2019年7月30日火曜日

アルベニスの《イベリア》による演奏論(3)

 「演奏論」と銘打ちながら、いっこうに本題に入らない(恥)。今回もそうだ。が、このブログでは思いついたことをメモ書きするという方針(!?)なので、どうかご寛恕のほどを(きちんとまとめ直したものは、いずれ開設予定のホームページに……)。
 楽譜の話をもう少しだけ続けたい。前回、「原典版」にも異なる編集方針のものが2つあると述べた。1つは自筆譜をもっとも重視するものである。それはスペインのピアニスト・音楽学者のギレルモ・ゴンサレスによる版だ(Schott社刊、1998年。以下、「GU」)。この版は自筆譜(そのファクシミリ版も同時に出版されている)を極力忠実に印刷譜に転記したもので、いわば「何も足さない、何も引かない」という版である(ただ、明らかに「書き間違い」だと編者が判断した箇所については修正されており、そのことが楽譜にも註記されている)。
 もう1つは作曲者の没後に故国スペインで出版された版に基づく音楽学者ノーバート・ゲルチュによる版(Henle社刊、2001-12年。以下、「HU」)。なぜ自筆ではなく、出版譜、それも作曲者没後の版を底本にしたかといえば、その準備をアルベニス自身が行っていたとみなしているからだ(この点については次を参照:https://www.henle.de/blog/en/2012/10/01/too-much-access-–-isaac-albeniz-revises-his-iberia-cycle/
 GUHUを見比べると、音自体にそれほど違いがあるわけではない。が、細々とした違いはいろいろとある。しかも、表記が随分異なっている。つまり、前者では声部が細かく書き分けられているのに対して、後者はできる限りシンプルに声部がまとめて書き直されているのだ。では、どちらが正しいのか? これは実のところ決めようがない。決定的な証拠がないからだ。
 すると《イベリア》を弾こうとする者はどうすればよいのか? このことを考えるときに示唆に富む版がある。それは森安芳樹校訂の版だ(春秋社刊、1996年。以下「ME」)。この版は諸般の事情で自筆譜を参照できていないものの、既存の版をまさに「眼光紙背に徹する」というふうに読み解き、かつ、自筆譜研究に基づくイグレシアス版(以下、「IE」)を参考にして編まれたものだ。その「編集」の核心を成すのは作品の徹底した読み込みである。
 既存の版やIEに書かれていることでも、音楽の論理や作曲者の作風を鑑みて森安は躊躇することなくテクストに「註釈」を加え、場合によっては「訂正」を施す。これは昨今の「たとえつじつまが合わなくとも、できる限り作曲者の書いた通りに」することを至上命令とする「原典版」の編集方針とはおよそ異なるものだ。
 もちろん、そうした「昨今の原典版」の方針もわからぬではない。つまり、その「極力何も足さない、何も引かない」という方針は、「作曲者が最終的に考えたであろうもの」を目指して編者が(研究の成果を踏まえて)「創り出した」かつての原典版へのアンチテーゼなのだ。が、そうなると、別の問題が生じる。作曲家自身が気づいていなかったり、見逃していたりした書き間違いをどうするのか、ということである。
 《イベリア》でもGUにしろHUにしろ、類似箇所の表記の不統一や音楽理論や作曲者の書法からすれば書き間違いと覚しき箇所がいくつも見つかる(それは自筆譜についても言えることだ。あれだけ複雑な作品で書き間違いがないことなど、まずない。しかも、出版に際してあれこれ変更をしているのだから、自筆譜に書かれたことを絶対視するわけにはいかない)。もちろん、それらの版でもそうした不統一や間違いを野放しにしているわけではない。が、基本は「何も足さない、何も引かない」ということなので、どうしても「介入」は控えめにならざるを得ない。もっとはっきり言えば、「生の材料はきちんと提示したので、あとは利用者が自分で問題を解決してください」というのが昨今の原典版の立場なのだ。
 ところが、そのように編集された版を読み解くには、それなりの技術が必要になる。すなわち、おかしな部分や舌足らずな箇所を見抜き、音楽理論や音楽史の知見に基づき補正する技術が(このことは、もちろん自筆譜についても同様。むしろ、こちらの方がいっそう精緻な読解の技術が要求される)。
 その点で、そうした「技術」を駆使して編集された楽譜というものの存在理由が出てくる。そして、《イベリア》の場合、MEという類い希な優れたものがあるわけだ。しかも、《イベリア》を研究するのならばともかく、普通に演奏するだけならば、中途半端に自筆譜のファクシミリ版や原典版を用いるよりもこのMEを用いた方がよいとさえいえる。
 では、次回からは具体的に《イベリア》の演奏の問題を考えていこう。
                                                                 (続く)











