幸いにもこれまでに何度か大阪のいずみホールでアンドラーシュ・シフの演奏会を聴く機会を得ることができた。そして、そのつど深い感動を味わってきたのだが、今回もまた。それは昨日10月27日のこと。これまでとは異なり、演目は事前に発表されておらず、当日にその場で演奏者本人が告げ、作品について解説するというまことにスリリングなかたちだった(通訳はシフ夫人のヴァイオリニスト塩川悠子。なお、シフの英語のトークはわかりやすいものだった)。
舞台に登場したシフが弾きだしたのはバッハの《ゴルトベルク変奏曲》のアリア。演奏後に本人が言うには、最後の演目シューベルトのソナタ第20番の後にはアンコールは似つかわしくないので予め最初にそれを弾いた、とのこと。いや、うまい「掴み」である。演奏会でいきなり大曲、難曲から始める人が少なくないが、それは演奏者にとっても聴き手にとってもよいことではない。やはり「準備」は双方にとって必要なのだ。
さて、その後の演目だが、次のようなものであった:
前半
バッハ:イタリア協奏曲
ハイドン:ピアノ・ソナタ第20番ハ短調
バッハ:半音階的前奏曲とフーガ
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調
後半
モーツァルト:ロンド イ短調
シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番イ長調
以上である。この演目自体に驚きはない。いかにもシフお得意の作曲家・作品が並べられている。にもかかわらず、演奏には種々の驚きがあり、感動があった。
たとえば、ベートーヴェンの「テンペスト」ソナタ。その随所でシフは普通によくなされる弾き方よりも種々のニュアンスの対照をはっきりつけ、主題や動機の関連をいっそう明瞭に浮かび上がらせる。時には「そこまでやるのか!」と一瞬驚かされるほどに。だが、すぐに気づかされるのだ。それがある意味では「楽譜通り」だということに。なるほど、そうしたシフのような弾き方はすべてが楽譜にそれとはっきりわかるかたちで明示されているわけではない。が、そう弾ける可能性は示されており、それをシフは実行したわけだ。そして、それは他の演目でも同様だった。
どの作品の演奏もすばらしくて甲乙付けがたかったが、とりわけ心惹かれたのは前半のハイドン。聴きながら彼の音楽に感じられる機知、ユーモア、そして何よりも「包容力」とでもいえるものに打たれるとともに、何ともいえない幸福感がわき上がってきた。こうした感覚はなかなか味わえるものではない。
ともあれ、このような演奏会を聴かせてくれたシフ(そして、企画運営に携わった方々)に篤くお礼を申し上げたい。