今日、妻が記した言葉――「地震が心配で心ざわつきますが、自分が幸いにも日常の暮らしを営むことが出来るならばそれぞれに精一杯仕事をこなし、あとは黙ってどこかで支援をする。それに尽きるのではないだろうかと過ごしています」。私もそう思う。
音楽その他についての雑記
Notas misceláneas sobre la música y otros
2026年7月30日木曜日
2026年7月29日水曜日
珍しくも二晩続けて
とことん出不精の私だが、珍しくも二晩続けてお出かけを。
昨晩は夫婦で「阪大コレギウム・ムジクム「楽器再発見」映画上映&ワークショップ」(https://musicologyosaka.wordpress.com/2026/07/17/%e3%80%90%e7%ac%ac26%e5%9b%9e-%e9%98%aa%e5%a4%a7%e3%82%b3%e3%83%ac%e3%82%ae%e3%82%a6%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%83%a0%e3%82%b8%e3%82%af%e3%83%a0%e3%80%8c%e6%a5%bd%e5%99%a8%e5%86%8d%e7%99%ba%e8%a6%8b/)。今回の司会者が旧知の森本恵一さんであり、そこで取り上げられた楽器にも興味があったし、このところ拙宅の楽器についていろいろお世話になっているPIANOPIAの小川瞳さんも出演するとなれば出かけないという手はない。映画はすでに昨年に観ているのでワークショップのみ参加したが、とても楽しかった。小レクチャーも充実していたし、いろいろと楽器に触れられたのもよかった。旧知の方何人かとお話もできたし。ともあれ、企画・運営に関わった方々に心から御礼申し上げたい。
なお、この「阪大コレギウム・ムジクム」の存在はこれまで全く知らなかったのだが、何か面白そうな会のときにはまた参加してみたいものだ。好奇心一杯の音楽愛好者の方々にもお勧めしたい。
今晩はザ・フェニックスホールで「フェニックス・エヴォリューション・シリーズ114
トリオ・エクス×ブラームス ~3つの第2番、円熟の響き~」(https://phoenixhall.jp/performance/2026/07/29/25093/)を聴いてきた。前から楽しみにしていたのだが、その期待は十分に満たされた。
演奏会前半にはブラームスのチェロ・ソナタとヴァイオリン・ソナタの、そして、後半にはピアノ三重奏曲のそれぞれ「第2番」が取り上げられていたのだが、断然後半がすばらしかった。前半のソナタもなかなかよい演奏だったが、些かきれいにまとまりすぎているきらいがなくなかった。それに対して、三重奏曲では表現がもっと大胆かつ繊細なものとなっており、その説得力のある演奏にはその3人が一緒に演奏することの意義がまことにはっきりと示されているように感じられた。よい音楽を聴かせてもらい大満足である。演奏者と関係者の皆様、どうもありがとうございました。
2026年7月27日月曜日
ドビュッシーの音楽における旋律性と音響性の重なり
ドビュッシーは自分の音楽が「旋律を廃止したもの」として賞賛されていることに驚き、それが「ただ旋律であろうとしてしかいない」と声を大にして異議を唱えたという。では、賞賛者たちはドビュッシーの音楽のありようを根本的に見誤ったのだろうか? そんなことはないと私は思う。なるほど、「旋律を廃止」というのは言い過ぎだったかもしれないが、そう受け取られても仕方のない面がそこにあったのは確かだろう。すなわち、彼の音楽は旋律を構成要素の一部として包含する「音響(サウンド)」としても聴かれたに違いない。
おそらく、このことは次のように考えればよいのではなかろうか――①ドビュッシーの音楽は「旋律性」と「音響性」を重ね持っている。②両者の程度は作品によって、また、1つの作品の中でも場面によって異なっており、それが音楽に多彩さ、広がりと深みをもたらしている。③そして、そのことが作品の理解・解釈にかなりの幅の大きさを生み出している(すなわち、旋律性と音響性のどちらに注目するかによって作品の見え方(聞こえ方)が大きく異なってくる)――というふうにである。
2026年7月26日日曜日
いろいろ
先日、ベートーヴェンの田園交響曲を聴いていたときのこと。第5楽章が始まってしばらくしてから急に「この主題はまあ、何と不思議な旋律であることか」と感じた。ほとんどが分散和音でできており、お世辞にも美しい旋律だとはいえない。が、その何とものびやかなさまに聴いているこちらの心身も自然と同調してしまうのだ。それはこの主題に限らず、この楽章全体がそうであるし、他の楽章も概してそうだ。ベートーヴェンというと堅固な構築性が取りざたされることが多いが、この田園交響曲のような「のびやかさ」や「大らかさ」を持つ作品も少なくない。そして、今の私はむしろそうした面でベートーヴェンを好ましく感じている。
このところ、改めて「楽曲分析」とは何かを考えている。それは結局のところ「何をわかりたいか」に応じてさまざまなかたちを採る(採らざるを得ない)ものであり、何か1つの「基本的な」流儀なるものがあるわけではない。だから、仮に楽曲分析について概説書のようなものを書くとすれば、対象に応じて変わりうるさまざまな流儀を併記し、「こんなふうにもできるんですよ」という例をあれこれ示すことができるのみだろう。
