2019年10月30日水曜日

絶妙のバランス感覚

 あれこれ(気分の上でも)忙しい日々が続くが、それでもやはり聴き逃せない演奏会というものはある。先週末、26日に大阪のザ・フェニックスホールで催された「伊東信宏 企画・構成 土と挑発:郷古廉&加藤洋之 デュオリサイタルがそれだ。

 恥ずかしながらヴァイオリンの郷古さんのことはほとんど何も知らず、名前を何かで目にしたことがあるくらいだった(私は作曲家にしろ、演奏家にしろ、「旬の」情報を積極的に集めることはせず、偶然の出会いに任せている)。が、今回のパートナーのピアノの加藤さんの演奏はこれまでに何度か聴き、深い感銘を受けていたので、「この人と組むのならばタダモノではないに違いない!」と思い、迷わず聴きに行くことに(ちなみに、こうした「芋づる式」の探し方は「当たり」を引く可能性が高い)。果たして、やはりタダモノではなかったのである。結局、2人の演奏に最初から最後まで圧倒され続けた。とりわけ、作品が要求する、ともすると矛盾を生み出しかねないものを絶妙のバランスでまとめあげ、極めて説得力のある音楽として演じて見せるさまに。

 演目は次の通り: 

ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ
プーランク:ヴァイオリン・ソナタ FP.119


イザイ:子供の夢 作品14
バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ 第1 Sz.75 BB84        

 ヤナーチェクの作品では得てして衝撃的な「事件」が次々と起こる。が、それだけにそれへの対応に追われる演奏が少なくない(それ以前のレヴェルで、「事件」を平凡な出来事にして丸く収めてしまう演奏や、逆に、過度に劇的なものにしてしまって収集がつかなくなる演奏もあるが……)。そうした諸々の事件を繋ぐ物語をきちんと描き出せるかどうかが演奏の成否を握る鍵となる。その点、このデュオは実に見事。このソナタで起こる数々の事件を鮮やかに示しつつ、驚くべき結末まで聴き手を導いてみせる。

 プーランクの音楽の多くは表面的には軽妙洒脱だが、一皮めくるとなかなかに「怖い」ところがある。そして、ときにはそれをはっきりと示すものも。このヴァイオリン・ソナタもそうした作品の1つだろう。だが、それでもやはりプーランクの音楽。やりすぎると野暮になる。さりとて、お上品にやっていたのではこのソナタは台無しだ。が、ここでも2人のバランス感覚は絶妙。

 イザイ作品は今回の緊張に満ちた演目の中では「つかの間の休息」を与えてくれる小品。とはいえ、この曲の夢幻的な感じは続く冒頭で(ほんの少しではあるが)似た雰囲気を漂わせるバルトーク作品への「前奏曲」としても悪くない。

 そのバルトークだが、郷古&加藤デュオは作品が持つラプソディックな響きとまことに緻密な構成をいずれも全く損なうことなく、活き活きとした音楽を聴かせてくれた。

 ともあれ、実に素晴らしい演奏会だった。こんな2人がたとえばエネスクの第3ソナタやシルヴェストロフの《追伸》などを演奏したらどうなるのだろう? あるいはブゾーニの2曲のソナタなども。




2019年10月5日土曜日

おなじみの名曲がかくも新鮮に

 まだ少しばかり暑いが、それでも気分は秋。すると室内楽が聴きたくなる。そこで昨晩はハーゲン四重奏団(於:いずみホール)を聴いてきた。演目は次の通り:



ハイドン: 弦楽四重奏曲 第77番 ハ長調 op.76-3 「皇帝」
バルトーク: 弦楽四重奏曲 第3 BB93 
シューベルト:弦楽四重奏曲第13番 イ短調 op.29-1, D804「ロザムンデ」



弦楽四重奏曲の定番2曲の間に些か刺激的な作品を1つ挟んだ、巧みな選曲である(バルトーク作品ももちろんこの曲種では名曲としての地位を確立しているものの、少なからぬ聴き手にとってはまだ新鮮に聞こえるはずだ。かく言う私にとってもまた)。

