2022年10月28日金曜日

アンドラーシュ・シフの演奏会

  幸いにもこれまでに何度か大阪のいずみホールでアンドラーシュ・シフの演奏会を聴く機会を得ることができた。そして、そのつど深い感動を味わってきたのだが、今回もまた。それは昨日1027日のこと。これまでとは異なり、演目は事前に発表されておらず、当日にその場で演奏者本人が告げ、作品について解説するというまことにスリリングなかたちだった(通訳はシフ夫人のヴァイオリニスト塩川悠子。なお、シフの英語のトークはわかりやすいものだった)。

舞台に登場したシフが弾きだしたのはバッハの《ゴルトベルク変奏曲》のアリア。演奏後に本人が言うには、最後の演目シューベルトのソナタ第20番の後にはアンコールは似つかわしくないので予め最初にそれを弾いた、とのこと。いや、うまい「掴み」である。演奏会でいきなり大曲、難曲から始める人が少なくないが、それは演奏者にとっても聴き手にとってもよいことではない。やはり「準備」は双方にとって必要なのだ。

さて、その後の演目だが、次のようなものであった:

 

前半

 バッハ:イタリア協奏曲

 ハイドン:ピアノ・ソナタ第20番ハ短調 

バッハ:半音階的前奏曲とフーガ

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 

後半

 モーツァルト:ロンド イ短調

 シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番イ長調

 

以上である。この演目自体に驚きはない。いかにもシフお得意の作曲家・作品が並べられている。にもかかわらず、演奏には種々の驚きがあり、感動があった。

たとえば、ベートーヴェンの「テンペスト」ソナタ。その随所でシフは普通によくなされる弾き方よりも種々のニュアンスの対照をはっきりつけ、主題や動機の関連をいっそう明瞭に浮かび上がらせる。時には「そこまでやるのか!」と一瞬驚かされるほどに。だが、すぐに気づかされるのだ。それがある意味では「楽譜通り」だということに。なるほど、そうしたシフのような弾き方はすべてが楽譜にそれとはっきりわかるかたちで明示されているわけではない。が、そう弾ける可能性は示されており、それをシフは実行したわけだ。そして、それは他の演目でも同様だった。

どの作品の演奏もすばらしくて甲乙付けがたかったが、とりわけ心惹かれたのは前半のハイドン。聴きながら彼の音楽に感じられる機知、ユーモア、そして何よりも「包容力」とでもいえるものに打たれるとともに、何ともいえない幸福感がわき上がってきた。こうした感覚はなかなか味わえるものではない。

ともあれ、このような演奏会を聴かせてくれたシフ(そして、企画運営に携わった方々)に篤くお礼を申し上げたい。

2022年10月22日土曜日

メモ(87)

  同じ場にいて、同じものを目にしたり、耳にしたりしてはいても、その現れ方は人によって異なる。たとえば、そのものに深い関心を持つ人であれば細かな点にまでいろいろ気づき、あれこれ感じ、考えることだろう。他方、全く関心を持たない人であればそのものの存在にさえ気づかないかもしれない。

私たちの日常はそうした数限りない「もの・こと」で満たされている。そして、その1つひとつについて人々の間で現れ方に「ちがい」があるとすれば、その集積としてある「世界」は各人にとって「同じ」ものだといえるのだろうか?

人はそれぞれ異なる(が、いろいろなとことで接点を持ちうる)世界に生きている――はじめからこうした前提に立った上で実際に直接的に、あるいは情報として間接的に出会う他者とのつきあいや関係の取り方を考えたらどうだろう。たぶん、その方が人は心穏やかに生きられるし、(必要のある)人間関係をよりよく築けるような気がする。

2022年10月15日土曜日

後期スクリャービンの交響曲を2台ピアノで聴く

  今年はスクリャービン生誕150年。それにちなむ演奏会もいろいろある(あった)ことだろう。私もその1つを聴いてきた(下の画像を参照)。

 画像

   この演奏会では後期スクリャービンの交響曲2つを2台ピアノで演奏したわけだが、これがまことに面白かった。

 スクリャービンの管弦楽曲にはピアノ的な音形がしばしば現れ、演奏によってはそれをうまく処理できていないものもあるが、そうした箇所をピアノで弾けば、それこそ「水を得た魚」のように生き生きと響くわけだ。もちろん、ピアノの音は一度出せば減衰する一方なので管弦楽の質感やボリュームをそのまま再現するわけにはいかないし、4本の手で同時に処理できる音にも限りがある。にもかかわらず、今回の演奏にはピアノ編曲ゆえの不足をほとんど感じさせられることがなく、スクリャービンの音楽世界に引き込まれたのである。

 ちなみに、演奏者の一人、林瑛華さんは3年前に私の授業の受講生だった。 当事からスクリャービンに打ち込んでおり、大学院の修了演奏では後期のソナタを取り上げていたが、音楽に対する理解に加え、「スクリャービン愛」に溢れる演奏に感銘を受けたことを思い出す。そして、その「愛」は今回、第4交響曲の前に弾かれた第5ソナタの演奏でもひしひしと感じることができた。「30歳までにスクリャービンのピアノ・ソナタ[の演奏]をコンプリートすること」という彼女の目標はおそらく達成されることだろうが、その先も自分なりに探求を続けていくにちがいない。

2022年10月8日土曜日

一柳慧氏の逝去

 一柳慧氏が亡くなられたとのこと(19332月生まれなので89歳)。氏は戦後日本の「現代音楽」界の重鎮だったが、そうした人の逝去の報を聞くと、斯界に対して「昔の光 今いずこ」との思いを抱かずにはいられない(ちなみに、現在の「現代音楽」の低調ぶりは作曲家個人の質の問題というよりも、「時代」の変化によるところの方が大きいように思われる。かつてはそうした音楽を後押しする「何か」が世の中にあったのに対して、今はない)。

私が「現代音楽」を聴きはじめた1980年代初頭、一柳慧は《空間の記憶》その他の秀作を続々と世に送り続けたが、その頃には彼の音楽を面白いと感じたことはなかった。ところが、7,8年ほど前だったろうか、なぜか思い立って氏の《循環する風景》(1983)を楽譜を眺めながら聴いてみたところ、その面白さ、音(響)のドラマの組立ての見事さに驚かされ、魅せられたのである。つまりは聴き手としての私に「熟成する時間」が必要だったということか……。

もっとも、だからといってそれ以降、氏の音楽を本格的に聴き始めたわけでもない。なんとなく興味はあるのだが、優先順位がそれほど高くはないからである。が、少なくとも「聴いてみたい」とは思っているわけで、これから少しずつ作品に触れていければ。その意味で一柳慧という作曲家は私にとってはまだ「生きている」のだと言えよう。

 

中丸美繪『鍵盤の天皇――井口基成とその血族』 はあっという間に読み終えてしまった。期待通りにまことに面白い本だった。確かに著者の言う通り、井口基成という人には魅力があるようだ。その演奏を聴けないのが残念至極。ベートーヴェンの「皇帝」協奏曲の録音があるそうだが、どこかがCDで出してくれないかなあ。

この井口の業績をその時代のコンテクストを踏まえて冷静に検証・批判することは日本の洋楽受容研究にとって1つの重要な課題だろう。