楽譜の話をもう少しだけ続けたい。前回、「原典版」にも異なる編集方針のものが2つあると述べた。1つは自筆譜をもっとも重視するものである。それはスペインのピアニスト・音楽学者のギレルモ・ゴンサレスによる版だ(Schott社刊、1998年。以下、「GU」)。この版は自筆譜(そのファクシミリ版も同時に出版されている)を極力忠実に印刷譜に転記したもので、いわば「何も足さない、何も引かない」という版である(ただ、明らかに「書き間違い」だと編者が判断した箇所については修正されており、そのことが楽譜にも註記されている)。
もう1つは作曲者の没後に故国スペインで出版された版に基づく音楽学者ノーバート・ゲルチュによる版(Henle社刊、2001-12年。以下、「HU」)。なぜ自筆ではなく、出版譜、それも作曲者没後の版を底本にしたかといえば、その準備をアルベニス自身が行っていたとみなしているからだ(この点については次を参照:https://www.henle.de/blog/en/2012/10/01/too-much-access-–-isaac-albeniz-revises-his-iberia-cycle/)
GUとHUを見比べると、音自体にそれほど違いがあるわけではない。が、細々とした違いはいろいろとある。しかも、表記が随分異なっている。つまり、前者では声部が細かく書き分けられているのに対して、後者はできる限りシンプルに声部がまとめて書き直されているのだ。では、どちらが正しいのか? これは実のところ決めようがない。決定的な証拠がないからだ。
すると《イベリア》を弾こうとする者はどうすればよいのか? このことを考えるときに示唆に富む版がある。それは森安芳樹校訂の版だ(春秋社刊、1996年。以下「ME」)。この版は諸般の事情で自筆譜を参照できていないものの、既存の版をまさに「眼光紙背に徹する」というふうに読み解き、かつ、自筆譜研究に基づくイグレシアス版(以下、「IE」)を参考にして編まれたものだ。その「編集」の核心を成すのは作品の徹底した読み込みである。
既存の版やIEに書かれていることでも、音楽の論理や作曲者の作風を鑑みて森安は躊躇することなくテクストに「註釈」を加え、場合によっては「訂正」を施す。これは昨今の「たとえつじつまが合わなくとも、できる限り作曲者の書いた通りに」することを至上命令とする「原典版」の編集方針とはおよそ異なるものだ。
もちろん、そうした「昨今の原典版」の方針もわからぬではない。つまり、その「極力何も足さない、何も引かない」という方針は、「作曲者が最終的に考えたであろうもの」を目指して編者が(研究の成果を踏まえて)「創り出した」かつての原典版へのアンチテーゼなのだ。が、そうなると、別の問題が生じる。作曲家自身が気づいていなかったり、見逃していたりした書き間違いをどうするのか、ということである。
《イベリア》でもGUにしろHUにしろ、類似箇所の表記の不統一や音楽理論や作曲者の書法からすれば書き間違いと覚しき箇所がいくつも見つかる(それは自筆譜についても言えることだ。あれだけ複雑な作品で書き間違いがないことなど、まずない。しかも、出版に際してあれこれ変更をしているのだから、自筆譜に書かれたことを絶対視するわけにはいかない)。もちろん、それらの版でもそうした不統一や間違いを野放しにしているわけではない。が、基本は「何も足さない、何も引かない」ということなので、どうしても「介入」は控えめにならざるを得ない。もっとはっきり言えば、「生の材料はきちんと提示したので、あとは利用者が自分で問題を解決してください」というのが昨今の原典版の立場なのだ。
ところが、そのように編集された版を読み解くには、それなりの技術が必要になる。すなわち、おかしな部分や舌足らずな箇所を見抜き、音楽理論や音楽史の知見に基づき補正する技術が(このことは、もちろん自筆譜についても同様。むしろ、こちらの方がいっそう精緻な読解の技術が要求される)。
その点で、そうした「技術」を駆使して編集された楽譜というものの存在理由が出てくる。そして、《イベリア》の場合、MEという類い希な優れたものがあるわけだ。しかも、《イベリア》を研究するのならばともかく、普通に演奏するだけならば、中途半端に自筆譜のファクシミリ版や原典版を用いるよりもこのMEを用いた方がよいとさえいえる。
では、次回からは具体的に《イベリア》の演奏の問題を考えていこう。
(続く)