2026年2月4日水曜日

〈ラバピエス〉の2種類の楽譜

  先日話題にしたアルベニスの〈ラバピエス〉だが、最終的に2通りのものをつくりあげる予定だ。すなわち、①原譜の複雑怪奇な手の配分をやり直して、直接楽譜から演奏できるかたちにしたもの ②その楽譜からさらに臨時記号をすべて取り去り、#は緑、♭は赤、ダブル#は水色、ダブル♭はふじ色、そして、タイで結ばれた音符を黄色に塗り、臨時記号はすべて取り去ったもの、この2である[追記:1 箇所だけ♭を消し忘れていたのに後から気づいた]。以下、それぞれ最初の部分をあげておこう:

 


 

 


②のようなものをわざわざつくるのは、原譜にあるあまりに多くの臨時記号が読譜を困難ならしめているからだ。それゆえ、このようなかたちにすれば格段に読譜がたやすくなる。これまでにこうした楽譜を手書きでつくりかけていたのだが、Doricoでは音符に色付けができるとわかったので、それに乗り換えた次第。プロがつくればもっとうまくできるのだろうが、私用なのでこれで十分だ。機械による写経ではあるが、その間に実際にピアノでいろいろ確かめているので大いに勉強になる。

 なお、①の作成にあたってはすでに3種類ある同じ趣向の版(イグレシアス版、ゴンサレス版、ニエト版)を参照しつつ、改良を図っている。それらの版はすべて自筆譜、あるいはそれに由来する原典版に基づいているのだが、私は初版に基づく原典版(ヘンレ社版)に拠っている(その理由を説明すると長くなるので、それはまた別の機会に)。

 

 昨日、選挙の期日前投票を済ませてきた。いろいろな思いを込めつつ。

2026年2月1日日曜日

ありがたきはインターネット上の善意の記事

  楽譜書きソフトDorico 6でアルベニスの《イベリア》第8曲〈ラバピエス〉を打ち込み始めた。これは1つには勉強のためであり、もう1つには自分なりに「見やすい」楽譜をつくるためである。以前使っていたPrint Musicでは無理だった細かい作業が今のソフトではできるのだが、まだまだ不慣れなので四苦八苦している。

 市販されているマニュアル本は1つしかなく、しかも、「そこそこ」のできなので、わからないことはインターネットで調べるしかない。そこでまず目を通すのはメーカーのサイトだ。すると、必要なことが書かれているので役立っている。が、それでも「?」という場合はいろいろ出てくる。そんなときに助けになるのが、このソフトのユーザー個人の記事だ。今日も「さて、いったいどうしたものか……」と悩んでいた事柄について、見事な裏技的解決法をそうしたものから教わった。まことにありがたいことである。

 このようなことがあると、それがたとえどれほどささやかなものであるとしても自分も何かしら人の役に立てる情報発信ができればよいなあと思わずにはいられない(もちろん、それは簡単ではなかろうが、そう心がけるのは悪いことではあるまい)。

 

 先日、必要があってドヴォジャークの第8交響曲を勉強し直していたが、作品のあまりのすばらしさに今更ながらに驚かされた。これからも種々の「名曲」についてこうしたことが我が身に起こることだろうが、次が楽しみである。

2026年1月25日日曜日

ルベルト・ジェラルトの生誕130年

  昨晩、久しぶりにルベルト・ジェラルト(1896-1970)の第2交響曲(1957-59)を聴き直したが、面白い曲だと改めて感じた(https://www.youtube.com/results?search_query=roberto+gerhard+symphony+2)。それは一方では同時代の若者の作品に観られる「音響」志向を示しつつも、他方では師のシェーンベルクのように「土台としての古典」を決して軽んじていない。それゆえ、そこには両者のせめぎあいがもたらす(よく言えば)緊張や(悪く言えば)綻びが生じるわけだが、ジェラルトはそこが不満だったのだろうか、のちにこの曲の改作を試みっている(が、未完に終わった)。私はむしろその緊張こそがこの交響曲の面白さだと思うのだが、どうだろうか。

 ところで、このジェラルトは今年生誕130年だ。だからといって、そのために彼の作品がいっそう積極的に取り上げられることはないだろうが、私は勝手に「ジェラルト生誕130年」を祝いつつ、彼の音楽にもっと親しむことにしたい。

 

 今日で愛犬シャーロットが我が家にきてちょうど9年が経った。その間に実にいろいろなことがあったが、その存在にどれほど心癒やされ、救われたことか。というわけで、この愛犬に心からの感謝を。


 

2026年1月22日木曜日

「摂州合邦辻」

  今年初の音楽関連のお出かけはクラシック音楽ではなく文楽だった。今日、国立文楽劇場で第1部(https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2025/2026bunraku01/)を妻とともに観て(聴いて)きたが、すばらしかった。

