2026年8月26日水曜日

「怖い」先生

  先日「これは驚き」という記事で話題にした「大先生」は「怖い先生」ということで有名な人だったそうだ。昔はそうした「先生」が少なくなかったようで、怒鳴り散らすのみならず、物を投げつけたり、手を上げたりするなど、「厳格さ」とは全く別の意味でも怖い先生がいろいろいたようである。

そうした「先生」たちは指導に熱が入るあまり、ついついそのように「怖く」なってしまったのだろう。だが、それは精神面・身体面での「暴力」以外の何ものでもなく、決して許されるものではあるまい。普通の学校教育の場などであれば、緊急事態に際して教師の「怖さ」が意味を持つことはありうるが、音楽の専門教育の場で教師がわざわざ暴力的な怖さを発揮する必要がどこにあるというのだろう? 

ところが、昨今そうした昔の「怖い」先生のことが再評価されつつあるようだ(たとえば、井口成基)。もちろん、彼らが日本の洋楽受容で果たした役割の大きさは大いに賞賛されるべきだろう。が、そうした「功」とともに「罪」の大きさについても冷静に検証されてしかるべきなのに、そうはなっていない。ということは、今でも程度や規模こそ異なりはしても、同じような「先生」が再生産され続けているのかもしれない。児童虐待を受けた子供がのちに虐待する親になるのと同様に(調べてみると、件の「大先生」の先生もやはり「怖い」先生として恐れられた人であった)。現在は昔のようなあからさまに暴力的に「怖い」先生は減ったかもしれないが、その変種たる「理不尽な」先生はあれこれいるようだ。もちろん、そんな先生ばかりではなく、厳格でありながらも人間として魅力的なすばらしい先生も少なからずいるのは確かだが。

日本の西洋音楽受容研究において、「怖い先生」というのは1つの面白い主題であろう。そうした教師のスタイルが何に由来し、どのようにして受け継がれ、どのような結果をもたらしたのかを冷静に検証することは、現在の西洋音楽実践にとっても意義を持つに違いない。

2026年8月24日月曜日

シベリウスもまた

  今朝、いつものようにFM放送を聴くと、すぐには曲名のわからない管弦楽曲が流れていた。そこで30秒ほど聴いていると、「ははあ、これはシベリウスっぽいなあ」と思ったが、果たしてそうだった。彼の交響曲以外の管弦楽曲は23を除き、聴いたことはあるにしても頭に入っていないのだが、むしろそのために新鮮な気分で楽しめた。

 その作品は《レンミンカイネン組曲》(別名《4つの伝説曲》)作品221893-95)。交響曲以前の作品だが、すでにシベリウスの個性が十分に発揮されており、実に面白い。それゆえ、また聴き直してみたいと思ったが、幸いCDは持っているので、これからそうすることにしよう。

 今朝はそれ以外にも第6交響曲も取り上げられていたが、まことにすばらしい音楽である。それを聴きながらふと思ったことがある。すなわち、ドビュッシーとはかなり異なる流儀ではあるが、シベリウスの音楽でもまた「旋律性」と「音響性」が重なり合っている、ということだ(ちなみに、ドビュッシーは1862年、シベリウスは1865年の生まれで全くの同世代である)。そして、この個性は先にあげた《レンミンカイネン組曲》の段階ですでに現れており、第6交響曲などの時期には全く独自の境地に到っているわけだ。ともあれ、もう少し涼しくなったら、シベリウスの音楽をいろいろ聴き直してみよう。

2026年8月22日土曜日

イラン・パペ『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』に蒙を啓かれる

  ご近所図書館でたまたま目に留まったイラン・パペ『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』(早尾貴紀・監訳、河出新書、2025年)を読み、蒙を啓かれる思いがした。同書の著者はユダヤ系イスラエル人なのだが、書名にある問題について冷静かつ客観的な立場から論じ、この問題でイスラエル(シオニスト)が行ってきた(のみならず、現に行い続けている)不正(さらには、彼らを直接・間接に手助けしてきた諸外国の罪)を実証的に描き出している。イスラエルの問題性は自分なりに理解していたつもりだが、恥ずかしながら同書を読むまで、ここまで酷いとは知らなかった。

