今日はいずみシンフォニエッタ大阪の第47回定期演奏会を聴いてきた。演目は次の通り(指揮は飯森範親、ピアノ独奏は小菅優):
・坂田直樹:残像の器(委嘱初演)
・西村朗:ピアノ協奏曲〈シャーマン〉
・バルトーク・ベーラ(川島素晴編):管弦楽のための協奏曲 室内管弦楽版
この演奏会は「協奏燦然!」と銘打たれていたが、あるほど確かにそれにふさわしい選曲と演奏であり、楽しませてもらった。昨今、こうした企画はますます実現困難になりつつあると思われるだけに、演奏会の主催者、企画・運営者、出演者の皆様に篤くお礼を申し上げたい。
ともあれ、以下、その感想(とそこから派生した考え)を。私は「現代」にふさわしい作品の登場を切望する者だが、それだけに率直に思うところを述べた次第である。たぶん、それは普通の「現代音楽」愛好者や関係者のものとはかなり異なっているだろうが、1つの意見としてお読みいただきたい。
今回の演奏会で私がもっとも楽しみにしていたのは新作初演である。では、その期待は満たされたのか? 正直に言えば、「否」と答えざるを得ない。が、それは作品のできが悪かったからでもなければ、つまらなかったからでもない。まことに美しい響きが織りなす音楽には魅力的な瞬間が少なからずあった。にもかかわらず、それはなぜか私の心に少しも「突き刺さる」ことがないのだ。「リアリティーがない」と言い換えてもよい。それこそ音楽が右の耳から入ってきて、つかの間脳内に留まり、すぐに左の耳から出て行ってしまい、後にほとんど何も残さないのだ――と書いていて思い出したのが、そう遠からぬ過去にやはりこの楽団で聴いた新作初演のことだ。そのときも今回と全く同じことが起こったのだが、これはいったいどうしたことなのだろう?
それと好対照をなしたのが次の西村作品だ。実のところ私は西村の音楽が好きではない(何とか好きになろうとあれこれ聴き続けたものの、無理だった)。今回の演目〈シャーマン〉も以前に聴いたとき、限りない饒舌さとこてこての表現に「これはついていけないなあ」と感じたものである。そして、それは今日も同じだった。……のだが、それはそれとして、その音楽に強烈なリアリティー、作曲者がそのように書く必然性のようなものを感じたのである。だから、音楽は好むと好まざるとに関わらず(小菅と楽団の熱演のためもあってか)私に迫ってきて、良くも悪くもしかと爪痕を残す。
繰り返すが、音楽の響きや感じとしては坂田作品の方が私には格段に好ましかったのである。が、そこには「今」それがどうしてもそのようなかたちで書かれなければならなかったという必然性のようなものがあまり感じられなかった。そして、これは彼の作品に限ったことではなく、ある世代以降、それこそ私と同世代以降の少なからぬ「現代音楽」の作曲家の作品を聴くたびに感じてしまうことなのだ。他方、それ以前の世代の作曲家(西村もそこに含まれる)の作品に対してはそんなことはない。なぜ、そうなるのか? それはおそらく、「現代音楽」というものが何らかのリアリティーを持っていた時代に作曲家になった者と、そうではない者との違いのゆえであろう。前者はなにかしら同時代の後押しのようなものを受けていたのに対して、後者はそうではなく、いわば川の(「現代音楽」のではなく、時代の文化全体の)本流から切り離されて干上がりつつある三日月湖の中で作品が生まれているように私には聞こえてならない。いくらその作品がよくできていたとしても、いや、むしろよくできているほど、なおのことそう感じられるのだ。それゆえ、その三日月湖=干上がりつつある「現代音楽」から脱して、再び現代文化の本流(すなわち、ごく一部の狭いサークルの者たちだけではなく、それなりの数の演奏家や聴き手が受け入れるもの)へと何らかのかたちで繋がる「現代の音楽」を若い作曲家が生み出してくれることを私は切望して新作初演に臨んでいるのだが、いずれその期待が満たされる日が来る(そのためには演奏会企画者は「現代音楽」業界の外にも目を向けるべきだと思う)のを気長に待ち続けることにしたい。
演奏会の感想から脱線してしまったので、本筋に戻ろう。後半の演目は大管弦楽の難曲をそれに遜色ないかたちで小管弦楽が演奏するという、編曲者と演奏者の両者にとっての挑戦だった。そして、それはかなりのところ成功したと言えよう。まず川島素晴の編曲の手腕は全く見事なもので、弦楽器のヴォリュームがしばしば(奏者の数の都合上、どうしてもそうならざるを得ないのだが)足らなくなった点を除けば、原曲に対して不足を覚えることはあまりなかった。まさに名人芸である。その分、演奏者の負担はかなり重くなっていたのだが、それを巧みにこなすいずみシンフォニエッタ大阪の名人芸には圧倒された。
もっとも、こうした「大管弦楽曲の小管弦楽用編曲」路線はこの辺で打ち止めにした方がよいとも思う。というのも、わざわざそうした編曲をせずとも、オリジナルの面白い作品、名曲が20世紀には少なからずあるし、「前衛」の枠を取り払えばその範囲はさらに広まるからだ。限られた演奏会の機会に「よくできた代用品」や「ちょっと面白い編曲」がメインの演目になるとすれば、もったいないではないか(ハンス・ツェンダーが大胆に解釈した《冬の旅》のようなものであれば大いに取り上げる価値があると思うし、聴衆にも喜ばれるだろうが、その他多くの「換骨奪胎」的創作のほとんどは「ちょっと面白い」の域を出るものではなく、わざわざ取り上げる価値があるようには思えない)。ともあれ、この点でも今後の同楽団の新たなる挑戦に大いに期待している。