外国語の語彙には日本語になりにくいものがある。とりわけ、専門用語にはそうしたものが少なくない。それを強引に訳そうとすると、元は1語なのに数多くの言葉を費やさねばならなくなってしまうこともよくある。それゆえ、そうしたものはやむなく音訳に留めざるを得ないのも確かだ。
とはいえ、そうではない普通の語彙をそのまま音訳するのはいかがなものだろうか。たとえば、しばしば邦訳書で目にするのが「コミットする」という言い方だ。なるほど、この語もなかなかに訳しにくい語ではあるが、文脈に即して考えれば(そして、辞書に挙げられている訳語の字面から少しばかり外れる勇気があれば)普通の日本語で十分に置き換えることができるものだ。それゆえ、こうした「音訳」語を見ると私には手抜きに思えてくる*。そして、この手の語が翻訳の中に次々と出てくると、次第に読む気も失せてくるものだ。
最近もそうした音楽書の翻訳に出会った。それは待望の邦訳であったはずのものなのに、とにかく音訳語の数の多さに呆れ(たのみならず、訳文のどことなく攻撃的な文体も今ひとつ好きになれなかったし、よく読むと日本語として粗が目立つ翻訳だったので)、途中からは斜め読みに……。残念なことである。
*手持ちの英和辞典を見ると、驚くべきことにcommit の訳語の1つに「コミットする」とあった。私個人の感覚ではこれは受け入れがたいが、そうではない人も少なくないということなのだろう。まあ、言葉は生き物なので仕方がないことではあろうか。とはいえ、少なくとも私は「コミットする」という言い方はしたくない。