2026年3月15日日曜日

「川口成彦ピアノ・リサイタル」でスペイン音楽(と関連作品)に魅せられる

  昨日はびわ湖ホールで「川口成彦ピアノ・リサイタル」を聴いてきた(https://www.biwako-hall.or.jp/performance/biwa-gogo69)。このところこの若きピアニストの演奏に心惹かれているので、実演の機会を逃さず出かけてきたわけだ。演目は次の通り:

 

(前半)

グリーディ: ノスタルジア( 3つの短い小品』より)

ファリャ: 3つの舞曲( 『三角帽子』より)

プーランク: マヌエル・デ・ファリャの主題によるノヴェレッテ

ペドレル: 夜想曲

アルベニス: 港( 『イベリア』第1巻より第2曲)

ファリャ: 4つのスペイン小品

 

(後半)

ラヴェル: グロテスクなセレナード

ドビュッシー: ビーノの門( 前奏曲集 2 より第3曲)

途絶えたセレナード( 前奏曲集 1 より第9曲)

グラナダの夕暮れ( 『版画』より第2曲)

グラナドス:オリエンタル(『スペイン舞曲集』op. 37より第2曲)

      アンダルーサ(同上第5曲)

ファリャ:ベティカ幻想曲

     火祭りの踊り( 『恋は魔術師』より)ひま

 

(アンコール)

ファリャ:讃歌「ドビュッシーの墓のために」

トゥリーナ:サクロ・モンテ(『ジプシー舞曲集 1集』op. 55より第5曲)

モンポウ:歌と踊り 8

ロドリーゴ:春の子守唄

 

スペイン音楽を好み、かつファリャ作品を愛する私にとってはまことにうれしいプログラム(今年生誕150年のファリャ作品を中心に編まれたもの)であり、川口はエラールの1927年製コンサート・グランドと1864年製のアップライトによって見事に全曲を聴かせきってくれた。

 どの曲の演奏もすばらしかった。世の演奏には聴き手に良くも悪くも緊張を強いるものが少なくないが、川口の演奏はそうではなく、こちらも何ら身構えることなく音楽にすっと入っていけて楽しめるものだった。

 もっとも聴き応えがあったのはファリャの《ベティカ幻想曲》だ(「ベティカ」は「アンダルシア」の古名)。実演ではなかなか聴けない作品だということだけではなく、まさに「幻想」的な(ファリャ特有の「渋さ」を持った)スペイン音楽絵巻を生き生きと繰り広げてくれたからである(まさに「アンダルシアに憧れて」ならぬ「アンダルシアに魅せられて」だ)。

 2台の楽器の弾き分けも実によかった。とりわけ、エラール・アップライトの魅惑の響きは忘れがたい。その楽器によって、たとえばグラナドスの〈オリエンタル〉はこの上なく美しくもどこか悲しく奏でられ、〈讃歌「ドビュッシーの墓[=ドビュッシー追悼]のために〉は何とも切実に――つまり、作曲者がドビュッシーに抱いていたであろう思いがひしひしと伝わってくるような感じがする――響かせられたのだから。

 ともあれ、実にすてきなリサイタルだった。一緒に聴いていた妻は今やすっかり川口ファンだが、私もまた。いつかこのすばらしいピアニストが《イベリア》全曲を取り上げてくれる日が来ますように。

2026年3月11日水曜日

拙い自作品への愛着

  自分の「趣味の作曲」で書いたもののほとんどは捨ててしまった。とりわけ、「現代音楽病」の重症期のものは。だが、ごく若い頃につくったもののいくつかはなぜだか捨てられない。「しょーもない」ものだとはわかっていても愛着があるのだ。

それゆえ、時折、そうした作品に手を入れ直している。今も、40年近く前に書いたピアノ曲をあれこれいじっている。そして、自分で弾くには難しい曲なのでDoricoに打ち込んで聴いてみると、「ああ、これはこれで悪くないじゃないか」と思ってしまう。まあ、あくまでも自分で聴く分のことでしかないが……(以下に最初の頁のみあげておこう)。ともあれ、まことに安上がりな趣味である。

 


 

 

 今日は大震災の日なので、それに関連したニューズがインターネット上で(とくに検索しなくとも見出しとして)あれこれ目に付く。時計の針は戻しようがないが、過去から何かを学んで未来に活かすことは大切だろう。しかし、だとすると、昨日、東京大空襲についてのニューズが同じように目に飛び込んでこなかったのはなぜだろう?

