリート牧歌 

 

後半 

アザラシヴィリ:チェロ協奏曲

グバイドゥーリナ:音楽の玩具箱(2024室内管弦楽版/日本初演)

 

またしても実に面白い選曲である。とりわけ前半がすばらしかった。

 その前半だが、最初のリゲティ作品はまことに馬鹿馬鹿しい(褒め言葉!)もので、曲名にあるように100台のメトロノームが用いられている(それを操作するのはシンフォニエッタの楽員と指揮者)。それらは皆テンポが異なっており、最初はまさに混沌に始まり、次第に稼働するメトロノームの数が減っていく中でその混沌も収まってゆき、最後には1台のみが残る。照明などの演出上の工夫も相俟って、全体として何ともシュールかつ(相当にブラックな)喜劇的な光景が現出したわけだが、この面白さはやはり実演でないと味わえないだろう。というわけで、そうした場に立ち会えて大満足である(まあ、こうした作品の場合、この1回で十分ではあるが)。

 続くエトヴェシュ作品もまた相当に喜劇的であり、これも最後までしっかり楽しませてもらった。それはいわば「ドタバタ喜劇」とても言えるもので、めまぐるしく場面転換がありながらも聴いていて少しもだれないのだ。中にはリゲティに因むさまざまな仕掛けが施されているとのことだが、それを全く知らなくても問題なく楽しめるように書かれており、作曲者の腕の冴えと喜劇のセンスには唸らされる。

 この2曲のあとに「牧歌」繋がり(エトヴェシュ作品の中でもそれが示されている)でヴァーグナーの《ジークフリート牧歌》が選ばれたようだが、それとはまた違って意味でこの選曲を面白く感じた。まず、現代の作品のあとにこうした古い作品が置かれると、いつもとは少なからず違ったふうに聞こえる(演奏自体はごくまっとうなものだった。もう少し「熱演」度が低く、軽やかな方がよかったが、これはあくまでも私個人の趣味の問題だ)。また。今までそんなことは少しも思ったことはないのだが、このヴァーグナーの「牧歌」にも何かしら喜劇的な面があるように感じられたのである。おそらく先立つ2曲のあとでなければそうはならなかったに違いなく、この3曲セットで大いに楽しませてもらった。

 後半は前半とはまた異なる傾向の作品が選ばれているが、それら2曲の作曲者はいずれもショスタコーヴィチと繋がりのあった人である。今年生誕120年を迎えたこの大家の作品ではなく、縁のあった、優れた作曲家の作品を選ぶというのも、間接的なオマージュだといえようか。ともあれ、こちらも面白い選曲である。中でも私が惹かれたのはグバイドゥーリナ作品の方だ(アザラシヴィリ作品も佳曲であり、聴衆の反応がもっともよかったのはこれだった)。元々はピアノ曲だったものを作曲者自身が亡くなる前年(2024年)に編曲したものだとのこと。原曲も名曲であるが、この編曲はいっそうよい。原曲が持っていたさまざまな性格(中でもブラック・ユーモアのようなもの)がいっそう強められているように感じられ、まことに面白かった。

 こうした面白い演奏会を聴くと(演奏者および関係者の皆様、どうもありがとうございました。)、当然ながら次回も大いに期待しないわけにはいかない。さて、次はどのようなプログラムが組まれることだろうか。今から楽しみでならない(いずれガリーナ・ウストヴォリスカヤの作品を取り上げて欲しいものだ)。

2026年7月10日金曜日

冠詞恐るべし

  次にあげるのはゲーテの『ファウスト』第1部の一節である:

 

Denn, geht es zu des Bösen Haus,

/Das Weib hat tausend Schritt voraus.

 

これを山下肇が訳したもの(『ゲーテ全集3』、潮出版社、1992年)はこうなる:

 

悪魔のお里へ帰る日にゃ、

女は千歩も先走り。

 

原文の字面通りの素直な訳である。

 ところが、高橋義孝の手にかかると(新潮文庫、1967年)、訳は次のようになるのだ:

 

悪魔のところへ出向くとあれば、

男は女に到底叶わぬ。

 

前半はともかく、後半は驚くほど異なっている。なぜ、このようなことになるのか?