 もっとも、これを「巧みな選曲」だと言えるのはハーゲン四重奏団の演奏が見事であればこそ。お決まりの名曲に対しては聴き手の耳は耐性ができており、ちょっとやそっとのことでは驚きもしなければ感動もしないが、昨晩の彼らの演奏はまことに新鮮に響き、それゆえに感動をもたらすものだったからだ。

 たとえば、「皇帝」四重奏曲。ハイドンの少なからぬ作品の常として、この曲にもあれこれ面白い仕掛けがなされている。が、そうした仕掛けに対する聴き手の驚きは作品を知るにつれてどんどん小さくなっていく。音楽の進行の中で「次はどうなる」かが予めすべてわかっているからだ。ところが、昨晩の演奏では、その「わかっている」はずのものが耳新しく聞こえたのである。だから、種々の仕掛けも実に面白く、最後までどきどきしながら作品を楽しむことができた。そして、これはシューベルトの場合でも同様。あの長大な作品がめったに演奏されないためにあまり耳になじみのない作品のように聞こえ、音のドラマの展開に一喜一憂させられる。

ハーゲン四重奏団は何も変わったことをしているのではない。作品をきちんと解釈して、しかるべき現実の鳴り響きを与えているだけである。が、決してたんなる何かの再現ではなく、あくまでも生きた音楽としてだ。

なお、バルトーク作品の演奏も実に見事。音楽はまことに生々しかったが、100年近い昔の作品などではなく、あたかも現在の世界の混迷を描き出しているかのように聞こえもする。

ともあれ、弦楽四重奏という媒体とその名作の魅力を存分に味わわせてもらった(どうもありがとうございました)。

2019年10月3日木曜日

待望の完結編

 中野慶理先生のスクリャービンのピアノ・ソナタ全集完結編がついに出た:https://www.hmv.co.jp/artist_スクリャービン%EF%BC%881872-1915%EF%BC%89_000000000021454/item_ピアノ・ソナタ全集-2-中野慶理_10174258

昨年の『スクリャービン:ピアノ・ソナタ全集Ⅰ』以来、その登場が待ち遠しかったものである。

 その『Ⅰ』には第12579番と小品数曲が収められており、演奏の完成度の高さもさることながら、スクリャービンの独特の世界を見事に描き出されていることにただただ感嘆させられた。だが、今回の『Ⅱ』(第346810と小品数曲を収録)にはそれをさらに上回る驚きが……。

 何よりも惹かれたのは音の自由な浮遊感だ。スクリャービンの音楽、とりわけ後期作品の演奏ではこの点が極めて重要なのだが、まことに複雑に書かれた音のありよう――独特のポリフォニー、変幻自在のリズム、素早い状態の変化、等々――がピアニストにその実現を容易には許さない。その点、中野先生の演奏では見事に音が宙を自由に舞っている。このことは『Ⅰ』の演奏についても言えることだったが、この『Ⅱ』ではその度合いがさらに増しており、そのことに私は胸を打たれずにはいられない。

 もちろん、ただ音が自由に浮遊するだけでは不十分だ。スクリャービンの音楽はまことに緻密に構成されており、そうした音楽の組み立てとドラマを説得力のあるかたちでピアニストは描き出さねばならない。この点については、それなりに巧みに聴かせるピアニストは(多くはないにしても)少なくはない。が、そこに浮遊感をもたせられる演奏家となると、これはあまりいないようだ。そして、今回の中野先生の演奏はその希有な例だと言えよう。

 CDに収められた演奏はどれも見事だが、私個人の好みで言えば、第8番にもっとも心惹かれる。軽やかな音の舞いとその舞台となる堅固な音の構築に耳を奪われつつ、最後にはまさに忘我の境地に誘われるのだ。聴き終えても「我」を取り戻すのにしばし時間を要するほどに。また、ともすると熱演・力演に陥りがちな第3番でのえもいわれぬ軽やかさと抒情性も好ましい。というわけで、スクリャービン・ファンはもちろんだが、むしろ、彼の(とりわけ後期の)音楽に馴染みのない人に大いにこの素晴らしいCDをお勧めしたい。