トゥリーナ:「闘牛士の祈り」op.34
ストラヴィンスキー:プルチネルラ組曲
薮田翔一:ハープ協奏曲《祈りの樹》~関西出身若手作曲家委嘱プロジェクト第7弾~
ラヴェル(ラヴェル+マイケル・ラウンド編):クープランの墓
ストラヴィンスキー:プルチネルラ組曲
薮田翔一:ハープ協奏曲《祈りの樹》~関西出身若手作曲家委嘱プロジェクト第7弾~
ラヴェル(ラヴェル+マイケル・ラウンド編):クープランの墓
とにかく楽しかった。
最初のトゥリーナ作品は初めて聴いた。が、すぐにそのスペイン的音楽世界に引き込まれる。演奏会の「掴み」としては実に巧みな選曲だ。
そして、それに続くのが名曲《プルチネルラ》。いろいろと「妙な」仕掛けが施されている作品だが、それは実演で聴く方がよくわかって面白い。その「妙な」ところによりはっきりと焦点を合わせた「エッジの効いた」演奏も悪くないが、今回のようにごく自然にやることで自ずと「妙な」ところが浮かび上がる演奏も実に魅力的。これならば「組曲版」ではなく、「全曲版」で聴きたかった……。
演奏会後半の最初は新作。モーダルでたんに聴きやすいだけではなく、確かに聴き手の耳に訴えかけるものをもっていた佳作であった。少なくとも聴いている間はとても楽しかった……が、驚くべきことに、次の演目が済んでみると、「最初と最後が変ニ調だった」ということ以外、きれいさっぱり忘れていたのである。なぜか? それはサウンドの魅力とは別に、作品の中にはっきりと耳に「ひっかかる」箇所がなかったからだ(もし、そうした箇所があれば、それをきっかけにして、他の部分も思い出せるものだ)。言い換えれば、音楽が(たとえ、7つの異なる部分から成っていたとはいえ)1つの安定した状態に留まっていたからだ。これは技法の問題ではない。構成の問題であり、さらに言えば「どれだけ聴き手の耳のことを考えているのか?」という問題である。そこでふと思い起こされたのが、ショパンの《子守歌》だ。同じ伴奏音型の繰り返しの上で変奏が繰り広げられる、まあ、ある意味でまことに単調な曲である。が、その終わり近くで、その単調さを破る音たる変ハ音が現れ、音楽の景色が一変する。そう、まさにこの「変ハ音」のようなものがあれば、薮田作品の印象は随分違っていただろう。そして、そのような音(響き)が加わったこの人の新作を聴いてみたい。
最後のラヴェル作品は積年の靄々をある面で吹き飛ばしてくれるものだった。すなわち、元々のピアノ組曲を作曲者自身が管弦楽用に編曲する際に端折った2曲が補われていたからである。いや、これはまことに痛快。原曲に親しんだ者からすると、補われた〈トッカータ〉の編曲には原曲の持つスリルが失われているように感じられる(ピアノにとっては難しい音型・音形が管弦楽ではそうは聞こえない)ということはあろう(私もそのことを強く感じた)。が、それはそれ。原曲のことさえ気にしなければ、この「全曲版」は管弦楽のレパートリーとしては何とも魅力的だ。
というわけで、演奏会全体としては大いに楽しませていただいた。演奏者はもちろん、企画・運営に携わった方々にお礼申し上げたい。