2024年5月9日木曜日

「日本語的演奏」は本場で受け入れられることになるのか?

  先日、ピアニストの辻井伸行氏が日本人ピアニストとしてははじめてドイツ・グラモフォンと専属契約を結んだというニューズに接した。まことに喜ばしいことである。今後の海外でのさらなる活躍を祈りたい。

 とともに、私はもう1つ、別な関心を抱いている。辻井氏の演奏は典型的な「日本語的演奏」なのだが*、そうしたものが西洋芸術音楽の本場で(すでに活動している氏が)これまで以上に受け入れられていくことになるのか、あるいは、もしかしたらいずれ拒絶されることになるのかが大いに気になるのだ。もちろん、前者であって欲しいし、それは西洋芸術音楽にとっても長い目で見ればプラスになると思うのだが……。

 

*「日本語的演奏」については次を参照:https://www.jstage.jst.go.jp/article/daion/62/0/62_58/_article/-char/ja。また、その例として、辻井氏が弾くラフマニノフの第3協奏曲のある箇所(次の動画の4’20”以降:https://www.youtube.com/watch?v=VlsxkBSMO14)を、そして、比較対象として作曲者自身の演奏で同じ箇所(次の動画の4’03以降:https://www.youtube.com/watch?v=UKziGGumuEk)をあげておこう。これはどちらが「正しい」とか「正しくない」とか、あるいは、「よい」とか「悪い」とかいうことなのではなく、端的に異なっている。

2024年5月4日土曜日

NHK『みんなのうた』で

  先日、たまたまNHK-FMでお目当ての番組の合間にあった『みんなのうた』で次の曲を聴いた。曲も歌もすてきだ:https://www.youtube.com/watch?v=6wmgO3uJ3eg

2024年5月3日金曜日

別宮貞雄の失言?

  別宮貞雄(1922-2012)は作曲家であるとともになかなかの論客であった。そして、私はどちらかといえば、後者の点で別宮に敬服している(彼の音楽作品も嫌いではないが、今のところ深い感銘を受けるには到っていない)。彼の文章は常に明晰であり、強い説得力を持っているからだ。

 が、そんな別宮の言葉とは思えないようなものに出会って驚いたことがある。それは中丸美繪『鍵盤の天皇――井口基成とその血族』(中央公論新社、2022年)に納められたインタヴューの一節である。そこで別宮は「評論家というのは自分で音楽ができるわけではないし、本当のところたいしてわかっていない」(同書、437頁)と言うのだ。

  もちろん、作曲家・別宮貞雄がこう言いたくなる気持ちもわからぬではない。というのも、彼の作品は「現代音楽」全盛期に評論家から概ね冷遇されてきたからだ。しかしながら、それはそれとして、もし、音楽の専門家にしか本当にわからないような作品を自分が書いているのだとすれば、別宮はごく普通の聴き手のことをどう考えていたのか。 

いや、これは少しばかり意地が悪かった。おそらく、別宮には普通の聴き手のことを貶めるつもりは微塵もなかったろう。というのも、回想録『作曲生活40年 音楽に魅せられて』(音楽之友社、1995年)の中で、一般大学の学生が書く自作《有間皇子》への感想文について「中々立派な感想文があるのである。[……]専門の批評家も言ってくれなかった文藻にぶつかる」(同書、199頁)などと述べているからだ。つまり、別宮は普通の聴き手のことを決して低く見ているわけではないのだ。それゆえ、先にあげた「評論家というのは」云々の一節は、やはり評論家への積年の恨みが言わせた言葉だと解すべきだろう

だが、それはそれとして、実のところ、別宮が言うことには一片の真実が含まれているとも私は思う。すなわち、専門の音楽家とそうではない者の間では音楽の受け取り方は何かしら違ったものであらざるをえない、ということだ。ただし、それは前者の受け取り方が正しくて後者のそれが間違っている、などといった単純な話ではない。それに類することはこれまでにもこのブログの中で何度か述べてきた(し、拙著『演奏行為論』でも演奏というものに関して同様な問題に触れている)のだが、その本格的な展開を今年こそは『ミニマ・エスティカ』で行わねば……。

2024年4月30日火曜日

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?

