2026年8月3日月曜日

ハンス・アイスラーの管弦楽曲を楽しく聴く

  ハンス・アイスラー(1898-1962)の管弦楽曲を手持ちのCD(今や生産中止のまことに便利な10枚組)で久しぶりに聴いてみたが、まことに面白い。とにかく「聴かせる」音楽に仕上がっており、その見事な職人芸に打たれる(たとえば、次のものなど:https://www.youtube.com/watch?v=xErSSMF8ruw&list=RDxErSSMF8ruw&start_radio=1)。彼はシェーンベルクの弟子で、「新ヴィーン楽派第4の男」とも言われる人だが、果たして現在、彼の作品がどの程度受容されているのだろうか。

 試しにHMVのショップで調べてみると、CD20点しかない。だが、同門のヴェーバーンの場合はもっと少ない(さすがにもう少しポピュラーなベルクではDVDなども含めて51点あった)。となると、アイスラーだけが冷遇されているわけでもなさそうだ。

 演奏会ではどうなのだろうか。ちなみに、私はヴェーバーン作品は何度か実演で聴いたことがあるが、アイスラー作品は一度もないし、近場の演奏会で取り上げられた例も知らない。もちろん、欧米ではもっと演奏の機会があるだろうが(Wikipediaの日本語版とは異なり、ドイツ語版での「ハンス・アイスラー」の項はまことに充実している)、それほど人気があるわけでもなかろう。

 アイスラーの作風は元々先鋭的なものだったのだが、やがて社会主義に共鳴して(師匠シェーンベルクなどに比べれば)「わかりやすい」ものに転じた。だが、その中身は(私が聴く限りでは)しっかりしており、決して権力や大衆に迎合しているわけではない。それゆえ、「前衛」時代の作品も含めて、もっと演奏されてもよいような気がする(ちなみに、楽譜についてはBreitkopf全集が刊行中)。私の場合、器楽曲の方に興味があるのだが、彼の3曲のピアノ・ソナタを取り上げる演奏会があれば、迷わずに聴きにいくだろう。

 

2026年8月1日土曜日

演奏と演技の違い?

  西洋音楽の「作品」を演奏するとき、演奏者はそれを己の身に引き受けつつも、同時にいくらか突き放している――つまり、自分が現に行っていることを醒めた目(耳)でとらえ、フィードバックを行っている(たとえばブゾーニは何かが憑依したような演奏をしているにもかかわらず、「醒めた目」の必要性を説いている)。

では、役者はどうなのだろう? 彼らは自分の役柄を舞台の上で「生き」ているわけだが、やはり同時に「醒めた目」で己の演技を見ているのだろうか? 私は演劇には暗いので知らないが、何かそうしたことを説いたものがあれば読んでみたい。

 

 新しい(中古)ピアノが我が家に来てほぼ1週間。これからゆっくり時間をかけて楽器を自分に合うように弾きこんでいくとともに、自分の身体を楽器に合わせていくことになる。果たして1年後にそこから産み出される音はどう変わっているだろうか。

2026年7月30日木曜日

Me too.

  今日、妻が述べた言葉――「地震が心配で心ざわつきますが、自分が幸いにも日常の暮らしを営むことが出来るならばそれぞれに精一杯仕事をこなし、あとは黙ってどこかで支援をする。それに尽きるのではないだろうかと過ごしています」。私もそう思う。

2026年7月29日水曜日

珍しくも二晩続けて

  とことん出不精の私だが、珍しくも二晩続けてお出かけを。

 

 昨晩は夫婦で「阪大コレギウム・ムジクム「楽器再発見」映画上映&ワークショップ」(https://musicologyosaka.wordpress.com/2026/07/17/%e3%80%90%e7%ac%ac26%e5%9b%9e-%e9%98%aa%e5%a4%a7%e3%82%b3%e3%83%ac%e3%82%ae%e3%82%a6%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%83%a0%e3%82%b8%e3%82%af%e3%83%a0%e3%80%8c%e6%a5%bd%e5%99%a8%e5%86%8d%e7%99%ba%e8%a6%8b/)。今回の司会者が旧知の森本恵一さんであり、そこで取り上げられた楽器にも興味があったし、このところ拙宅の楽器についていろいろお世話になっているPIANOPIAの小川瞳さんも出演するとなれば出かけないという手はない。映画はすでに昨年に観ているのでワークショップのみ参加したが、とても楽しかった。小レクチャーも充実していたし、いろいろと楽器に触れられたのもよかった。旧知の方何人かとお話もできたし。ともあれ、企画・運営に関わった方々に心から御礼申し上げたい。

なお、この「阪大コレギウム・ムジクム」の存在はこれまで全く知らなかったのだが、何か面白そうな会のときにはまた参加してみたいものだ。好奇心一杯の音楽愛好者の方々にもお勧めしたい。

 

