1週間ほど前にドビュッシーの音楽における「旋律性と音響性の重なり」ということを話題にしたが、このことはいろいろな問題に展開できるだろう。
20世紀後半の「現代音楽」の作曲家の多くはおそらく、ドビュッシーからもっぱら「音響性」の面を学びとり、それが旋律性と二重性を成すことはあまり眼中になかったように思われる(その点、武満徹は少数の例外的存在かもしれない。が、その彼も80年代以降の作品では旋律性が音響性をほとんど覆い隠すようになってしまった)。そのため、彼らの作品には「音響」面での魅力はあるものの、それ以上の「深み」や「広がり」があまり感じられない。それゆえ、たぶん、そうした作品はいずれ忘れ去られることになるのではなかろうか(まあ、遠い将来、発掘される可能性を持つ「名曲」もあるが)。
その点、ご本尊のドビュッシーの作品は時代の移り変わりを経ても、さまざまな「聴かれ方」をされ、末永く生き残ることだろう。そして、その意味で彼の音楽からはまだまだいろいろなことが学べるはずだ。