今日は中野慶理先生の退任記念演奏会を同志社女子大学で聴いてきた。言うまでもなく、すばらしかった。演目は次の通り:
ショパン:ポロネーズ=幻想曲 作品61
スクリャービン:エチュード 作品2の1、42の5、8の12、ソナタ第2番
スクリャービン:ソナタ第10番
ラフマニノフ:〈舟歌〉作品10の3、〈V. R. のポルカ〉
リスト:《慰め》第3番、《ハンガリー狂詩曲》第2番
先生が得意とし、打ち込んできた作曲家の作品がまことに効果的な順番で奏でられるとなれば、魅せられないわけにはいかない(どの演目も見事だったが、とりわけ心惹かれたのはスクリャービンの作品42の5だ。これまでホロヴィッツの1953年の録音が私にとっては最高の演奏だったが、中野先生の演奏は表現のありようこそ異なりこそすれ、それに匹敵するものに思われた。しかも、録音ではなく実演なのだから感動もそれだけ深い)。
が、それはそれとして、今日はこれまでの中野先生の演奏から受けるのとは些か異なった感動があったので、そのことを述べておきたい。それは最初の演目のショパンでのこと。妙なる響きに耳を傾けるうちに胸中にわき起こってきたのは、遙か昔、ピアノ音楽を聴き始め、自分でも弾き始めた頃に味わったような感覚だった。当時はそれこそ何を聴いても弾いてもすべてが新鮮で輝きに満ちており、胸の高鳴りを覚えずにはいられなかったが、その何とも幸せな感じ――いろいろな経験を積む中に次第に薄れていったもの、いわば「失われた時」――が俄に蘇ってきたのである。そして、それは演奏会の最後まで失われなかったのだ。
というわけで、そうした幸せな感覚をもたらしてくれた中野先生に心から御礼を申し上げたい。なお、今月は先生の演奏会をもう1つ別に聴かせていただく予定があるので今から楽しみでならない。