2022年2月7日月曜日

4月はじめまでお休みを

  このブログを4月はじめまで2か月ほどお休みします(もしかしたら気まぐれで何か書くこともあるかもしれませんが……)。そして、その間に(出るあてのない)『ミニマ・エステティカ』の執筆に励みます。

 

 「現代音楽」ならぬ「現代の音楽」の問題もいずれきちんと何かのかたちでまとめてみたいと思っています。それはたんなる「現代音楽」批判ではなく、そうした音楽から汲み取るべき点は汲み取った上で、あくまでも「受け手」の立場から何か建設的な意見なり提案なりを示すつもりです。

 私は基本的に「作曲家」という人たちを人生の糧(の1つ)たるものをつくり出しうる職人として尊敬しています。それだけに、「現代音楽」という狭い世界の中だけで生きている作曲家に対しては、もっと広い世界に目を向けて普通の受け手に向き合って欲しいと思うとともに、自らが生み出す音楽を少なからぬ人々に届けることに喜びと満足を覚え、誇りを抱くようになってもらいたいと願っています。 だからといって、何も「現代音楽」のすべてを捨てろというのではありません。「使える」ものは使い、捨てるべきものは捨て、「現在」にふさわしい、そして、少なからぬ受け手にとって「何か」をもたらす音楽を生み出してくれることを心の底から期待しています。

2022年2月5日土曜日

いずみシンフォニエッタ大阪の第47回定期演奏会

 今日はいずみシンフォニエッタ大阪の第47回定期演奏会を聴いてきた。演目は次の通り(指揮は飯森範親、ピアノ独奏は小菅優):

 

・坂田直樹:残像の器(委嘱初演)

・西村朗:ピアノ協奏曲〈シャーマン〉

 

・バルトーク・ベーラ(川島素晴編):管弦楽のための協奏曲 室内管弦楽版

 

この演奏会は「協奏燦然!」と銘打たれていたが、あるほど確かにそれにふさわしい選曲と演奏であり、楽しませてもらった。昨今、こうした企画はますます実現困難になりつつあると思われるだけに、演奏会の主催者、企画・運営者、出演者の皆様に篤くお礼を申し上げたい。

 ともあれ、以下、その感想(とそこから派生した考え)を。私は「現代」にふさわしい作品の登場を切望する者だが、それだけに率直に思うところを述べた次第である。たぶん、それは普通の「現代音楽」愛好者や関係者のものとはかなり異なっているだろうが、1つの意見としてお読みいただきたい。

 今回の演奏会で私がもっとも楽しみにしていたのは新作初演である。では、その期待は満たされたのか? 正直に言えば、「否」と答えざるを得ない。が、それは作品のできが悪かったからでもなければ、つまらなかったからでもない。まことに美しい響きが織りなす音楽には魅力的な瞬間が少なからずあった。にもかかわらず、それはなぜか私の心に少しも「突き刺さる」ことがないのだ。「リアリティーがない」と言い換えてもよい。それこそ音楽が右の耳から入ってきて、つかの間脳内に留まり、すぐに左の耳から出て行ってしまい、後にほとんど何も残さないのだ――と書いていて思い出したのが、そう遠からぬ過去にやはりこの楽団で聴いた新作初演のことだ。そのときも今回と全く同じことが起こったのだが、これはいったいどうしたことなのだろう?

 それと好対照をなしたのが次の西村作品だ。実のところ私は西村の音楽が好きではない(何とか好きになろうとあれこれ聴き続けたものの、無理だった)。今回の演目〈シャーマン〉も以前に聴いたとき、限りない饒舌さとこてこての表現に「これはついていけないなあ」と感じたものである。そして、それは今日も同じだった。……のだが、それはそれとして、その音楽に強烈なリアリティー、作曲者がそのように書く必然性のようなものを感じたのである。だから、音楽は好むと好まざるとに関わらず(小菅と楽団の熱演のためもあってか)私に迫ってきて、良くも悪くもしかと爪痕を残す。

 繰り返すが、音楽の響きや感じとしては坂田作品の方が私には格段に好ましかったのである。が、そこには「今」それがどうしてもそのようなかたちで書かれなければならなかったという必然性のようなものがあまり感じられなかった。そして、これは彼の作品に限ったことではなく、ある世代以降、それこそ私と同世代以降の少なからぬ「現代音楽」の作曲家の作品を聴くたびに感じてしまうことなのだ。他方、それ以前の世代の作曲家(西村もそこに含まれる)の作品に対してはそんなことはない。なぜ、そうなるのか? それはおそらく、「現代音楽」というものが何らかのリアリティーを持っていた時代に作曲家になった者と、そうではない者との違いのゆえであろう。前者はなにかしら同時代の後押しのようなものを受けていたのに対して、後者はそうではなく、いわば川の(「現代音楽」のではなく、時代の文化全体の)本流から切り離されて干上がりつつある三日月湖の中で作品が生まれているように私には聞こえてならない。いくらその作品がよくできていたとしても、いや、むしろよくできているほど、なおのことそう感じられるのだ。それゆえ、その三日月湖=干上がりつつある「現代音楽」から脱して、再び現代文化の本流(すなわち、ごく一部の狭いサークルの者たちだけではなく、それなりの数の演奏家や聴き手が受け入れるもの)へと何らかのかたちで繋がる「現代の音楽」を若い作曲家が生み出してくれることを私は切望して新作初演に臨んでいるのだが、いずれその期待が満たされる日が来る(そのためには演奏会企画者は「現代音楽」業界の外にも目を向けるべきだと思う)のを気長に待ち続けることにしたい。