2026年3月6日金曜日

「演奏会」という語のよそよそしさ

  「演奏会」という語はクラシック音楽にはしっくりくるが、ポピュラー音楽にはどうも合わない。何かしらよそよそしい(さらにいえば、「堅苦しい」)感じがするからだ。そうした音楽にはやはり、「コンサート」や「ライヴ」などの語が似つかわしい。もっとも、実のところ、クラシック音楽に対しても「演奏会」という語はあまり使わないようにした方がよいのかもしれない。

 ちなみに、近年の私はクラシック音楽の「演奏会」という場によそよそしさを感じるようになってきており、年々足が遠のいている。そこで奏でられ、歌われている音楽そのものは大好きであるにもかかわらず……。もちろん、中には聴きに行きたいと思うものや、実際に出かけてよかったものもある。が、そうした「出会い」を必要以上に積極的に探し求めることはせず、得てして「偶々ご縁があった」ものを聴いている。

 今月出かけることになっている唯一の演奏会、もとい、コンサートも妻が見つけてきたものだが、今から楽しみでならない。その感想は後日述べることにしたい。

2026年3月1日日曜日

ケクランの『和声概論』の第3巻がIMSLPに

  今日、IMSLPでケクランのページを見てみると、『和声概論』の第3巻、すなわち、課題の解答編が上げられていた(https://imslp.org/wiki/Trait%C3%A9_de_l'harmonie_(Koechlin%2C_Charles))。

これは第12巻にすでに目を通している人にとっては待望のものであろう。また、この巻だけでも独立して読む(弾いてみる)価値はあろう。

 ついでにあれこれ他を見ていたら、アンドレ・ジェダルジュの『フーガ概論』の邦訳があって驚いた(https://imslp.org/wiki/Trait%C3%A9_de_la_fugue_(G%C3%A9dalge%2C_Andr%C3%A9))。

名著の誉れ高いこの「分厚い」本を日本語で読めるのはありがたいことである。この翻訳を仕上げた篤志家の偉業を心から讃えたい。

 そういえば、ケクランもフーガ教本を書いており、それも「学習フーガ」に関するものだ。これはまだIMSLPにはあげられていないが、いずれ誰かがあげることだろう。私は同書を勤務先の図書館で借りて眺めてみたことがあるが、これもなかなか充実した教本である。

 

 ふと思い立って、Dorico でJ. S. バッハの〈6声のリチェルカーレ〉を「写経」し始めた。声部毎に色を変えてみれば随分読みやすくなるだろうと思ってのことだ。以下にあげるのは声部が6つ出そろったところを含むページである(なお、原譜では2小節一組に記譜されているが、Doricoではどうすればよいかがわからなかったので、この写経ではそうはしていない。また、黄色はタイで繋がれた音で、これはすべての声部に共通。また、大譜表の上段は右手担当、下段は左手担当にしてある):

 

 

 「日本人は現状から未来を予測し、それに対応した『計画』を立てるということが、極めて困難な民族である[……]。目先の発明・工夫は得意だが、根本的な発想の転換をすることは大の苦手である」(井沢元彦『逆説の日本史4・中世鳴動編』、小学館文庫、1999年、416頁)という指摘はおそらく正しい(個人としてはそうした「困難」や「苦手」を乗り越えられる人は少なからずいる(いた)はずだが、社会や組織がそうした個人を無力化してしまうのだろう)。私が直接知るこの国の近過去についてはまさにその通りだと言える。ならば、この先も……。のみならず、今のように国が教育に出し惜しみをしている(出すにしても、余り効果的ではないやり方をしている)ようでは「目先の発明・工夫」さえも怪しくなってくるのではないか。

 

 

2026年2月26日木曜日

《イベリア》の遠近感

  このところアルベニスの《イベリア》への愛が再燃している。昨晩もラローチャの録音(全4回中の2回目のもの)で前半を久しぶりに聴いたが、やはりすばらしい。今回改めて魅せられたのは、音楽が持つ独特の遠近感だ。それは多声的、多層的な書法のたまものだが、決してそれだけではない。ピアノという楽器をとことんまで活用する手法があってこそである。その点で《イベリア》は奇跡的な存在であり、だからこそ、いかなる編曲をもこの曲集は拒むのだろう。ピアノよりも多様な音色を駆使でき、音も自由に扱える管弦楽をもってしても(実際、いくつかの編曲あるが)、原曲で1台のピアノが生み出す遠近感は再現できまい。

もちろん、それを弾くピアニストには難行苦行が課されるわけだが、それを乗り越えた数少ない者は《イベリア》の音の世界を現実化する幸せを味わうことができる。そして、私も1人の聴き手としてそうした場にリアルタイムで立ち会う(つまり、すぐれた生演奏を聴く)機会が訪れることを強く願っている。