 この疑問に答えてくてるのが関口存男の『冠詞』だ(私が参照したのは少し前にした細谷行輝(監修)『冠詞の思想・改訂版』(三修社、2026年)である。以下、引用も同書に拠る)。まず、関口の訳文をあげておこう:

 

悪魔の旗下にはせ参ずる、いざ鎌倉というときは、男がどんなに急いでも、とうてい女にゃかなわない。

 

これは高橋の訳に近い(おそらく彼はこの関口訳を参照したのだろう)。そして、これについて関口はこう説明を加える。

 

上の例では、素朴な意識から考えると、むしろ複数形を用いてdie Weiberとでも言った方が良さそうに思われるのだが、それにも関わらず意図的に単数が採用されており、これによって明らかにある種の観念的な鋭さが感じられる。das Weibというのは実存するein Weibでも、総称のdie Weiberでもない、念頭で作り上げた抽象概念であり、非常に概念的な「概念」である(前掲書、89頁)。

 

つまり、上の文例では普通ならば複数形が用いられるところに定冠詞付きの単数形が用いられており、それにはしかるべき意味があると関口は述べているわけだ。

 では、その「意味」とはどのようなものか。この種の用法(=「類型単数」)一般について関口が加えている説明のうち、次のものが上の例には当てはまるようだ。曰く、「その名詞によって示された類の特性を強調するという含みを濃厚に持つ場合が多い」(88頁)。すなわち、この場合、Weib(女)の「特性を強調する」言い方であるがゆえに訳文にはそれをいっそうはっきり示すために「男」とか「にゃ」とかいう文言が表れることになるのだろう。

最初にあげた山下訳は誤訳ではない(し、氏の訳した『ファウスト』を私は愛読している)が、原語の読みの点で関口(高橋)訳とは「解像度」が異なる。冠詞と名詞の数の用法に着目するかしないかの違いでここまでの違いが生じるとすれば、その他の点も含めて、これまで自分がドイツ語を読んだときにいったいどれだけ多くの事柄を読み落としてきたのだろう。考えるだけでも恐ろしくなる(もちろん、それはドイツ語だけのことではなく他の外国語でも同様。だが、それはそれとして、「やはり言語というものは面白いものだなあ」とお気楽にも感じる。のみならず、(遅ればせながらも、たとえほんの少ししかできないとしても)もっと深く学びたいと思う。

 

2026年7月9日木曜日

メモ(158)

  もしもソヴィエト連邦が成立していなかったら、ショスタコーヴィチはどんな作曲家になっていただろうか? あのままモダニズム路線と突き進むことになっただろうか。それとも、ソ連政権下にあった場合とは別の大きな転換を成し遂げただろうか。さまざまなその後の展開の可能性を潜在的に持っている彼の初期交響曲を聴いていると、ふと戯れにそんなことを考えてしまう。まあ、そのような音楽の楽しみ方があってもよかろう。

 

 ユルゲン・ハーバーマスが今年3月に亡くなっていたことを(いつものように)遅ればせながら知った。春先に書店で『ハーバーマス回想録』(岩波書店、2026年:https://www.iwanami.co.jp/book/b10159271.html) を見かけ、「これは読まねば!」と思った(が、優先順位の都合上、まだ実現していない)のだが、その時点ですでに泉下の人となっていたわけだ。

2026年7月4日土曜日

さよならハーゲン四重奏団

  昨晩は大阪のいずみホールでハーゲン四重奏団の「さよならコンサート」(https://www.izumihall.jp/schedule/20260703)を聴いてきた。至福のひとときだった。

 私がこの団体の演奏を初めて聴いたのはラジオでのこと。80年代前半のことである。そのときには彼らは「期待の新人」だったわけだが、やがて世界のトップクラスの四重奏団へと成長した。私は幸いにもいずみホールで何度か実演に触れることができ、その都度深い感動を味わってきた。が、ものには必ず終わりのときがくる。今回のツアーを最後にハーゲン四重奏団は解散することになっており、昨晩は大阪での最後の演奏会だったわけだ。

 演目は次の通り:

 

モーツァルト:弦楽四重奏曲 14 ト長調 K.387

シューマン:弦楽四重奏曲 3 イ長調 作品41-3

シューベルト:弦楽四重奏曲 13 イ短調 「ロザムンデ」 D804

 

最初の演目は事前に予告されていたものとは異なるのだが、私はむしろうれしかった。大好きな曲だからだ。

 いずれの作品でもこの四重奏団は様式の違いをはっきり示していた。すなわち、モーツァルト、シューマン、シューベルトの作品が、それぞれにいかにもその作曲家の音楽らしく鳴り響いたのである。こう言うと、「そんなことは演奏の基本ではないか!」と反論されるかもしれない。が、世の中の少なからぬ演奏はその「基本」が怪しいのだから、やはりこれは彼らの美点としてあげねばならない。

だが、それはクラシック音楽作品の演奏の「必要条件」にすぎない。では、「十分条件」とは何か。それは、演奏家(演奏団体)の個性を示すことである。そして、この点でもハーゲン四重奏団は「独自の音(楽)」を味わわせてくれるのだ。

そのような演奏だから、こちらもとにかく集中して「音のドラマ」に聴き入った。主題がどう展開・変容されるか、調性がどう推移するか、場面転換に際して何が起こるか、等々、一音たりとも聴き逃さないようにした、いや、自然に耳がそのように働いてしまった(こう言うと、またしても「そんなことはクラシック音楽作品、とりわけ弦楽四重奏曲のようなものを聴いてよく味わおうとするならば当然ではないか!」とつっこまれそうだが、世の少なからぬ演奏はそこまで耳を惹きつけてくれない。まあ、それらの演奏もまた、違った喜びをもたらしてくれるものではあるが……)。そして、その結果として最後に深い満足がもたらされる。それはいずれの演目についても言えることで、それ以上演奏について具体的にどうこう言う必要を私は感じないし、どうこう言いたくもない。

言うことがあるとすれば、「これまで数々のすばらしい演奏を聴かせてくれてありがとうございました」ということに尽きる(同じことをこれまで大阪彼らの演奏会を企画・運営し続けてきたいずみホールの関係者の方々に対しても申し上げたい)。今後彼らの実演を聴けないのはさびしいことではあるが、最初に述べたように「ものには必ず終わりのときがくる」わけだから仕方がない(が、彼らは数多の録音を行ってきているので、それはこれからも愛聴するだろう)。彼らが播いた種は下の世代の者たちの音楽において芽を出し、生長しているはずなので、これからはそうした者たちの演奏にもっと耳を傾けたいと思う。 

2026年6月29日月曜日

過ぎたるは猶及ばざるが如し

  超絶技巧を駆使した作品、とりわけ編曲ものを聴くと、しばしば「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という格言が脳裏をかすめる。最近も次の編曲でそのことを思った:https://www.youtube.com/watch?v=y7kTQCyDVn0&list=RDy7kTQCyDVn0&start_radio=1。これはヴェーバーの《ダンスの誘い》を19世紀半ばのヴィルトゥオーソ、カール・タウジヒ(1841-71)が華麗にパラフレーズしたものである。ピアノの演奏技巧を楽しめるという意味ではまことに見事な作品だ。が、そのことが同時にすばらしい原曲を損なうことにもなってしまう。もし原曲に何かしら不足があるのならば、編曲の付け足しは有益なものとなりうるが、この場合、ヴェーバーの原曲はそのようなものではない。ベルリオーズの管弦楽編曲のようなものならば、原曲の魅力を引き立てていると言えようが、このタウジヒのパラフレーズは「よけいなもの」を付け加えすぎているように私には聞こえて仕方がない。

 これと同じことを私はゴドフスキが編曲したショパンのエチュードについてもいっそう強く感じる。ショパンの原曲もまた、何かを付け足す必要の一切ないものであることはわざわざ言うまでもあるまい。ゴドフスキのパラフレーズはピアノ演奏技巧の提示という点では先のタウジヒのものを遙かに凌ぐ作品であることは間違いないし、だからこそこれを高く評価する人がいるのは当然だとも思う。が、そのことを十分に認めつつも、ゴドフスキ編曲のショパン・エチュードを私個人は好きになれない。

