2026年9月15日火曜日

松村禎三《管弦楽のための前奏曲》の新旧の録音

  松村禎三の名曲《管弦楽のための前奏曲》(1968)を同じ指揮者、岩城宏之による新旧の録音で聴き比べてみた。新(https://www.youtube.com/watch?v=3fLwMcsIx0o&list=RD3fLwMcsIx0o&start_radio=1)は1992年、旧(https://www.youtube.com/watch?v=aEcBkk2p1_s&list=OLAK5uy_mgBXXAa3X0FDDyxip4PBlcGPW4vJXXWuk&index=1)は1970年の演奏・録音である。後者は作曲年に近い時期のものであり、前者はほぼ四半世紀後の演奏だが、随分感じが異なる。私は旧の演奏の方を好む。それに対して新の方からはどこか焦点がぼやけてた、冗長な感じを受ける(この曲の場合に限らず、ある時期以降の岩城指揮の演奏は総じてそのようなものに聞こえる。他方、若い頃の録音は現代作品の魅力をしっかり味わわせてくれる)。もっとも、これはあくまでも私の感じ方。新の方を「円熟」と聴く人もいるのかもしれない。

 

 さとうさおり氏は結局辞職することとなった。残念だが、自分の身を守るためにはそうせざるを得なかったのだろう。今までご苦労さまでした。そして、別の場面での今後の活躍に期待しています。

 それにしても、こんなことになるなんて、全く世も末である。この一連の件について若者の感想を聞いてみたいものだ。

2026年9月13日日曜日

ローレン・ラッシュも亡くなっていた

  前回に続いて「あの人は今(生きているのかな)?」と気になり、米国の作曲家、ローレン・ラッシュについて調べてみたところ、こちらも今年の2月に亡くなっていた。1935年の8月生まれなので、90歳だったということになる。

 このラッシュの名は日本ではほとんど知られていないが、なかなか魅力的な作品を書く人だった(もっとも私が知っているのも半世紀以上前の作品である)。追悼の意味で《dans le Sable》を久しぶりに聴く((https://www.youtube.com/watch?v=DQhQ0xqBGhw&list=RDDQhQ0xqBGhw&start_radio=1)。やはり名曲である。

2026年9月11日金曜日

ヴァーシャーリ・タマーシュが亡くなっていた

  時々、「あの人は今(生きているのかな)」?」と気になる。そこで今日はピアニストのヴァーシャーリ・タマーシュ(ハンガリー人なので名は「姓・名」の順)のことを調べてみると、果たして今年の2月に亡くなっていた。19338月生まれなので、92歳だったことになる。また一人、往年の名ピアニスト(たとえば次の演奏などどうだろうか:https://www.youtube.com/watch?v=RRl_O5LZhig&list=RDRRl_O5LZhig&start_radio=1)が世を去った。寂しいことだが、その分、現役のピアニストの活躍に期待しよう。

2026年9月9日水曜日

メモ(162)

  丸山眞男(1914-96)が熱烈な音楽愛好家だったのはよく知られたことであるが、その程度が半端ではなかったことは、中野雄『丸山眞男 音楽の対話』(文春新書、1999年)を読むとよくわかる。

 その丸山の音楽観や音楽論それ自体には今日さほど意味があるわけではないが、次の2つの点で分析、考察に値するものであろう。すなわち、①「丸山眞男」という人の考え方や感じ方を知り、理解する上での資料として ②日本の西洋音楽受容のある時期における1つの典型例として――この2点である。私は後者に興味がないではないが、それを追究する気力も時間もない。面白い研究になるはずだから、誰かやってくれないかなあ。

2026年9月7日月曜日

杉山哲雄先生のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会シリーズ

  杉山哲雄先生からリサイタルのご案内をいただいた。ベートーヴェンが来年没後200年を迎えるにあたり、ピアノ・ソナタ全曲の演奏会シリーズを先生は行っているのだが(https://www.shin-en.jp/schedule20251002/)、今回お知らせいただいたのは「シリーズ傑作の森(全2回)」(曲目については上のリンク先を参照のこと)。大好きな「田園」ソナタも含まれているので聴いてみたいところなのだが、いかんせん東京は遠い(涙)。だが、来年の最終回、最後の3つのソナタは何としても聴きに行くつもりだ。

先生には横浜国立大学大学院在学中にピアノを教わった(今から35年前!)。私のピアノの腕は先生から本当の意味で教わるには全く不十分だったが、それでもやはり何かを教えていただいた(のみならず、70代後半になっても音楽家として自己のアップディトを怠らない先生のありようは、今なお私に何かを教え続けてくれている)と思っており、恩師の1人だと断言できる。その先生が現在どのようなベートーヴェンを奏でるのかに深い興味を関心を持たずにはいられない。

2026年9月5日土曜日

往年の「現代音楽」作品に魅せられる

  急に昔の日本の「現代音楽」が聴きたくなり、手持ちのCDを取り出してきた。松村禎三(1929-2007)、間宮邦生(1929-2024)、篠原眞(1931-2024)などの作品を久しぶりに触れてみたのだが、どれも皆、すばらしい。何気なく聴き始めたところ、すぐに音楽に引き込まれてしまい、耳が離せなくなった。昨今の「現代音楽」作品では残念ながらこうしたことはない。

 さて、その理由として考えられるのは、

 

①昨今の「現代音楽」作品の質が下がった。

②聴き手たる私の判断力が昨今の音楽に追いついていない。

③「現代音楽」というものがもはや時代に合わないものとなった。

④たんに私の趣味の問題。

 

