2022年9月25日日曜日

夢のようなひととき

 予告通り、法貴彩子さんの演奏会の感想を(於:大阪府豊中市、ノワ・アコルデ音楽アートサロン)。一言で言えば「夢のようなひととき」だった。演目は米国の作曲家モートン・フェルドマン(1926-87)の《バニータ・マーカスのために》(別の人の演奏だが、参考までに:https://www.youtube.com/watch?v=Z-8McgQeYQ0)。演奏時間が70分にも及び、音数が極めて少なく弱音に終始する作品なので、これ1曲で十分満足させられた。

 さて、最初に「夢のような」と述べたが、これはたんなる比喩ではなく、音楽の中身がまさにそのように感じられたのである。すなわち、この曲(に限らず、ある時期以降のフェルドマンの作品は概ねそうなのだが)では、1つの音型や音形が一定時間繰り返され、それを聴いているうちに、まるで何かの夢を見ているような気分にさせられるのだ。しかも、 その繰り返しが突然破られて、いつの間にか別の場面へと移るさまも、まさに夢の中での出来事を思わせる。それゆえ、70分という時間は長くも短くもなく、演奏が続いている間、ひたすら美しくも不思議な夢を見続けさせられたわけだ。もちろん、それには法貴さんのまことに質の高いパフォーマンスが大いに与っている。過不足なく響きを造形するだけではなく、その先にある「何か」を垣間見せてくれるような演奏がこのフェルドマン作品には求められるわけだが、法貴さんの演奏はまさにそうしたものだったと思う。

 今日の会場はこぢんまりとしたところだったが、音が身近に感じられたし、会場の雰囲気もとてもよかった。おそらく、今日の聴衆はフェルドマンを聴きながら、それぞれに自分なりの夢――というのも、作品の性質上、人によって聴き方が大きく違ってこざるを得ないので――を楽しく見たことであろう(同床異夢!)。

 ともあれ、演奏者の法貴さんには心からお礼を申し上げたい。来年のベートーヴェン、リストとブゥレーズも今から楽しみである(その演奏会は「現代音楽」ファンはもちろん、「そうした音楽が嫌いだ」という方にもベートーヴェンとリストを聴くためだけにでも大いにお勧めしたい:https://phoenixhall.jp/performance/2023/02/07/16203/)。

 

2022年9月24日土曜日

ナッセンの第3交響曲

 ふと思い立って、英国の作曲家・指揮者オリヴァー・ナッセン(1952-2018)の交響曲第3番(1973/79)を随分久しぶりに聴いてみた。このCDは今から30年以上前に購ったものだが、当時もその後も長らくさほど面白いとは思わなかったものである。

 が、今聴いてみると、これがなかなかに面白い(https://www.youtube.com/watch?v=gnol0WRWt6A)。ナッセンは1952年生まれだから、この交響曲の初稿は21歳のときに書かれたわけだ。同世代の他国の作曲家のことを思えば彼の作風はかなり保守的だが、内容はなかなか充実している。ブリトゥンからアデスらへと連綿と続く「英国秀才作曲家」の系譜にこのナッセンも連なるわけだが、彼らの作品はとにかくよい意味で手堅く、聴き手を(そして、おそらく演奏家も)きっちり満足させてくれる。

 と、ここで思い出すのが、以前、ナッセンのヴァイオリン協奏曲(だったはずだが……)を本人の指揮で聴いたときのこと。とにかくどうしようもなく退屈だったが、もしかしたら今聴けばまた違ったふうに感じるかもしれない。

  このナッセンに限らず、かつてはつまらなく感じた音楽でも今ならば面白く聴けるものはいろいろあるだろうし、その逆のこともあろう。そして、そのこと自体を面白く感じずにはいられない。

 

 明日は法貴彩子さんのフェルドマンを聴きにいくことに。大いに楽しみである。感想はまた後日。

 

2022年9月16日金曜日

大いに期待せずにはいられない

  これまでに数々の興味深い演奏会の場を提供してきた大阪のザ・フェニックスホールの「エヴォリューション・シリーズ」だが、来年の2月にも次のようなものが:https://phoenixhall.jp/performance/2023/02/07/16203/。これは聴き逃すわけにはいかない。リストのソナタとブゥレーズの第2ソナタを並べて取り上げるとは……。

