「語学は必ず身につけなければいけない! [……]誤訳が多い世界だから、原語で正確(!)に読めることは必要!!」――名ピアノ教師として知られた森安芳樹(1937-98)はかつてこう語ったという(http://www16.big.or.jp/~karo/research/218/words1.html)。なるほど、氏によるアルベニスの《イベリア》その他での綿密な校訂と示唆に富む解説を可能ならしめたのは、1つにはその卓越した語学力であったろう。そして、そもそも「誤訳」以前に翻訳のない重要な文献が山ほどあるのだから、演奏家にとって語学力が大いに役立つのは間違いあるまい。
とはいえ、その発言の中で森安はこうも言うのだ。すなわち、「会話なんか出来なくていいから読めることが大事!」だと(正直に告白しておけば、私もある時期までそう思っていた)。だが、果たしてそんなことで、言語の音と深く結びついた音楽について「ただ楽譜の上っ面を読めるということではなく、その奥深く、テンポから表情からその音楽自体を楽譜から読める、あるいは聴ける、という能力を普通に活字を読むごとくこなせるよう身に付け」(同上)ることができる――精確に言えば、「日本語的」ではない「読み方」や「聴き方」ができる――ものだろうか(付言しておけば、「普通に活字を読むごとくこなせるよう」という言い方に問題の一端が現れているように思われる)。
ともあれ、この森安の発言は日本における洋楽受容史の一齣としてまことに興味深い。