 演奏会の感想から脱線してしまったので、本筋に戻ろう。後半の演目は大管弦楽の難曲をそれに遜色ないかたちで小管弦楽が演奏するという、編曲者と演奏者の両者にとっての挑戦だった。そして、それはかなりのところ成功したと言えよう。まず川島素晴の編曲の手腕は全く見事なもので、弦楽器のヴォリュームがしばしば(奏者の数の都合上、どうしてもそうならざるを得ないのだが)足らなくなった点を除けば、原曲に対して不足を覚えることはあまりなかった。まさに名人芸である。その分、演奏者の負担はかなり重くなっていたのだが、それを巧みにこなすいずみシンフォニエッタ大阪の名人芸には圧倒された。

 もっとも、こうした「大管弦楽曲の小管弦楽用編曲」路線はこの辺で打ち止めにした方がよいとも思う。というのも、わざわざそうした編曲をせずとも、オリジナルの面白い作品、名曲が20世紀には少なからずあるし、「前衛」の枠を取り払えばその範囲はさらに広まるからだ。限られた演奏会の機会に「よくできた代用品」や「ちょっと面白い編曲」がメインの演目になるとすれば、もったいないではないか(ハンス・ツェンダーが大胆に解釈した《冬の旅》のようなものであれば大いに取り上げる価値があると思うし、聴衆にも喜ばれるだろうが、その他多くの「換骨奪胎」的創作のほとんどは「ちょっと面白い」の域を出るものではなく、わざわざ取り上げる価値があるようには思えない)。ともあれ、この点でも今後の同楽団の新たなる挑戦に大いに期待している。

 

2022年2月3日木曜日

中村圭介ピアノリサイタル~抒情でたどるグリーグ

  昨晩は今年はじめて演奏会へ。大阪のザ・フェニックスホールで催された「中村圭介ピアノリサイタル~抒情でたどるグリーグ」がそれである(https://phoenixhall.jp/performance/2022/02/02/14017/)。ずっと楽しみにしていたものなのだが、その期待を遙かに超えた素晴らしい演奏会だった。

演目はグリーグが37年にわたって書き継いだ全10集の《抒情小曲集》全66曲から26曲が選ばれたものだが、これはなかなかに挑戦的なプログラムである。というのも、ひたすら小曲が連なるとなると、演奏者の(曲の配列と演奏の両面での)センスが露わになるからである。並のピアニストならば退屈極まりない演奏会になってしまう危険が十分にあるわけだ。が、中村さんが「並はずれた」ピアニストだとはわかっていたので何の心配もなかったし、事実、最初から最後までひたすら演奏に聴き入ってしまった。

グリーグは「小曲」の大家である。形式や音楽の組立てはかなりシンプルなのだが、決して単調には聞こえない。それは1つには個々の曲の「着想」を自然かつ十分に活かした音楽のつくりによるものであり、もう1つにはそれを支える「和声」の精妙さ(あのシェーンベルクが絶賛している!)によるものだろう。そして、今回の演奏ではとりわけ後者の面に改めて唸らされてしまった。定型の和声進行であってもそれに微妙な色づけをする音を加え、あるいはその定型からの逸脱を絶妙なタイミングで行うことなどで、グリーグの小曲はまさに「小宇宙」を生み出している。

実際の演奏でその「小宇宙」を十全に鳴り響かせるのはそうたやすいことではないのだが、中村さんはそれに見事に成功していたように思う。しかも、その演奏は精妙でありながらも「つくりもの」めいたところが一切なく、ごく自然に流れていったものだから、こちらの耳も構えることなくそれを自然に追いつつ音風景を楽しませてもらった。また、26曲の組み合わせも緩急・硬軟・明暗等々を織り交ぜた巧みなものであり、一晩の演奏会自体が1つの物語であるようにも感じられ、《抒情小曲集》第1集の第1曲〈アリエッタ〉の旋律が第10集の最終曲〈余韻〉で緩やかなワルツとして再現したときには胸が一杯になってしまった。中村さんがグリーグの卓越した「解釈者」であるとともに、自身の語り口を持つ魅力的なパフォーマーであればこそである。

 中村さんの演奏を私がはじめて聴いたのは(何年前かは失念したが)田隅靖子先生が主催している研究会でのことだった。会は「演奏の部」と「レクチャー」の二本立てで、実のところそのときは後者がお目当てで出かけたのだったが、前者に中村さんも出演していたのである。そして、何の予備知識も先入観もなく聴き始めた演奏(このときもグリーグだった)にあっという間に魅せられてしまう。その後にも2回ほど現代作品の演奏を聴く機会があったが、いずれも詩情溢れる見事なものだった(とりわけ、八村義夫の《彼岸花の幻想》が)。というわけで、私はすっかり中村さんのファンになってしまった。にもかかわらず、己の出不精とものぐさな性分のために、ずっと彼の演奏を聴く機会がなかった。そこで今回の公演のことを知り、「これは聴かねば!」と出かけてきたわけである。そして、結果は最初に述べた通りだ。というわけで、演奏者の中村さんに、そして、今回の演奏会(これまでにも数々のすばらしい演奏会を送り出してきた「フェニックス・エヴォリューション・シリーズ」としては「99」回目の演奏会)を支えたホールにも深くお礼を申し上げたい。