日本語の歌曲で歌詞がよく聞き取れないものならば、それをきちんとリアルタイムでわかりたいと思っている聴き手にとってはその歌曲はあまりよいものだとはいえまい。が。その同じ歌曲を歌う者がそこに何らかの心地よさを感じられるものならば、それはよい曲だということになろう。また、聴き手であっても、歌詞などは余り気にせずに旋律や響きを味わいたい者であれば、いくら歌詞が鮮明に聞き取れはしても美しくない旋律の歌など願い下げだろう。というわけで、日本語歌曲の良し悪しを判別する際に「歌詞が鮮明に聞こえる」ということを必要条件としてよいものかどうか……。なかなか難しい問題である。私個人としては歌詞はきちんと聞こえるものであった欲しいが、そうでない歌曲をすべて切って捨てるのは乱暴だとこのところ思い始めてもいる。
音楽その他についての雑記
Notas misceláneas sobre la música y otros
2026年11月3日火曜日
2026年11月2日月曜日
「読みどき」の到来
先頃、作家の村上龍が亡くなった。私にとって、彼はほとんど未知の存在であった。というのも、一篇を除き、彼の小説を読んだことがなかったからだ。その「一篇」とは出世作『限りなく透明に近いブルー』なのだが、それに初めて触れたとき、あまりよい印象を抱かなかったがために、これまで他の作品をずっと読まずに通してきたのである。
それにもかかわらず、村上の存在はどこか気になっており、「いつかは読まねば!」と思ってもいた。そして、最近、妻がオーディブルで村上作品の朗読を聴いて「面白い」と言い出し、そこに村上の訃報が重なったものだから、いよいよ「読みどき」が到来したことを感じた。
ご近所図書館から2冊ばかり借りてきて読み始めたところだが、なるほど、確かに面白い。今まで遠ざけてきたことを後悔するほどにである。が、「ものに皆時宜あり」なので、せいぜいこれから楽しませてもらおう。この歳になってもこうした出会いがあるのはありがたいことである。
来年はピエール・アンリ(1027-2017)の生誕100年ということでそれに先だって包括的なCDボックスが発売されるとのこと(https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%80%81%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%881927-2017%EF%BC%89_000000000062355/item_%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%EF%BC%8F100%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%EF%BC%8831CD%EF%BC%89_17367127)。彼は電子音楽の大家であり、その創作に一生を捧げた人である。その創作の軌跡には少なからず興味があるが、電子音楽は聴いていて(たとえ面白いと感じるものでも)耳が酷く疲れるようになったので(昔はそんなことはなかったのに……。今日も手持ちのアンリ作品のCDを少しばかり聴いてみて、楽しかったが同時にとても耳が疲れた)、この31枚組のCDに手を出したものかどうか、思案中だ。
今日は愛犬シャーロット10歳の誕生日。その存在にはただただ感謝あるのみ。
2026年10月31日土曜日
《涅槃交響曲》はそれほどの名曲だろうか?