同書の「監訳者解説」によれば、著者は2006年に『パレスチナの民族浄化』(邦訳あり)という書を著しており、それもまさにイスラエルの悪を剔抉する内容のものなのだが、そのために母国イスラエルに居づらくなって国外に移住せざるを得なくなった(行く先は英国。つまり、自国の権益のためにイスラエル建国に道を開いた国)とのことである。そして、それ以降もパレスチナ問題をさまざまな角度から論じており、その精髄が『イスラエル・パレスチナ紛争をゼロから理解する』だという。なぜ、著者はそこまでこの問題を追及するのか? それはやはり、母国の行ってきた(そして、現に行い続けている)不正を改めさせたいとの思いがあるからであり、その根底にあるのは真の意味での同胞愛であろう。だからこそ、同書をこう締めくくるのだ:

 

みずからの過去をありのまま受け入れ、地理的に隣り合わせの国々との近似性を受け入れてはじめて、イスラエルは歴史的パレスチナと中東全体のためのよりよい未来を築く一翼を担えるようになる。生きているうちにその日を迎えたい。それがわたしたちの願いだ(同書、186頁)。

 

 その実現には 当事者のみならず、「パレスチナでのイスラエルの暴力が容認される国際社会(同書、「監訳者解説」、199頁)もまた変わっていく必要がある(同書の監訳者はそうした「国際社会」のありように「日本の政権も世論も荷担してしまっている」(同書、199頁)と述べている。なるほど、大勢としてはそうかもしれない。が、たとえば昨年の国連総会の演説でイスラエルへの自制を説いた石破茂元首相のような立派な政治家もいる――ということは、その支持者も少なからずいる――し、同書のようなものも出版されているわけだから、日本にも変われる可能性はあるはずだ)。国外で活動する著者の一連の仕事はむしろこちらの方に重きが置かれているのかもしれない。

 ともあれ、私も著者同様、いつの日かイスラエルが自らの手で過去をある程度清算し、隣人たちと平和的共存ができる日がやってくることを願わずにはいられない。それが遠い未来のことかもしれないにしても……

2026年8月20日木曜日

ああ、何と美しい音楽

  ああ、何と美しい音楽であろうか:https://www.youtube.com/watch?v=yZ5Nh9pkesE。森本恭正さんの近作、《翳の響き》を聴き、その旋律、響き、造形、そして、それらを貫く精神性、これらすべての美しさ(見事さ)が胸に迫ってきた。とても幸せな気分である。

2026年8月18日火曜日

ヴァレーズの《砂漠》で気分爽快

  久しぶりにエドガー・ヴァレーズ(1883-1965)の《砂漠》(1954)を聴く。私にとってはこれは夏向きの音楽だ。手持ちのいくつかのCDの中からロバート・クラフト指揮のものを選ぶ(https://www.youtube.com/watch?v=3a8KPp-be2U&list=RD3a8KPp-be2U&start_radio=1)。スピーカーから出てくる響きはまことに涼しげに感じられ、気分爽快になった。

 ところで、この作品は器楽による部分とテープに録音した電子音響による部分が交互に演奏される。後者については現在の聴き手にとってはもはや「博物館」の収蔵品のように感じられるだろうが(だからこそ面白いともいえる)、もしかしたらこの録音を収めたLPが発売された 1962年(初演の8年後)の聴き手にとっても些か古めかしく感じられたかもしれない。というのも、そうしたものをつくり出す技術とつくり出される音響のありようは日々どんどん変わっていっていたからだ。

 この《砂漠》の電子音響部分を現代のテイストでリミックスしたら面白いかもしれない。

2026年8月16日日曜日

詐欺サイトに憤慨

  先日我が家に迎えたピアノの機種について調べるためにネットを検索していると、とんでもないものを見つけた:https://greenstar.gibtehee.click/index.php?main_page=product_info&cPath=20&products_id=48680

値段の安さに驚きだが、これは常識ではありえない。そこで注意してこのページを見ていると、おかしな文言が目に入る。曰く「在庫が少ないので、ご注文はお早めに!」。ということは同じ機種を複数台扱っているのか? ところが、下の方を見ると製造番号がきちんとあげられているではないか。言うまでもないが、ピアノは1台ごとに製造番号が異なるわけで、これはますます怪しい。そこで調べてみると、果たして詐欺サイト、つまり、代金を振り込んでも商品を送ってこない詐欺師の手になるものであった(ということは、このピアノ以外の「商品」もすべてそうだということになる)。

