一柳慧氏が亡くなられたとのこと(1933年2月生まれなので89歳)。氏は戦後日本の「現代音楽」界の重鎮だったが、そうした人の逝去の報を聞くと、斯界に対して「昔の光 今いずこ」との思いを抱かずにはいられない(ちなみに、現在の「現代音楽」の低調ぶりは作曲家個人の質の問題というよりも、「時代」の変化によるところの方が大きいように思われる。かつてはそうした音楽を後押しする「何か」が世の中にあったのに対して、今はない)。
私が「現代音楽」を聴きはじめた1980年代初頭、一柳慧は《空間の記憶》その他の秀作を続々と世に送り続けたが、その頃には彼の音楽を面白いと感じたことはなかった。ところが、7,8年ほど前だったろうか、なぜか思い立って氏の《循環する風景》(1983)を楽譜を眺めながら聴いてみたところ、その面白さ、音(響)のドラマの組立ての見事さに驚かされ、魅せられたのである。つまりは聴き手としての私に「熟成する時間」が必要だったということか……。
もっとも、だからといってそれ以降、氏の音楽を本格的に聴き始めたわけでもない。なんとなく興味はあるのだが、優先順位がそれほど高くはないからである。が、少なくとも「聴いてみたい」とは思っているわけで、これから少しずつ作品に触れていければ。その意味で一柳慧という作曲家は私にとってはまだ「生きている」のだと言えよう。
中丸美繪『鍵盤の天皇――井口基成とその血族』 はあっという間に読み終えてしまった。期待通りにまことに面白い本だった。確かに著者の言う通り、井口基成という人には魅力があるようだ。その演奏を聴けないのが残念至極。ベートーヴェンの「皇帝」協奏曲の録音があるそうだが、どこかがCDで出してくれないかなあ。
この井口の業績をその時代のコンテクストを踏まえて冷静に検証・批判することは日本の洋楽受容研究にとって1つの重要な課題だろう。