往年の名ピアニストにして作曲家のアルトゥア・シュナーベルが編集したベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜はいろいろなヒントに満ちている。だからこそ、今でも版を重ね続けているのだろう。
それゆえ、その翻訳版があってもおかしくはない(どころか、有益だろう)。が、もし私が翻訳をするならば(その意志はないので、あくまでも仮定だが……)、全訳はしない。というのも、楽譜に付けられたシュナーベルによる夥しい註の少なからぬものは、過去の種々の版への批判的なコメントだからだ。なるほど、そうした版が現役だった頃にはシュナーベルのコメントには意味があっただろう。しかし、そこで触れられている版は今やほとんどがお蔵入りの状態なので、それへの批判はいわば「徒手空拳」のようなものになってしまっている。そのため、今日でも有益な註(あるいは1つの註の中でも有益な部分)を取捨選択して訳すだろう。つまり、いわば「エッセンシャル版」をつくるわけだ。
この「エッセンシャル版」の楽譜本体には、今日の原典研究を参照した必要最小限度の註も必要となろう。すなわち、シュナーベルが演奏のために加筆した部分は温存しつつ、彼が校訂した楽譜本体については必要な訂正を施す、ということだ。さて、誰か、この企画に挑戦する奇特な人士はいないものか。
翻訳には相変わらず苦しんでいるが、何とか年内には仕上げねば!
忙しいときほど、却っていろいろなアイディアが浮かぶもの。先日も大学へ向かう途中に電車の中でパッと1つひらめいた。その実現はまだまだ先になりそうだが、うまくいけばかなり面白いものができあがるだろう。
それとは別に少し前に思いついたのが『音楽の語り方』という本のアイディアである。これは『演奏行為論』の中で触れた「言及ゲーム」の考え方を展開し、コミュニケーションと演奏ゲームの実践の問題を説くものとなろう。そこでは一切註はつけず、できるかぎり平易に問題を論じたい。これは来年になったら書き始めてみよう(どこかが出してくれるあてがあるわけではないが……)。
それゆえ、その翻訳版があってもおかしくはない(どころか、有益だろう)。が、もし私が翻訳をするならば(その意志はないので、あくまでも仮定だが……)、全訳はしない。というのも、楽譜に付けられたシュナーベルによる夥しい註の少なからぬものは、過去の種々の版への批判的なコメントだからだ。なるほど、そうした版が現役だった頃にはシュナーベルのコメントには意味があっただろう。しかし、そこで触れられている版は今やほとんどがお蔵入りの状態なので、それへの批判はいわば「徒手空拳」のようなものになってしまっている。そのため、今日でも有益な註(あるいは1つの註の中でも有益な部分)を取捨選択して訳すだろう。つまり、いわば「エッセンシャル版」をつくるわけだ。
この「エッセンシャル版」の楽譜本体には、今日の原典研究を参照した必要最小限度の註も必要となろう。すなわち、シュナーベルが演奏のために加筆した部分は温存しつつ、彼が校訂した楽譜本体については必要な訂正を施す、ということだ。さて、誰か、この企画に挑戦する奇特な人士はいないものか。
翻訳には相変わらず苦しんでいるが、何とか年内には仕上げねば!
忙しいときほど、却っていろいろなアイディアが浮かぶもの。先日も大学へ向かう途中に電車の中でパッと1つひらめいた。その実現はまだまだ先になりそうだが、うまくいけばかなり面白いものができあがるだろう。
それとは別に少し前に思いついたのが『音楽の語り方』という本のアイディアである。これは『演奏行為論』の中で触れた「言及ゲーム」の考え方を展開し、コミュニケーションと演奏ゲームの実践の問題を説くものとなろう。そこでは一切註はつけず、できるかぎり平易に問題を論じたい。これは来年になったら書き始めてみよう(どこかが出してくれるあてがあるわけではないが……)。
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