といったことであろうか。

まず、①だが、たぶん、これはなかろう。少なくとも今世紀になってから私が耳にした新作はいずれも「よく書けている」ように思われるからだ。

次の②だが、そうした可能性を完全に否定することはできない(が、「無理に追いつかなくてもよいではないか」とも私は思っている。もちろん、自分の聴き方のイノヴェィションを怠るつもりはないが、それは流行に追いつく/追いつかないとは別の次元でなされるものである)。

続く③だが、私はこの点を強く感じている。先にあげた作曲家たちの作品は1950~70年代につくられたものだったが、それらを私は「過去の音楽」として聴いている。そして、その「過去」と作品のありように親和性を覚える。言い換えれば、「時代の表現」としての説得力を感じたのである。その点、昨今の「現代音楽」作品に対してそうした説得力を感じることはあまりない。それはすなわち、「時代の表現」としてはもっとふさわしいものが他にあるように感じられるということだ。

そして、最後の④だが、これは少なからずあると思う。上の③にしたところで、突き詰めればそれは私個人の感じ方の問題だと言えよう。とはいえ、作品に向き合うのは個人であり、世間(斯界)の評価など関係ない。要はその作品が自分の「胸に響く」かどうかが肝心なのだから。そして、それだけに、昨今の新作でそうしたものに出会いたいと心底思っている。そして、「現代音楽」の作曲家たちには、そうした音楽に否定的な聴き手をも魅了するような作品を書いて欲しいものだし、そうした作品が現れることへの期待を私は常に持ち続けているつもりだ。

 

 東京都議のさとうさおり氏が議員辞職を撤回したとのこと。喜ばしいことである。氏は親しい人に何かがあったり、自身も脅迫されたりしたとのことだが、とんでもないことだ。選挙できちんと選出された議員の活動が暴力的な手段で妨げられることなどあってはならない(それはさとう氏だけのことではなく、彼女に敵対する議員であっても同様)。議員には己の信条に従って存分に活動してもらいたいものであるし、さればこそ、投票する側としても一票を投じる意義があるというものだ。

2026年9月3日木曜日

静けさと厳しさと――アンドリュー・ワイエス展を観て

  今日はアンドリュー・ワイエス(1917-2009)の展覧会を観てきた(https://wyeth2026.jp/)。すばらしかった。ワイエスは米国の画家で、前世紀半ばに前衛美術が斯界を席巻していたときに、我が道を行き――具象的な表現――を続けた人である。実はこのワイエスのことはほとんど知らなかったのだが、今回、幸いにもその作品に触れる機会を得た(なお、以下に述べるのはあくまでも私個人の実感にすぎず、それに異論を持つ人も当然いることだろう)。

 まず胸を打たれたのは「ぶれのなさ」である。周りがどうであろうと、ワイエスは自分でこうと決めた道を行き、とことんそれを追究している。20世紀、とりわけその後半には次々と新技法が現れては消えて行ったわけだが、その中で少なからぬ画家はいとも身軽に路線変更を行い、「新しさ」を求めていった。が、ワイエスはそうではなく、「よりよい」表現を求め続けたようだ。とはいえ、それは決して己の作風に固執してその枠内で技術の深化を図ったものではない。自分の持ち味をどう活かすかを真剣に考え、虚心坦懐に描き続けたに違いない。

 ワイエスの数々の作品を目にし、そのいずれにも共通して受けた印象がある。それは「静けさ」だ。そこには「新しさ」や「独創性」を誇示しようとの「欲」は一切感じられない。彼が描き出そうとしているのはその内なる世界であり、それがしかるべき「強さ」と「厳しさ」をもってなされている。画面からは精神の余計な雑音が一切排除されており、そのために表現はまことに直截的なものになっているように私には感じられ、深い感動を味わった。

 そうしたワイエスの絵と好対照をなすのが、同じ美術館でなされていた昨今の「モダン・アート」の展示だ。ワイエスの作品は何の解説がなくとも観る者に強く何かを訴えかけてくるのに対して、今日観たモダン・アート作品はそうではない。作者自身の手で何やらもっともらしい解説が付けられているのでそれに沿って作品を観てみるのだが、一向にピンとこない。まして、解説がなければさっぱりわからない。こう言うと、「ワイエスの表現が具象的だからわかりやすいのであって、それとは異なる表現のものを同じ土俵で論じるのはいかがなものか」と反論されるかもしれない。が、問題はそんなところにあるのではない。具象的な表現による作品でもつまらないものは掃いて捨てるほどあるし、逆にモダン・アート作品でも有無を言わさずに迫ってくるものもあるのだから。表現方法の違いを超えて作品が観る者に訴えかける力――その大小の違いを私は問題にしているのであり、その点で昨今の少なからぬモダン・アート作品はワイエス作品には遙かに及ばないように私には思われてならない。

 そして、同じようなことを私は音楽の分野でも強く感じている。すなわち、昨今の「現代音楽」作品は私の心の琴線をほとんど震わせてくれない、と。そして、そのことを私はとても残念に思っている。今の時代にふさわしい音楽表現に触れ、心の底から感動したいのに……。それにはもちろん、聴き手たる私の側にも何か問題があるのであろう。が、決してそれだけではあるまい。

 おっと、ワイエス展の感想からかなり話がずれてしまった。が、今述べたような問題を改めて私に突きつけてくれるほどに彼の絵画は刺激的であった。