‘Als ich mein neues Klavier bekam’――これはフリードリヒ・グルダがギムナジウムの4年生のときに書いた作文の題名。我が家でも今日、まさに同じことがあり、とてもうれしい。中古だがとてもよい状態のもので、これからピアノを弾くのがいっそう楽しくなりそうだ。ともあれ、家族や今回の件でご縁のあった方々に心から感謝を。
2026年7月24日金曜日
メモ(160)
ジョン・ケィジがサティの《ソクラテス》に基づく《チープ・イミティション》を書いたのは、著作権の都合で前者の編曲をバレエに用いることができなかったからだ。が、だとすると、後者は前者の「編曲」だとはみなされなかったことになる(もし、みなされていたならば著作権料を支払わねばならなかっただろう)。まあ、それは当然と言えば当然のこと。両者の譜面(ふづら)は大きく異なっているからだ。
では、ケィジの「偶然性」による作品の制作に用いられたアイディアを拝借したとすればどうか。この場合も、結果としてできあがる譜面が全くの別物になるはずである以上、「編曲」とはみなされまい。が、ケィジ作品のある種のものでは、楽譜によるアウトプットに負けず劣らず(場合によってはそれ以上に)元のアイディアが重要であり、作品のアイデンティティに関わっている。となると、そうした「拝借」はcopyrightは侵していないが、authors’ rightsは侵しているのだと考えることもできよう。もちろん、ケィジはそんなことには拘らなかっただろうが。
今年の夏もとにかく暑い。すると、音楽どころではなくなってくる。が、逆にこんな季節だからこそ聴きたくなるものもある。ケィジの音楽もそうしたものの1つだ。
2026年7月21日火曜日
中野慶理先生の演奏動画
私が尊敬し、敬愛するピアニストである中野慶理先生からご自身のリサイタルの一部を収録した動画がアップされていることをお知らせいただいた(https://www.youtube.com/watch?v=x3zzREeodYY)。そこでさっそく拝聴したが、やはりすばらしい。選曲は硬軟取り混ぜたものだが、いずれもその作品にふさわしい表現がなされており、とにかく引き込まれてしまった。
最初の草野次郎《「宵待草」の主題によるパラフレーズ》はご存じの名曲に基づくものだが、なかなかの難物だ。というのも、多彩で繊細かつ微妙な表現をピアノから引き出せる人が弾かないと、甘ったるくてだらだらした曲になってしまいかねないからである。が、もちろん、中野先生の手にかかればそんな心配はない。原曲の持つ魅力を巧みにパラフレーズした作曲者の技とそこから生まれた豊かな音楽を存分に味わわせてもらった。
続くショパンの《幻想曲》もやはり難物である。これも真の意味での技術と音楽性を持たないピアニストの手にかかると見るも無惨な音楽(なんだか同じところをぐるぐる回っているような感じ)になってしまう作品だが、中野先生はこの作品の劇的なドラマを見事に聴かせきった。最後のカデンツの何と感動的だったことか。
ベートーヴェンの〈ロンド ハ長調〉はピアノの初学者にとってはお馴染みの曲である。が、それだけにただなんとなく通過されがちでもったいない作品でもある。私はなぜかこの曲が大好きなので、今回聴けてとてもうれしかった。先生の演奏を聴きながら、なぜか’Sehnsucht(憧れ)’という語が浮かび、最後までそれが頭から離れなかった。それはもしかしたら、子供の頃に自分が音楽に対して抱いた感情の記憶をこの演奏が呼び覚ましてくれたからかもしれない。
締めくくりの2曲はアンコール演奏であろうか。久石譲の〈もののけ姫〉と〈人生のメリーゴーラウンド〉というお馴染みの映画音楽である。これがまたすばらしかった。もちろん楽曲自体の持つ魅力もある。が、それに加えてこうしたものを何の外連味もなくすっと弾いてみせる先生の技と音楽性の賜物でもあろう。
ともあれ、抜粋とはいえ、実にすばらしい、そして、素敵な演奏だった。こうしたものを聴くと、今度は久しぶりに演奏会場で中野先生の演奏に接したいものだと強く思う。さて、そのときはどんな作品が取り上げられ、どのような演奏がなされるだろうか。楽しみにその機会を待つことにしたい。
2026年7月18日土曜日
メモ(159)
管弦楽曲の創作における「管弦楽法」に相当するものを優れたピアノ曲の作曲家は十分に心得ていることだろう。この楽器で奏でられる垂直・水平の両面での音の連なりと組み合わせは多種多様な響きをもたらすわけであり、それを統制する技術力は作品の出来に大いに関わってくる。
音の構成がいくら見事でも、それがピアノという楽器の現実に合わないものであれば、その作品はピアノ曲としては出来がよいとはいえまい(ベートーヴェンのピアノ曲ではたまにそうした頁に出くわす)。逆に、楽譜の音だけを見るならば今ひとつ物足りないように思われる作品でもいざピアノで弾いてみると大いに輝きを増すものもある。
こうした観点から独奏ピアノ作品とその歴史を精査してみれば面白かろう(もちろん、その場合、時代による楽器の違いを考慮する必要はあろう)。
何かをつくりあげていくには恐るべき時間と労力が必要なのに対し、それを壊すことはあっという間にできる。もちろん、創造的破壊が必要なこともあろう。だが。今この国で繰り広げられているさまざまな「破壊」(反面、本当に破壊されるべきものは一向に破壊されないが……)は果たしてどうなのだろう?