 元々は第2部に行きたかったのにうまく席が取れずに第1部にしたのだが、これが「大当たり」。というのも、「摂州合邦辻」が何とも面白い演目だったからだ。その筋書きは些か荒唐無稽であるにもかかわらず、(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%B7%9E%E5%90%88%E9%82%A6%E8%BE%BB)劇として不思議な魅力があるのに加えて、今日の演者の技芸がまことに見事だったのである。とりわけ、「切」での豊竹若太夫と鶴澤清介のコンビには圧倒される。「前」での豊竹呂勢太夫と鶴澤清治のコンビもよかった。

ちなみに、この2組が登場したとき、後ろの席から「待ってました!」「呂勢太夫、清治」「若太夫、清介」と、そして、最後には「大当たり!」と掛け声があった。文楽に古くから親しんでいる見巧者の方のものなのだろう。ともあれ、それを耳にし、私も気分が盛り上がった。いやあ、文楽って本当にいいもんですね。

2026年1月18日日曜日

ヨゼフ・ホフマンも生誕150年

  ピアニストのヨゼフ・ホフマン(1876-1956 )も今年生誕150年だった。ラフマニノフが好敵手とみなした名人である。

 私がホフマン(の演奏録音)を初めて聴いたのは中学生のときだ。昔のピアニストを特集した番組でのことで、演目は彼の師の1人、モリッツ・モシュコフスキの《スペイン奇想曲》だった(https://www.youtube.com/watch?v=rYc15E7g5Ho&list=RDrYc15E7g5Ho&start_radio=1。ちなみに、現在最高のピアニストの1人であるスティーヴン・ハフもこの曲を録音しているが、その内容から判断するに、彼はホフマンのこの曲の演奏をかなり研究しているようだ)。とにかく圧倒されてしまい、この大ピアニストをもっと聴いてみたいと思った。

 だが、当時、すなわち、1980年代の初めにはそれは無理なことだった。日本で手に入る録音など皆無に等しかったのだから。いや、日本だけではない。外国でも果たしてどれだけの音源が当時入手可能だったことだろうか。現役のLPは基本的には現役の演奏家のためのものだったのである(もちろん、過去の名演奏家の録音も販売されていたが、よほど「売れる」もの以外は「ついで」であった)。

 ところが「商品」として過去の録音に価値が見出されたり、CD時代になってディスクの製造コストが下がったりして、あるいはその他にも理由があったのだろうが、ある時期から昔々の名演奏の録音が容易に入手できるようになった。そして、インターネットがそれに拍車をかけた。

 というわけで、上にあげたような録音がかんたんに聴けるようになり、以前ならば文字情報で「隔靴掻痒」にしか知りようがなかった演奏のありように(録音によるものだとはいえ)実際に触れ、その技芸を味わうことができるようになったわけだ。

さて、今現役の演奏家たちの録音がたとえば「生誕150年」を迎えたときにこのホフマンのように聴かれているだろうか? もちろん、現在にもすばらしい演奏家はそれなりにいるに違いない。が、そもそも演奏家の数とその録音の数がホフマンの時代に比べれば格段に多いので、相当熾烈な競争が繰り広げられるそうだ(また、インターネット環境も今と同じだという保証はどこにもない)。

2026年1月16日金曜日

ファリャの生誕150年

  今年生誕150年の大物のことをすっかり忘れていた。それはマヌエル・デ・ファリャ(1876-1946。ということは、今年没後80年でもある)。言うまでもなくスペイン近代音楽の巨匠だ。

 もっとも、私がファリャの音楽をほんとうに愛するようになったのはそう昔のことではない。たとえば、名作とされる《スペインの夜の庭》などは、ある時期まで今ひとつ好きになれなかったくらいだ。

 が、今は違う。幸い国内版の楽譜がいろいろ手に入るようになり、それらを眺めつつ作品を聴いていると、この作曲家のあまりに渋い技と芸に魅せられずにはいられない。

 残念ながら日本語で読めるファリャ文献はほとんどない。以前は興津憲作『ファリャ 作品と生涯』(音楽之友社、1987年)があったが、版が途絶えて久しい。となると、この記念すべき年に新たなファリャ本が刊行されるか、少なくとも興津本が復刊されるかして欲しいところだ(以前、Nancy Lee HarperManuel de Falla : his life and musicLanham, Md. : Scarecrow Press , 2005)をぱらぱらとめくってみたときに、「これは誰かが訳してもよいのになあ」と思ったが、昨今の出版事情では難しいかもしれない)。  

 

2026年1月12日月曜日

メモ(152)

  広義の「調性」が「中心音を持つ」という意味だとすれば、当然、機能和声の成立以前の旋法音楽や解体以後のある種の音楽もその射程に含まれることになる。そして、この意味で調性という語が用いられる場合も少なくない。

 が、そうはいっても、やはりこの語は「機能和声に基づく音楽」という意味で用いられる場合が圧倒的に多い。それはおそらく、用語がきちんと整備されていないからであろう。ならば、時期による「調性」のありようの違いを示す語を付け足せば、この問題は改善されるのではないだろうか。

 そこで試案を示したい。まず、機能和声に基づく音楽の場合には「機能調性」とし、それ以前の時代の旋法音楽の場合には「未(あるいは「前」)機能調性」、そして、以後の時代のある種の音楽については「脱機能調性」とすれば、どうだろう。