 今晩はザ・フェニックスホールで「フェニックス・エヴォリューション・シリーズ114

トリオ・エクス×ブラームス ~3つの第2番、円熟の響き~」(https://phoenixhall.jp/performance/2026/07/29/25093/)を聴いてきた。前から楽しみにしていたのだが、その期待は十分に満たされた。

 演奏会前半にはブラームスのチェロ・ソナタとヴァイオリン・ソナタの、そして、後半にはピアノ三重奏曲のそれぞれ「第2番」が取り上げられていたのだが、断然後半がすばらしかった。前半のソナタもなかなかよい演奏だったが、些かきれいにまとまりすぎているきらいがなくなかった。それに対して、三重奏曲では表現がもっと大胆かつ繊細なものとなっており、その説得力のある演奏にはその3人が一緒に演奏することの意義がまことにはっきりと示されているように感じられた。よい音楽を聴かせてもらい大満足である。演奏者と関係者の皆様、どうもありがとうございました。

2026年7月27日月曜日

ドビュッシーの音楽における旋律性と音響性の重なり

  ドビュッシーは自分の音楽が「旋律を廃止したもの」として賞賛されていることに驚き、それが「ただ旋律であろうとしてしかいない」と声を大にして異議を唱えたという。では、賞賛者たちはドビュッシーの音楽のありようを根本的に見誤ったのだろうか? そんなことはないと私は思う。なるほど、「旋律を廃止」というのは言い過ぎだったかもしれないが、そう受け取られても仕方のない面がそこにあったのは確かだろう。すなわち、彼の音楽は旋律を構成要素の一部として包含する「音響(サウンド)」としても聴かれたに違いない。

 おそらく、このことは次のように考えればよいのではなかろうか――①ドビュッシーの音楽は「旋律性」と「音響性」を重ね持っている。②両者の程度は作品によって、また、1つの作品の中でも場面によって異なっており、それが音楽に多彩さ、広がりと深みをもたらしている。③そして、そのことが作品の理解・解釈にかなりの幅の大きさを生み出している(すなわち、旋律性と音響性のどちらに注目するかによって作品の見え方(聞こえ方)が大きく異なってくる)――というふうにである。

2026年7月26日日曜日

いろいろ

  先日、ベートーヴェンの田園交響曲を聴いていたときのこと。第5楽章が始まってしばらくしてから急に「この主題はまあ、何と不思議な旋律であることか」と感じた。ほとんどが分散和音でできており、お世辞にも美しい旋律だとはいえない。が、その何とものびやかなさまに聴いているこちらの心身も自然と同調してしまうのだ。それはこの主題に限らず、この楽章全体がそうであるし、他の楽章も概してそうだ。ベートーヴェンというと堅固な構築性が取りざたされることが多いが、この田園交響曲のような「のびやかさ」や「大らかさ」を持つ作品も少なくない。そして、今の私はむしろそうした面でベートーヴェンを好ましく感じている。

 

 このところ、改めて「楽曲分析」とは何かを考えている。それは結局のところ「何をわかりたいか」に応じてさまざまなかたちを採る(採らざるを得ない)ものであり、何か1つの「基本的な」流儀なるものがあるわけではない。だから、仮に楽曲分析について概説書のようなものを書くとすれば、対象に応じて変わりうるさまざまな流儀を併記し、「こんなふうにもできるんですよ」という例をあれこれ示すことができるのみだろう。

 

 ‘Als ich mein neues Klavier bekam’――これはフリードリヒ・グルダがギムナジウムの4年生のときに書いた作文の題名。我が家でも今日、まさに同じことがあり、とてもうれしい。中古だがとてもよい状態のもので、これからピアノを弾くのがいっそう楽しくなりそうだ。ともあれ、家族や今回の件でご縁のあった方々に心から感謝を。

2026年7月24日金曜日

メモ(160)

  ジョン・ケィジがサティの《ソクラテス》に基づく《チープ・イミティション》を書いたのは、著作権の都合で前者の編曲をバレエに用いることができなかったからだ。が、だとすると、後者は前者の「編曲」だとはみなされなかったことになる(もし、みなされていたならば著作権料を支払わねばならなかっただろう)。まあ、それは当然と言えば当然のこと。両者の譜面(ふづら)は大きく異なっているからだ。

 では、ケィジの「偶然性」による作品の制作に用いられたアイディアを拝借したとすればどうか。この場合も、結果としてできあがる譜面が全くの別物になるはずである以上、「編曲」とはみなされまい。が、ケィジ作品のある種のものでは、楽譜によるアウトプットに負けず劣らず(場合によってはそれ以上に)元のアイディアが重要であり、作品のアイデンティティに関わっている。となると、そうした「拝借」はcopyrightは侵していないが、authors’ rightsは侵しているのだと考えることもできよう。もちろん、ケィジはそんなことには拘らなかっただろうが。


 今年の夏もとにかく暑い。すると、音楽どころではなくなってくる。が、逆にこんな季節だからこそ聴きたくなるものもある。ケィジの音楽もそうしたものの1つだ。