2019年6月30日日曜日

アルベニスの《イベリア》による演奏論(1)

 「自己紹介」で述べたように、このブログは「間歇的」にしか更新しない(できない(恥))。それゆえ、今日更新したからといって、次回がいつになるかは自分でもわからない。が、とりあえず、まずは最初の更新を行っておきたい。

 ネタは「演奏」についてである。演奏の良し悪しについてではない。「演奏とはどのような営みなのか」ということを論じたい。今、世の中はあらゆる面で転換期にあるが(たとえば、この国のデタラメぶりを想起されたい)、西洋芸術音楽の世界でも事は同じで、そのことがもっともよく表れている(精確に言えば、表れつつある)のが「演奏」という局面だからだ。
 そのために格好の材料となる作品がある。それはイサーク・アルベニス(1860-1909)の名曲《イベリア》だ。なぜか? それは、この作品の楽譜がそのままでは演奏できないほど複雑怪奇だからだ。そして、その「解決策」として楽譜を適宜書き換えた版がいくつもあるのだが、それが「演奏」という営みを考える上でいろいろなヒントを与えてくれる。
 というわけで、まずは次回は《イベリア》の種々の楽譜を俎上に載せることにしよう。なお、その際、「どの版がよいのか?」といったことは一切問題にしない。そんなことに私は全く関心がないからだ。そうした種々の版を通して「演奏」について考えることこそが私の関心である。