2024年4月30日火曜日

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?

   シューマンの《ピアノと管弦楽のための幻想曲》の復元作業を行ったのは往年のシューマン研究の大家ヴォルフガング・ベティヒャー(1914-2002)だが、この人はナチス体制に与した反ユダヤ主義者であり、彼の研究におけるシューマンの文章や言葉の扱いにもそれが反映されているのだとか(Wikipediaの英語版や独語版を見ると、けっこうきわどいことが書かれている)。

となると、その研究成果(や、もちろん、その人物自体)に批判の目が向けられるのは至極当然であろうが、楽譜の校訂などはどう扱われていくことになるのであろうか。たとえば、ベティヒャーが校訂したHenle版の《幻想曲》作品17では第3楽章の最終頁に脚註で没になった当初のエンディング案が楽譜付きで示されている(これをチャールズ・ローゼンなどは賞賛している)が、同社の新版(当然、編者は異なる)ではその存在に言及されるのみで、楽譜は挙げられていない。もちろん、それは1つの考え方であり、どちらが絶対に正しいとか間違っているということではない。が、もしかしたら、新版の編者(と出版社)は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということで、「問題人物」ベティヒャーの痕跡を消去しようとしたのかもしれない。もちろん、本当のところはわからないが……。

 

選挙に投票に行ったからといって何かがすぐに変わるわけではない。が、少なくとも行かないことにはその可能性は生まれない。にもかかわらず、先日の補欠選挙でもびっくりするほど投票率は低かった。果たしてこの国はこれからどうなっていくのであろうか。

2024年4月25日木曜日

「没後50年 福田平八郎」展

  今日、「没後50年 福田平八郎」展(於:大阪中之島美術館)を観てきた。すばらしかった。彼の絵の何に惹かれるかといえば、飄々としたところ、そこはかとなく漂うユーモア感、構図やデザインの面白さ、といった点だろうか。かなりの数の作品やスケッチが展示されており、作者の確かな職人芸、芸の幅の広さ、そして、想像力・創造力の豊かさにただただ圧倒されるとともに、個々の作品を大いに楽しませてもらう。とともに、何とも晴れやかな気分になり、なんだか元気になった(私が芸術に求めるのはこうしたことであり、いくら何かを認識させ、考えさせてくれるものだとしても、その結果、絶望させる――ことがあったとしても、その中にたとえほんのわずかでも希望が見えてくるようなものならばともかく、そうでない――ような芸術であれば、私にとっては不要である)。

 

ところで、私が福田の絵画に出会ったのは中学生のとき。美術の授業で用いられていた副読本に収められていた『汀』という作品である。そこには他にもいろいろな作品(の写真)が納められていたが、この福田の『汀』とルネ・マグリットの『光の帝国』という絵がとりわけ私の心をとらえたのだった。その際、美術の教師の示唆は何もなかった。自分でそれを見つけ、好きになっただけである。が、そうした偶然の機会、その後の人生を豊かにしてくれたものとの出会いが与えられたことは幸いだったと思っている。たぶん、「何か」との同様な出会いをしている人は少なからずいよう。というわけで、やはり美術や音楽といった教科は義務教育からはなくなって欲しくない。

2024年4月20日土曜日

「全国大学生ピアノ選手権」なるものがある

 「全国大学生ピアノ選手権」(!)なるものがあることを知った(https://nupc.jp/)。教えてくれたのは関東在住で学生時代からの友人。彼女のピアノの生徒がそれに出場していたとのことで私もさっそく動画を観てみた(https://www.youtube.com/playlist?list=PLR3ZX-YqmTDNp1NeEw3F2xR2DsgYEP2m8。このうち7番目の動画でスクリャービンを弾いている学生の演奏だ)が、まあ達者なものである。他の演奏もいろいろ聴いてみたが、なかなかに楽しめる。

この選手権の参加規定が「音大以外の大学生・院生・専門学校生であること」となっているところも面白い。私は実のところ、「コンクール」とか「コンテスト」とかいった類のものは好きではないのだが、それはそれとして、今やじり貧のクラシック音楽にとってこうした企画の持つ意義は大いに認めないわけにはいかない。

まだ第1回が先頃済んだ(ただし、「Web聴衆賞」の選出はまだ。5月9日までのYoutubeでの視聴回数と高評価がカウントされるとのこと:https://nupc.jp/1st-web-audience-award/)ばかりなので、この先どうなるかはわからないが、興味を持って見守りたい(なお、その第1回の本選出場者は旧帝大か東京の有名私大の学生ばかりだが、この点は音楽社会学にとって格好のネタであろう)。

 

2024年4月19日金曜日

シューマンの《ピアノと管弦楽のための幻想曲》

  シューマンのピアノ協奏曲の第1楽章が元々は《ピアノと管弦楽のための幻想曲》として書かれたものだが、それを復元した楽譜が出ていること(Eulemburg版、1994年刊)を恥ずかしながらつい最近まで知らなかった。この「幻想曲」と「協奏曲」に大きな違いがあるわけではないが、細部にはいろいろ変更点があり、なかなかに面白い(音源:https://www.youtube.com/watch?v=K4PEANOD3yc)。そして、単純に後者が前者の「改良版」だというわけではなく(ただし、冒頭については「協奏曲」の方が断然よい)、前者にもそれなりの魅力があるように思われた(さればこそ、「協奏曲」の演奏に「幻想曲」に由来するパッセージを用いたもの――たとえば、ハインツ・ホリガー指揮の管弦楽――もあるわけだろう)。ともあれ、シューマン・ファンにとっては一見、一聴の価値ある作品だといえよう。