   シューマンの《ピアノと管弦楽のための幻想曲》の復元作業を行ったのは往年のシューマン研究の大家ヴォルフガング・ベティヒャー(1914-2002)だが、この人はナチス体制に与した反ユダヤ主義者であり、彼の研究におけるシューマンの文章や言葉の扱いにもそれが反映されているのだとか(Wikipediaの英語版や独語版を見ると、けっこうきわどいことが書かれている)。

となると、その研究成果(や、もちろん、その人物自体)に批判の目が向けられるのは至極当然であろうが、楽譜の校訂などはどう扱われていくことになるのであろうか。たとえば、ベティヒャーが校訂したHenle版の《幻想曲》作品17では第3楽章の最終頁に脚註で没になった当初のエンディング案が楽譜付きで示されている(これをチャールズ・ローゼンなどは賞賛している)が、同社の新版(当然、編者は異なる)ではその存在に言及されるのみで、楽譜は挙げられていない。もちろん、それは1つの考え方であり、どちらが絶対に正しいとか間違っているということではない。が、もしかしたら、新版の編者(と出版社)は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということで、「問題人物」ベティヒャーの痕跡を消去しようとしたのかもしれない。もちろん、本当のところはわからないが……。

 

選挙に投票に行ったからといって何かがすぐに変わるわけではない。が、少なくとも行かないことにはその可能性は生まれない。にもかかわらず、先日の補欠選挙でもびっくりするほど投票率は低かった。果たしてこの国はこれからどうなっていくのであろうか。

2024年4月25日木曜日

「没後50年 福田平八郎」展

  今日、「没後50年 福田平八郎」展(於:大阪中之島美術館)を観てきた。すばらしかった。彼の絵の何に惹かれるかといえば、飄々としたところ、そこはかとなく漂うユーモア感、構図やデザインの面白さ、といった点だろうか。かなりの数の作品やスケッチが展示されており、作者の確かな職人芸、芸の幅の広さ、そして、想像力・創造力の豊かさにただただ圧倒されるとともに、個々の作品を大いに楽しませてもらう。とともに、何とも晴れやかな気分になり、なんだか元気になった(私が芸術に求めるのはこうしたことであり、いくら何かを認識させ、考えさせてくれるものだとしても、その結果、絶望させる――ことがあったとしても、その中にたとえほんのわずかでも希望が見えてくるようなものならばともかく、そうでない――ような芸術であれば、私にとっては不要である)。

 

ところで、私が福田の絵画に出会ったのは中学生のとき。美術の授業で用いられていた副読本に収められていた『汀』という作品である。そこには他にもいろいろな作品(の写真)が納められていたが、この福田の『汀』とルネ・マグリットの『光の帝国』という絵がとりわけ私の心をとらえたのだった。その際、美術の教師の示唆は何もなかった。自分でそれを見つけ、好きになっただけである。が、そうした偶然の機会、その後の人生を豊かにしてくれたものとの出会いが与えられたことは幸いだったと思っている。たぶん、「何か」との同様な出会いをしている人は少なからずいよう。というわけで、やはり美術や音楽といった教科は義務教育からはなくなって欲しくない。

2024年4月20日土曜日

「全国大学生ピアノ選手権」なるものがある

 「全国大学生ピアノ選手権」(!)なるものがあることを知った(https://nupc.jp/)。教えてくれたのは関東在住で学生時代からの友人。彼女のピアノの生徒がそれに出場していたとのことで私もさっそく動画を観てみた(https://www.youtube.com/playlist?list=PLR3ZX-YqmTDNp1NeEw3F2xR2DsgYEP2m8。このうち7番目の動画でスクリャービンを弾いている学生の演奏だ)が、まあ達者なものである。他の演奏もいろいろ聴いてみたが、なかなかに楽しめる。

この選手権の参加規定が「音大以外の大学生・院生・専門学校生であること」となっているところも面白い。私は実のところ、「コンクール」とか「コンテスト」とかいった類のものは好きではないのだが、それはそれとして、今やじり貧のクラシック音楽にとってこうした企画の持つ意義は大いに認めないわけにはいかない。

まだ第1回が先頃済んだ(ただし、「Web聴衆賞」の選出はまだ。5月9日までのYoutubeでの視聴回数と高評価がカウントされるとのこと:https://nupc.jp/1st-web-audience-award/)ばかりなので、この先どうなるかはわからないが、興味を持って見守りたい(なお、その第1回の本選出場者は旧帝大か東京の有名私大の学生ばかりだが、この点は音楽社会学にとって格好のネタであろう)。

 

2024年4月19日金曜日

シューマンの《ピアノと管弦楽のための幻想曲》

  シューマンのピアノ協奏曲の第1楽章が元々は《ピアノと管弦楽のための幻想曲》として書かれたものだが、それを復元した楽譜が出ていること(Eulemburg版、1994年刊)を恥ずかしながらつい最近まで知らなかった。この「幻想曲」と「協奏曲」に大きな違いがあるわけではないが、細部にはいろいろ変更点があり、なかなかに面白い(音源:https://www.youtube.com/watch?v=K4PEANOD3yc)。そして、単純に後者が前者の「改良版」だというわけではなく(ただし、冒頭については「協奏曲」の方が断然よい)、前者にもそれなりの魅力があるように思われた(さればこそ、「協奏曲」の演奏に「幻想曲」に由来するパッセージを用いたもの――たとえば、ハインツ・ホリガー指揮の管弦楽――もあるわけだろう)。ともあれ、シューマン・ファンにとっては一見、一聴の価値ある作品だといえよう。