 検索してみると、同様な詐欺サイトは複数あった(https://bhfycqot.iyibal.com/index.php?main_page=product_info&products_id=21494。この価格は絶対にあり得ない!)のだが、このA1に関してはどれも同じ製造番号があげられていた。なぜそんなことになるのか? そこでさらに調べてみると、この楽器をかつてきちんとした楽器店が中古品として扱っており、その際ネット上にあげられていたデータを流用していたようなのだ。全く、よくやるよ。まあ、ピアノのような高い買い物、しかも直接自分で試し弾きせずに購うようなことのないものでこうした詐欺に引っかかる人はいないだろうが、もっと安い商品ならば欺される人も少なくないのではないか。ともあれ、見慣れないサイトで買い物をしようとする際にはご用心のほどを。

 ところで、件のサイトがインチキだということを別の点からも断言できる。すなわち、そこにあげられている製造番号のピアノこそ、まさに我が家に迎えたものだからだ(何たる偶然!)。もちろん、きちんとしたところ、すなわち、(おそらく先に述べた「きちんとした楽器店」から購入した人が手放したものを引き受けたであろう)アトリエ・ピアノピアさんからである。そして、このピアノには大いに満足している。製造が1994年だから、それから32年の年月が経つわけだが、状態はまことによく、これまでにこの楽器を弾いてきた方々や扱ってきた方々に大切にされてきたのだろう。このよいご縁にはただただ感謝あるのみだ。それだけに詐欺サイトの件は不愉快極まりない。

 

2026年8月14日金曜日

これは驚き

  先日、読書をしていて、ある件に心底驚いた。内容をかいつまんで言うと次のようになる――日本のあるピアノの大先生(国立の大学で長く教鞭を執った人)が1人の生徒を高校入学時から大学院修了までの9年間教えたのだが、演奏上の悪い癖を直させることができなかった。そのためか、その生徒は演奏家として立つことを断念し教師として生きる選択としたというのだが、その門出にあたって大先生は「生徒の前で弾いてはいけない。もし、弾くときにはそれが『悪い見本』だと断ってからにしなさい」と弟子に言ったという――(いつもなら典拠を示すところだが、そこには実名が書かれており、私は必ずしも個人攻撃をしたいわけではないので、今回は略す)。なるほど、その生徒にピアニストとしてのある種の技術が欠けていたのは確かだろう。が、9年も面倒をみていながら、それを直すことができないというのは、教師の側にもかなり大きな問題があるのではないか。そして、件の大先生にはその自覚が一切ないのだ。これを驚かずにいられようか。

 もちろん、名演奏家は必ずしも名教師ではない。むしろ、逆のことが多いようだ。何となれば、才能のある演奏家は凡人ができないことをさらっとやってのけるが、それだけに凡人がそうできない理由がわからないからだ。その大先生もそうだったのかもしれない。が、少なくとも苦労している生徒の現実は目にしていたわけだから、その手助けをできる別の教師(が仮にいたとすれば、その手)に委ねるという手もあったはずだ。それが無理ならば、もっと早い段階で引導を渡すということもできたであろう。それを大学院修了までさせたあげくに上述のようなことを言うのだから、あんまりだ。

 もっとも、これは日本に限ったことではないようで、もっと酷い話もある。すなわち、フランスのあるピアノの先生は自分の弟子が国際コンクールでの演奏で「極端に不合理な動き」をすることを嘆いておきながら、人から「どうして悪い習慣をやめるように注意しなかつたのか」と「咎められると「身体的な問題点を矯正するのは自分の義務ではない」と答えたという(ピーター・フォイヒトヴァンガー『ピアノにおける音楽的表現のためのエクササイズ』、CLAP2026年、12頁)。つまり、自分が面倒を見るのは音楽面のことであり、それ以外のことは関係ない、というわけだ。

 なるほど、それはそれで1つの考え方ではあろう。が、目の前の生徒が苦しんでいるにもかかわらず、その問題点の解決を手伝わない、もしくは解決に導いてやれないというのは、教師としていかがなものだろうか(上の事例を示したフォイヒトヴァンガーも「それが教師の義務でないとしたら、いったい誰の義務だというのであろうか」(同)と憤慨している)。その問題点に教師が気づいていなかったのならば仕方がない。が、そうではなかったのならば、何もできなかったことを教師は恥じてしかるべきだったろうに(もし恥じていたのならば、大先生がその件を人に語るときにそうした調子があったはずだが、それはなく、生徒の資質の問題にすぎないとみなしていたようだ。そして、だからこそ、平気で人に話せたのだろう)。まあ、大先生の件は昔のことであり、現在の日本ではこのようなことはないであろう、と信じたい…………。