岩城宏之指揮、NHK交響楽団の演奏・録音(1972)で黛敏郎(1929-97)の《涅槃交響曲》(1958)をスコアを眺めつつ聴いてみた。この作品は画期的な名曲だとされるが、今回、久しぶりにじっくり聴いてみて、「そこまでの名曲かしら」と思った。もちろん、随所にいろいろ面白いところのある作品だし、日本の西洋音楽史には特記されるべきものではあろう。が、これが後世まで演奏され続けるだけの名曲であるようには私には感じられなかった。というのも、それはいろいろな面で実験に留まるものであり(まあ、このことは「現代音楽」の世界でこれまで「名曲」だとされてきた多くの作品についても言えよう)、未整理なところ(この曲の場合には、いろいろな様式のごたまぜ感)が少なからずあるように思われたからだ。その点でこの《涅槃交響曲》よりも少し後の作品、すなわち、《曼荼羅交響曲》(1960)や《舞楽》(1962)の方がもっとよくできているし、いっそう楽しく聴ける。「名曲」として残ってしかるべきなのはこちらの方ではなかろうか。
ところで、その《涅槃》については、作品自体よりも、それが他者に及ぼした影響を追いかける方が面白いかもしれない。この作品は当時はもちろん、のちの作曲家たちにも少なからぬ影響を与えたはずだからだ(たとえば、松村禎三の60年代の管弦楽曲は、もし《涅槃》がなければ、かなり違ったかたちになっていたのではないかと想像される)。そして、その意味ではやはり《涅槃》の登場は1つの「事件」だったと言えようか。
2026年10月29日木曜日
それなりによい演奏ではあっても
最近のことだが、たまたまつけたラジオで有名作曲家の有名作品が演奏されているのを聴いた。きちんとした、それなりによい演奏であり、その演奏家が誠実に音楽に向かい合っていることがよくわかるものだった。それゆえ、すがすがしさを覚えつつ、最後まで聴いてしまった。
だが、実際にその人の演奏会に自分が出かけることはまずないだろう。なぜか? 耳にタコができるほど聴き、聞かされてきた有名作品ゆえに、放送などならともかく、わざわざ出かける演奏会では尋常ではないものを求めたくなるからだ。そして、残念ながら、その放送での演奏からはそうしたものを感じられなかったのである。
繰り返すが、その演奏は実にきちんとした演奏であり、十分に音楽的であった。が、自分の耳は有名作品に対してはもはやそれでは満足できなくなってしまったのである。となると、有名作品ばかりが取り上げられ、さほど興味の持てない演奏家が出演する演奏会には足が向かなくなるのも仕方があるまい。
もちろん、数多いる演奏家のほとんどを私は知らないわけだから、「興味の持てる」演奏家に出会うためには演奏会に足繁く通う必要があるのかもしれない。が、自分にはいろいろな面でその余裕がないので、「偶々の出会い」を待つしかなかった。そして、振り返ってみれば、その「偶々」の中にむしろよい出会いがあったような気がする。できればこれからもそうであってくれますように。
今や大学でも「カスハラ」が取りざたされるようになった。先日耳にした話だが、どこかの大学で学生に対して「カスハラに注意」する旨のメールが大学から一斉送信されたという。もちろん、ここでの「カス(タマー)」は「学生」のことである。これまでは教員に対して「アカハラに注意」ということがさんざん言われてきたわけだが、遂に学生が大学に対して行うハラスメントが問題にされるに到ったわけだ。何ともはや……。
2026年10月27日火曜日
メモ(166)
日本語の詩に付曲する場合、旋律線のありようは言葉の高低アクセントに強く縛られることになる。すると、いくら詩としてはよいものであっても、歌にするとその魅力が失われてしまうということは大いにありうる。
ならば、作曲家は先に好きに旋律をつくっておいて、それにあうように自分で詩を書くか、さもなくば詩人に言葉を書いてもらうかすればよかろう。ポピュラー音楽では「曲先」というのがあることだし……。
さて、そのようにして後から書かれた歌詞を音楽抜きで詩として見た場合、最初から詩として書かれたものと比べて質の面で違いが生じるだろうか? 事情を知らない第三者に両方の詩を比較検討してもらうと、どのような結果になるだろうか?