 もちろん、こうしたことは誰がやってもさまになるわけではない。その点、演奏者の法貴彩子さんはそれをこなすだけの実力を持ったピアニストであり、大いに期待せずにはいられない。

 実のところブゥレーズの第2ソナタがそれほどよい作品だとは私は思わないのだが(その理由については以前述べた[*リンクの誤りを訂正しました]:https://kenmusica.blogspot.com/2020/05/2.html)、刺激的なパフォーマンスの土台にはなりうると考えている。そして、法貴さんならばきっとそれをやってくれるはずだ。とにかく、当日が楽しみである。

 

 直近で次のような演奏会もあるようだ: https://www.youtube.com/watch?v=Mh2EXLuVju8。これもまた何とも魅力的な企画である。このモートン・フェルドマン(1926-87)の《バニータ・マーカスのために》(1985)は1曲1時間超の演奏時間の中で劇的なことはほとんど起こらないにも拘わらず、聴き手の耳を引きつけて放さない作品だ(同じ作曲者の《3和音の記憶》(1981)よりも私はこちらを好む)。法貴さんは昨年はケージの《ソナタと間奏曲》を演奏したとか。知っていれば絶対に聴きにいったのに。残念。

2022年9月9日金曜日

メモ(86)

  ハワード・S.・ベッカーの『アートワールド』は名著だと思うが(邦訳には日本語として些か読みづらいところがあるが、それでもよくぞ出してくれたものだと大いに感謝してる)、原著刊行が1982年だけに、当然ながらインターネットのことは論じられていない。だが、今やその点を考慮に入れずにアートワールド(複数形)を論じるわけにはいかない(2008年に出ている「25周年記念版」――邦訳の原本――でも残念ながらそのことには触れられていない)。

昔はアートワールドの中でその動向を左右する権威者・権力者たちがおり、いわば「上意下達」で物事が進んでいたわけだが、インターネットはそうした「構造」を少なからず変えてしまった。そこにはよい面もあればわるい面もあるが、とにかく、インターネット普及後のアートワールドはかつてのそれとは大きく様相を異にしている。

ベッカーの議論を承けてその点を論じた研究はたぶんあるのだろうが、できれば読んでみたいものだ。私ももちろん、(大いに難航している)『ミニマ・エステティカ――音楽する人のための美学――』でそのことに触れるつもり。なお、同書は当初の構想より随分シンプルなかたちを取りつつあるが、どんどんふつうの「学問」から遠ざかっていっている(まあ、私は昔から複数の人に「お前のやっていることは『学問』ではない」と言われてきているから、「何を今さら」である)。さて、どうなることやら。

 

 随分久しぶりに高橋悠治が弾くジェフスキの《不屈の民変奏曲》の録音を聴いたが、やはりすばらしい(https://www.youtube.com/watch?v=Dg4SwMOCptk)。

私が少年時代にLPで愛聴していたころにはこれしかなかった(作曲者の自演盤もあったようだが、地方ではどうしようもなかった)が、今やよりどりみどりである。とはいえ、そうしたものを試しに聴いみると、アムランをはじめとして皆ピアニストとしては高橋よりも達者なのだが、音楽として耳に引っかかるものがあまりない。どれも妙に「きれいすぎる」し、「整いすぎ」ているのだ(ただし、作曲者の自演盤は別である)。

 同じことはその高橋悠治の 60,70年代の作品を集めた作品集の演奏についてもいえる(https://www.hmv.co.jp/artist_%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%82%A0%E6%B2%BB%EF%BC%881938-%EF%BC%89_000000000012046/item_%E3%80%8E%E6%AD%8C%E5%9E%A3%E3%80%9C%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%82%A0%E6%B2%BB-%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86%E3%80%8F-%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%84%EF%BC%882CD%EF%BC%89_11603143)。昔は聴けなかった作品にそれなりの質の演奏で触れられるという点で、このCDはまことにありがたいものである。が、古い録音で馴染んできたいくつかの作品については新しい演奏に何かしら違和感を覚えてしまう。

だが、もちろん、それはあくまでも私個人の感じ方にすぎないので、それに固執するつもりはない。古典名曲にしたところで、数多の演奏様式の変化を経て現在に生き残っているわけであり、それが「現代音楽」作品でも起こったということであろう。 とはいえ、その「変化」のありようと意味についてはいずれじっくり考えてみたいと思っている。