 

2024年4月11日木曜日

プロコフィエフの第8ソナタの楽譜

  全音楽譜出版社が継続的にプロコフィエフの楽譜を出し続けてくれていることは、彼の音楽の大ファンとしてまことにありがたいことだと思っており、今後も継続を強く期待している。

 さて、このところ同社刊の第8、第9ソナタを納めた巻で前者のソナタを見ている。編者(佐々木彌榮子)は校訂の底本にブージー&ホークス版を用いたと述べているにも拘わらず、それとは異なる箇所がいくつか目に付く。そこで試しに旧ソ連から出ていた版を見てみると、まさにこちらと一致しているのだ(のみならず、楽譜のレイアウトも同じ)。もちろん、この版(編者が校訂に用いた資料として名を挙げているのはMCA社版だが、中身は旧ソ連の版と同じ)を参考にしてブージー版を訂正することは1つの「解釈」であり、それ自体に問題があるわけではない。問題はそれを何ら断らずに行っていることだ。ここはやはり、訂正する前のかたちも註釈で示し、それを退けた理由についても説明すべきだったろう。そうすれば、楽譜ユーザーが自分で判断し選択できるわけで、その可能性を閉ざすことは現在の楽譜編集のあり方としては好ましくない(なお、浄書のミスだろうか、何カ所か臨時記号が抜けているところもあった)。とはいえ、この全音版のおかげで楽譜が入手しやすくなったのは確かであり、それは日本のユーザーにとってはありがたいことであろう(もっとも、早々に不備は正した方がよかろう。なお、きちんと資料批判を経たプロコフィエフのピアノ・ソナタの校訂版の登場は今後に待たねばならない。Henleからは第7番が出ているので、続刊に期待)

 

2024年4月3日水曜日

西洋音楽の日本語的演奏について ――あるいはクレオール語としての日本的西洋音楽――

  ここ数年考え続けていたことについて、「研究ノート」としてまとめてみた(次のリンク先からダウンロードできるので、ごらんいただきたい:https://www.jstage.jst.go.jp/article/daion/62/0/62_58/_article/-char/ja)。

2024年3月25日月曜日

第251回クラシックファンのためのコンサート:中野慶理ピアノ・リサイタル

 「クラシックファンのためのコンサート」というNPO法人がある(https://classicfan.jp/?page_id=37)。そこが主催する演奏会シリーズの通算第251回目に中野慶理先生が出演されるので聴いてきた(321日、於:大阪倶楽部会館4Fホール。なお、先生はこれまでにもこのシリーズに何度も出演されているとのこと)。

 演奏会は1時間ほどのコンパクトなものなのだが、個々の曲に先立って演奏者によるトークもあり、この会場(https://osaka-club.or.jp/guidance-room/)ならではの雰囲気も相俟って、まことに充実した時間だった。演目は次の通り:

 

 ドビュッシー(ボルヴィック編):牧神の午後への前奏曲

 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第27番ホ短調 op. 90

 ブラームス:4つの小品 op. 119

 草野次郎:「宵待草」の主題によるパラフレーズ

 

 この日もっとも楽しみにしていたのが最初の演目《牧神の午後への前奏曲》。言わずと知れた管弦楽の名曲だが、それを中野先生がピアノで弾くとなれば、何かを期待せずにはいられないではないか(しかも、自分が音楽の道へ進むことを決意させたのがこの曲だったと先生が演奏前に語っただけに、なおのこと)。そして、実際、すばらしい演奏だったのだが、聴きながら、それがどんな楽器によって奏でられているかなどはほとんど気にならず、音楽自体がストレートに迫ってくる心地がした。名曲、名演。

 続くベートーヴェンとブラームスの曲について、中野先生は演奏前に独自の解釈=物語を披露してくれたが、いずれも「なるほど、そういうふうにも音楽を読み解けるものなのか」と唸らされる(こうした「物語」で示される想像力の豊かさは先生の演奏の魅力と無関係ではあるまい)。もちろん、演奏自体にも。とりわけ心惹かれたのはベートーヴェンのソナタ、とりわけ、いわばピアノによる「リート」たる第2楽章だ。そのときに覚えた幸福感は筆舌に尽くしがたい。

 最後の演目の魅力について先生は熱く語っておられたが、演奏はそれを立証する見事なものだった。加えて、この曲にとっては今回のようなこじんまりした、親密な雰囲気の漂う会場も大いにプラスに作用したことだろう。ともあれ、ここでもやはり幸せな気分に浸ることができたわけで、作曲者(随分前に、この方の《管弦楽のための協奏曲》を実演で聴いたことがある。中身は忘れてしまったが、佳曲だったと記憶している)に感謝。

 

 中野先生の演奏はいつ聴いても何かしら発見があり、充実感と幸福感を味わうことができる。先生、今回もどうもありがとうございました。