2026年10月24日土曜日
パオロ・カスタルディの奇作《エリーザ》
パオロ・カスタルディ(1930-2021)の奇作《エリーザ》(1964-67。以前、このブログで一度話題にしているが、拙著『黄昏の調べ』第3章第4節でも取り上げている作品)の楽譜つき動画を見つけた(https://www.youtube.com/watch?v=8zSJ7JH3LOA&list=RD8zSJ7JH3LOA&start_radio=1)。昔々、これを金澤攝さんの演奏で聴かせてもらったときにはびっくり仰天したが、今聴いてもやはり驚かされる。ブラックな喜劇のような作品であるが、同時にそこには現実への批判が込められているようにも聞こえる。ある時期のカスタルディ作品は趣向こそその都度違うものの、根本の姿勢は同じであり、そうしたカスタルディ作品は今現在でも輝きを失ってはいない。いや、「今現在でも」どころか、「今がこんな世の中であるからこそ」と言い直すべきだろうか(ヴァグネリアンが大激怒すること必定の《黄金 L'oro》(1968)を実演で聴いてみたいものだが、まず無理だろうなあ)
2026年10月22日木曜日
今年は岩城宏之の没後20年だとか
指揮者の岩城宏之が亡くなって今年で20年だとか。私は自分が気になる人の生没年は頭に入っているのだが、彼の場合には生年しか覚えていなかった。私も岩城が日本の西洋音楽界で成し遂げたことの大きさには賞賛を惜しまない。それにもかかわらず、その「没後20年」に気づかなかったのは、この人のことがあまり好きではなかったからだろう。彼の言行にはいわゆる「歯が浮くような」ところが多々あった。たとえば、ベートーヴェンの交響曲を一日で演奏するなど、自己顕示欲の現れ以外の何ものでもなかろう。また、ふと思い出したのだが、岩城が指揮する演奏会で次のようなことがあった。演目に武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》があったのだが、その前に岩城がトークを行い、その中で当日のプログラムに載せられていた曲目解説を批判し、書き手の無理解をなじっていたのである。実のところ、そこで岩城が言っていた内容自体は大いに首肯できるものだったのだが、それをああした場でわざわざ言うさまを目の当たりにし、「ああ、この人は嫌な人だなあ」とつくづく思ったものである。
では、なぜ、その「没後20年」を知ったかといえば、書店でたまたま岩城を論じた本が目に止まったからだ。そこで、手にとってぱらぱらとめくってみたところ、それがいわゆる「礼讃本」であることがわかった。もちろん、この手の本があって悪いわけではない。が、もし、本当に岩城の業績を讃えるのならば、冷静に彼の指揮者としての軌跡を具体的なデータでもって示した方がよかったと思う。岩城はいわゆる「現代音楽」に力を注いでおり、日本の作曲家の作品については必ずしも「前衛」とは限らないものも含めて多くの初演・再演を手がけてきた。それゆえ、その記録を示すだけでも十分な「オマージュ」になったに違いない(し、資料としての価値も高いものになったことだろう)。のみならず、「現代音楽」がまだ存在感を持っていた時代についての貴重なドキュメントになったことだろう。というわけで、誰かそうした本を著してくれないものだろうか。さらに欲を言えば、岩城の活動をその時代背景の中で冷静かつ批判的に描き出す「岩城宏之とその時代」のようなものならば、いっそうよい。岩城はそのようにして論じられる意義のある重要人物だと思うからだ(なお、日本の西洋音楽関係の人物について、「礼讃本」はいろいろあり、その中には読み応えのあるものもあるが、こうした「○○とその時代」の類の本は残念ながらまだ書かれていない。やはり、まだいろいろ差し障りがあるからだろうか。ともあれ、これはいろいろな「しがらみ」から自由な若い書き手に期待したいところだ)。
ところで、岩城の「没後20年」に絡めてTower Recordsが彼の指揮した日本の作品の録音をCD4枚で復活させた(https://tower.jp/article/feature_item/2026/09/25/1121)。
そこでそのうち三善晃その他の作品を収めたものを聴いてみたが、すばらしかった。 1 曲を除き1960年代に書かれた作品がその完成からさほど時を経ずして演奏・録音されているのだが、こうした作品が生まれた時代の熱気を強く感じさせるものだった。岩城の指揮もこの頃のものは実によい(平吉毅州(1936-98)の《交響変奏曲》(1969)(https://www.youtube.com/watch?v=xSlk7CeP3oc&list=RDxSlk7CeP3oc&start_radio=1)と出会えたのはうれしい驚きだった。私にとってこの人は「合唱曲」の作曲家だったのだが、管弦楽でもこれほどの作品を残していたとは……。実はこの曲は少年時代に聴いてはいたが、そのよさが当時はわからなかったのである。全くお恥ずかしい限り)。