 

 ヘンレ社から出ていた4分冊の《イベリア》が昨年1冊にまとめられていたことを最近知った。そこで早速見てみたが、とくに変更点はないようだ。元の版が出てから10年以上間が空いていたのに、改善の機会を放棄したわけだ。もったいない。とはいえ、この版がショット社刊のもう1つの原典版、さらには春秋社の森安版とともに有用なのは確かだろう。

2026年2月18日水曜日

ショスタコーヴィチの名言

  ショスタコーヴィチの名言――「わたしたちはそれぞれ、きびしい批評家を自分のなかに抱え込んでいる。厳格になるというのはそれほど困難ではないが、自分の聴覚に感じた不快さを万人の前に公表する価値などあるのだろうか」(ソロモン・ヴォルコフ編(水野忠夫・訳)『ショスタコーヴィチの証言』、中公文庫、1985年、50頁)。そして、大部分の人はショスタコーヴィチほど鋭敏な聴覚を持ってはいないのだから、なおのこと……。

2026年2月11日水曜日

いずみシンフォニエッタ大阪の第55回定期演奏会

  今日、今年初めて演奏会に出かけてきた。いずみシンフォニエッタ大阪の第55回定期演奏会(指揮:飯森範親)がそれだ。今回から音楽監督が交替し、新たな展開が期待されるところだったが、まさにそれに十分応える内容だった(https://www.izumihall.jp/schedule/20260211)。

 多種多様な演目は次の通り:

 

 P.オリヴェロス:The Well and The Gentle

川島素晴:ピチェクラリン讃歌

西村 朗:オルゴン 室内オーケストラのための 

 

M.フェルドマン:マダム・プレスは先週90歳で亡くなった

【公募作品】渡邉翔太:朧げな風景の中でⅠ(世界初演)

藤倉 大:箏協奏曲(独奏:片岡リサ)

 

いずれもしかるべき水準の作品であり、まことによく考えられたプログラムだ。もちろん、個々の作品に対しては私個人の好き嫌いはある。が、それはそれ。演奏会全体としてはすぐれたものだったと思う。

 では、以下、曲順に簡単に感想を述べていこう。最初のオリヴェロス作品は初めて聴いたが、なかなかに興味深かった(これまで彼女の音楽にはさほど関心がなく、数曲しか知らなかったが、他にももっと知りたいと思った)。全体は大きく二分されるが、その前半の音のありようはいわば遠心的、そして、後半は逆に求心的で、それぞれの部分が、そしてまた両者の違いが面白い。

 続く川島作品と西村作品については、自分の好みではないので具体的な感想は控えておこう。いずれもよくできた作品だと思うし、それを好む人がいても当然であろう。が、私の心には響かなかったのである(その理由を説明することはできるが、そんなことをここでしても意味があるまい)。残念。

 後半最初のフェルドマン作品は今日の私のお目当ての1つだった。そして、その期待は満たされた。先のオリヴェロス作品の前半部分と対照的に、このフェルドマン作品は極度に求心的であり、聴き手に大きな集中力を要求する。が、そこで繰り広げられている音の世界は何とも不思議な美に満ちている。いずれ、もう少し長め(ただし、1時間以内)のフェルドマン作品も取り上げて欲しいところだ。

 続く【公募作品】が私のもう1つのお目当てであり、こちらも楽しく聴かせてもらった。作品の内容は「朧げな風景の中で」という作品名そのままで、何とも清々しい音の風景が現出させられていた。「Ⅰ」と銘打たれているということは、これに続く作品がすでに書かれているか構想されているのだろうか。少しばかり気になるところではある。ただ、今回の「風景」はまことに静的なものであり、その「中で」はほとんど何も起こっていない。そこが魅力であったとは言えるのだが、「Ⅱ」以降ではそれとは些か異なる趣向のものであって欲しいと(私個人は)思う。

 さて、最後は藤倉作品。音楽のありようは熟練の職人芸の産物であり、とりわけ箏に対する管弦楽の扱いは見事としかいいようがない。が、この作品に対しても私の心は反応してくれなかった。作品が悪いのではない。私との相性が合わなかっただけである。残念。

 以上、勝手なことを述べたが、演奏会全体としては大いに楽しませてもらったし、新音楽監督がこれから打ち出す企画への期待もふくらんだ。今のようにいろいろなことが困難になりつつある中で、こうした演奏会シリーズが続けられていることは本当にありがたい(し、そう思っているのは私だけではあるまい)。というわけで、関係者の方々に心から御礼を申し上げたい。