 

2019年7月24日水曜日

レクチャー・コンサート

 昨年9月に拙著『演奏行為論』をネタにレクチャー・コンサートを行った。今年も同じ時期に第二弾を。それなりに面白いものになるはずなので、乞うご来場(お問い合わせは次のところへお願いします:https://engage-salon.jimdosite.com/






2019年7月18日木曜日

シューベルトの連弾曲というと

 シューベルトの連弾曲というと《幻想曲 ヘ短調》D940など何曲かの名曲が思い浮かぶが、曲種全体としてはピアノ独奏曲や歌曲、そして、室内楽曲に比べて今ひとつ影が薄い――とずっと私は思っていた。が、先日、そうした先入観を見事に覆してくれる演奏に出会う。『シューベルト:フォルテピアノによる4手連弾作品全集:第1巻 エキゾティシズムと対位法』(山名敏之・山名朋子(フォルテピアノ))がそれだ(http://www.kojimarokuon.com/disc/ALCD9192.html)
 この演奏では現代のピアノの性能上どうしてもぼやけてしまう「対位法」が明瞭に聞こえ(たとえば、上記《幻想曲》)、ヴィーン古典派に対する「エキゾティシズム」が何とも鮮明に浮かび上がる(たとえば、《ハンガリー風ディヴェルティスマン》)。とにかく、音楽がいっそう軽やか、繊細、劇的、刺激的に鳴り響くのだ。いや、実に面白い。音楽のありようはもちろん、現代のピアノによるシューベルト演奏に「創造(想像)的」刺激を大いに与えてくれるという意味でも。
 「全集」と銘打たれている以上、続編が出ることになっているのだろうが、とても楽しみだ。

2019年7月9日火曜日

ルベルト・ジェラルトの《管弦楽のための協奏曲》に魅せられる

世の中にはあまり知られていない優れた作品がいくらでもある。そして、そうしたものに出会うと、「なぜ、これほどの作品がもっと演奏されないのか?」と思ってしまう。とともに、「なぜ、いつも決まり切った曲ばかり何とかの一つ覚えみたいに取り上げられているのか?」と不満を覚える。
先日もカタルーニャ出身の作曲家ルベルト・ジェラルト(Robert Gerhard1896-1970)の《管弦楽のための協奏曲》(1965)を聴き、そのあまりの見事さに深い感銘を受けた。「なぜ、これほどの作品が……」:https://www.youtube.com/watch?v=d0ndg4EZenI
この人のことはずっと以前から気になっていたのだが、大学の図書館でたまたまこの曲のスコアを見つけ、ぱらぱらとめくってみたところ実に面白い。そして、実際の音を聴いてみるとまさに期待通り。音列作法に基づく無調の曲で、全編緊張に満ちているのが、それだけではなく、音の動きが実に活き活きとしており、どこか飄々としたところさえある。とにかく、管弦楽の名人芸を駆使した1つひとつの出来事が面白く、最後まで耳を離せないのだ。




2019年7月6日土曜日

久しぶりの演奏会:いずみシンフォニエッタ大阪 第42回定期演奏会

 今日は随分久しぶりに演奏会に出かけてきた。それはいずみシンフォニエッタ大阪 42回定期演奏会(指揮:三ツ橋敬子、ハープ独奏:篠﨑和子)。演目は次の通り:
トゥリーナ:「闘牛士の祈り」op.34
ストラヴィンスキー:プルチネルラ組曲                 
薮田翔一:ハープ協奏曲《祈りの樹》~関西出身若手作曲家委嘱プロジェクト第7弾~
ラヴェル(ラヴェル+マイケル・ラウンド編):クープランの墓 