 

 先日、バルトークの《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》をコンタルスキー兄弟の録音で聴いた。すばらしい演奏である。それとともに、この作品の和声の美しさに魅了された。 天才が鋭敏な耳で聞き取って作品に結実させたものを凡人の私が果たしてどの程度聴けているのか心許ない(事実、この作品の美しさに気づいたのはそう昔のことではない)が、とにかくこの名曲をこれからも聴き続け、もっとよく味わいたい。

  

2026年6月25日木曜日

関口存男『冠詞』への格好の手引き

  希代のドイツ語学者関口存男(1894-1958)の著書にはあれこれ目を通してきており、言語というものの面白さと奥深さを教えられてはきたが、主著『冠詞』全3巻には手を出しかねていた。内容があまりに高度だからだ(いちおうぱらぱらとめくってみたことはあるので、そのことはわかる)。が、やはりこれはいつかきちんと読んでみたいとずっと思っていたところ、格好の手引きが見つかった。細谷行輝 監修 / 内堀大地 責任編集『冠詞の思想[改訂版]―関口存男著『冠詞』と意味形態論への招待―』(三修社。2026年)がそれだ(https://www.sanshusha.co.jp/np/isbn/9784384061901/)。同書は2016年に出たものの改訂版なのだが、初出のときに「そのうち読んでみなければ」と思っているうちに版切れになってしまったもの。だが、幸いにも今年になってその改訂版が出たことを知り、さっそく手にとってみたのである。

 読み始めて、関口の冠詞論の射程の広さと深さに改めて圧倒されるとともに、「よくぞ、ここまで整理整頓してくれました!」と思わずにはいられない。それほどに原著の記述は難しいからだ。が、この『冠詞の思想』があれば、今度こそ『冠詞』の最後までたどり着けるような気がする(もちろん、「目を通してみた」のレヴェルに留まるものではあろうが)。それによって自分のドイツ語読解力を高めることよりも、「言語」というものの奥深さをもっと知り、味わいたいという気持ちの方が強い。そして、それはおそらく異文化としての西洋音楽についての自分の理解を深めることにも繋がるはずだ。

 

 『チェロ湖』を読了してから、文学熱が再燃している。そこで昔々読んだ(だけの)ものをいろいろ再読し始めているが、それで改めて思うのは「ある種の文学作品を味わうにはある程度の人生経験が必要である」 ということだ。もちろん、そうした「経験」は人それぞれである。が、とにかく生きてきた中で自分が直接見知った事柄が作品を読む上で深みと広がりを与えてくれるわけである。だから、「再読」とはいいながら、実は「初読」のとき以上の新鮮な驚きや感激がそこにはあり、楽しくて仕方がない(同じことは音楽作品についても言える)。

2026年6月19日金曜日

いしいしんじ『チェロ湖』を読了

  いしいしんじ『チェロ湖』(新潮社、2025年:https://www.shinchosha.co.jp/book/436305/)を読了した。同書の存在は妻に教えられたのだ(妻はそれを愛読している某氏のブログで知ったとのこと)が、「よくぞ教えてくれた!」と感謝感謝。およそ900頁にも及ぶ大作であり、読むのにけっこう時間がかかったが、それはまことに幸せな時間だった。

 感想は次の点に尽きる――「胸が一杯になった」。もちろん、読みながらさまざまな思いが心に浮かんだが、それを整理整頓して文章にしてしまうと、どこか嘘が混じってしまうような気がしてならない。研究書・論文やその類の読み物、あるいはノンフィクションならば「読んだこと」はきちんと言葉で整理すべきだが、文学作品には必ずしもその必要はあるまい。 

 ともあれ、『チェロ湖』を読み終えたときの思いを一言で集約すると先に述べたものになるわけだが、そうした「思い」はもしかしたら、音楽ならばもう少し細かく表現できるかもしれない。そして、それはいずれ《チェロ湖》と題するチェロ独奏曲に結実するかもしれない(自分の「趣味の作曲」では大したものはできそうにもないが、それでもよいのである)。