とにかく楽しかった。

 最初のトゥリーナ作品は初めて聴いた。が、すぐにそのスペイン的音楽世界に引き込まれる。演奏会の「掴み」としては実に巧みな選曲だ。

 そして、それに続くのが名曲《プルチネルラ》。いろいろと「妙な」仕掛けが施されている作品だが、それは実演で聴く方がよくわかって面白い。その「妙な」ところによりはっきりと焦点を合わせた「エッジの効いた」演奏も悪くないが、今回のようにごく自然にやることで自ずと「妙な」ところが浮かび上がる演奏も実に魅力的。これならば「組曲版」ではなく、「全曲版」で聴きたかった……。

 演奏会後半の最初は新作。モーダルでたんに聴きやすいだけではなく、確かに聴き手の耳に訴えかけるものをもっていた佳作であった。少なくとも聴いている間はとても楽しかった……が、驚くべきことに、次の演目が済んでみると、「最初と最後が変ニ調だった」ということ以外、きれいさっぱり忘れていたのである。なぜか? それはサウンドの魅力とは別に、作品の中にはっきりと耳に「ひっかかる」箇所がなかったからだ(もし、そうした箇所があれば、それをきっかけにして、他の部分も思い出せるものだ)。言い換えれば、音楽が(たとえ、7つの異なる部分から成っていたとはいえ)1つの安定した状態に留まっていたからだ。これは技法の問題ではない。構成の問題であり、さらに言えば「どれだけ聴き手の耳のことを考えているのか?」という問題である。そこでふと思い起こされたのが、ショパンの《子守歌》だ。同じ伴奏音型の繰り返しの上で変奏が繰り広げられる、まあ、ある意味でまことに単調な曲である。が、その終わり近くで、その単調さを破る音たる変ハ音が現れ、音楽の景色が一変する。そう、まさにこの「変ハ音」のようなものがあれば、薮田作品の印象は随分違っていただろう。そして、そのような音(響き)が加わったこの人の新作を聴いてみたい。

 最後のラヴェル作品は積年の靄々をある面で吹き飛ばしてくれるものだった。すなわち、元々のピアノ組曲を作曲者自身が管弦楽用に編曲する際に端折った2曲が補われていたからである。いや、これはまことに痛快。原曲に親しんだ者からすると、補われた〈トッカータ〉の編曲には原曲の持つスリルが失われているように感じられる(ピアノにとっては難しい音型・音形が管弦楽ではそうは聞こえない)ということはあろう(私もそのことを強く感じた)。が、それはそれ。原曲のことさえ気にしなければ、この「全曲版」は管弦楽のレパートリーとしては何とも魅力的だ。

 というわけで、演奏会全体としては大いに楽しませていただいた。演奏者はもちろん、企画・運営に携わった方々にお礼申し上げたい。

2019年7月2日火曜日

アルベニスの《イベリア》による演奏論(2)

 《イベリア》の初版は作曲者の生前に出ているが、それ以後にきちんと校訂された楽譜が出たのはおよそ80年後。同国スペインの音楽学者・ピアニストのアントニオ・イグレシアスが編集した版がそれだ(Al puerto社刊、1989年。以下、「IE」)。きちんと自筆譜にあたり、既存の版の誤りを正しているという点でまことに画期的な版である。
 が、このIEにはもう1つ大きな特色がある。すなわち、元のテキストがあまりに演奏至難かつ読譜が難しいので、「弾きやすく」かつ「読みやすく」するために大胆に手を加えているのだ。たとえば、頻出する両手の交差を譜割りを変えることによって解消し、転調に際して調号を(場合によっては異名同音を駆使して複雑な音程を単純な音程に)書き換えるなどして、とにかくテキストの単純化・明瞭化を徹底して行っている(その具体例については、のちの回で改めて示すことにしたい)。
 そして、面白いことに、こうした書き換えはイグレシアスに留まらなかった。1998年にはやはり同国のピアニスト、ギレルモ・ゴンサレスによるもの(Schott社刊。以下、「GE」)、そして、2011年に同じくアルベルト・ニエトによるもの(Boileau社刊。以下、「NE」)が出ている。つまりは、それほどに《イベリア》というのは「難しい」作品だったわけだ。
 その間にこうした「実用版」だけではなく、いわゆる「原典版」も上梓されている。2種類の大きく編集方針の異なるものが。 
                                  (続く)