2022年6月30日木曜日

ルトスワフスキのピアノ協奏曲に感動

 私はルトスワフスキを作曲家として尊敬しているし、その作品の多くもまことに好ましく感じている。が、中には今ひとつピンとこないものもないではなかった。その1つがピアノ協奏曲(1987)である。以前これをクリスティアン・ジメルマン独奏の録音で聴き、「どうにも面白くないなあ」と思い、何度か再挑戦してみたものの、その印象を覆すには到らなかった。

 ところが、先日、ナクソスの10枚組ボックスに収められた別の演奏者(アントニ・ヴィト指揮、ポーランド国立放送管弦楽団、ピアノはエヴァ・ポブウォツカ)による録音を聴いていたところ、まるで別物のように面白かったのである。たとえば、次にあげる動画の9’05”からを聴いてみていただきたい(https://www.youtube.com/watch?v=8a1RXnCJ3vU)。この何とも摩訶不思議な響きがするではないか。そして、ここに限らず、この演奏の随所にこうした「きらめき」が見られるとともに、作品全体実に素晴らしいものに聞こえたのである。実のところ、この録音とて、以前にはそこまで面白く感じなかったのだが、それはもしかしたら、「この曲はつまらない」という固定観念があったからかもしれない。が、今回、虚心坦懐に聴いてみると、とにかく面白い(ので、大学からスコアを借りてきて改めてじっくり聴き直してみたが、感動は深まるばかり)。

  なるほどジメルマンは一流のピアニストだが、この手の音楽――はっきり言えば「現代音楽」――にはあまり向いていないようだ(この協奏曲が彼のために書かれたものだとはいえ……)。この曲は彼の手にかかると、まるで「モダンなバルトーク」のように聞こえる。もちろん、そうした面がこの作品にあるのは事実で、その意味ではジメルマンは見事に弾いているのだが、ルトスワフスキの音楽特有の音響世界をうまくとらえているとは言いがたい(上の動画と同じ箇所――826”あたりから――を聴き比べてみられたい:https://www.youtube.com/watch?v=Wn-nAFzOmkU)。その点、ポブウォツカのピアノは見事である。

 また、ジメルマンのバックの管弦楽は作曲家自身が指揮をしているのだが、上のヴィトの指揮したものの精妙さには及ばない。精確に言えば、ジメルマンの演奏(録音)ではピアノが目立ちすぎるのに対し、ヴィトが指揮する管弦楽はピアノとのバランスが巧みにとられており、全体の音響がいっそう効果的なものとなっている(ように私には聞こえる)。

 もちろん、これは私個人の感じ方にすぎない。ジメルマンの演奏の方を好む人も当然いよう。が、それはともかく、今回、彼以外の演奏によって自分がルトスワフスキのピアノ協奏曲に対する見方を改めることができた(とともに、この作曲家への尊敬の念がいっそう深まった)のは確かなことである。 

 すると、同じ作曲家の第4交響曲でも同じく「見直し」ができるかもしれない。今度試してみよう。

 

2022年6月23日木曜日

武満徹のピアノ曲を聴く(3)

  武満徹も時代の流行たるセリー技法にいちおう手を染めてはいる(ピアノ曲では《遮られない休息》第2曲)。また、セリーを用いないにしても何らかの独自の音の操作を行い、音楽を構成している(同じく、《ピアノ・ディスタンス》)。この点については『武満徹のピアノ音楽』での原塁の分析にはまことに説得力があり、教わるところが多かった。

 が、それはそれとして、そうした分析が対象としていない事柄も私は気になる。それはすなわち、作品の具体的な「響き」であり、それを生み出す武満の「詩学」である。たとえば、上記の《ピアノ・ディスタンス》の場合、譜例2-③のような和音が2箇所、曲の重要なところに現れるが、これ(に限らず、他の多くの部分の響きも)は明らかに武満の音楽上の指向の結果であって、音列がどうとか、何らかのシステムに基づく音の配分がどうとかいった分析では説明できないものだ。 

 さて、件の和音の中にもやはり「三全音」が含まれていることに注目されたい。これは前回話題にした《遮られない休息》第1曲でも重要な役割を果たしていたものである。《ピアノ・ディスタンス》に続く《フォー・アウェイ》1973)以降のピアノ曲ではその重みが格段に増すのだ。

 その《フォー・アウェイ》の最初の小節に次のようなくだりがある(譜例2-①)。これを原は「Cの属七の響きである」(194頁)だという。構成音を見れば、確かにそう言って間違いだというわけではない。が、やはり私は些か引っかかりを覚える。というのも、事例にあげた先のところでもC音は延ばされたままで、B♭音とE音のみが何度も打ち直されており、聞こえてくるのはこの2つの音が生み出す音程、すなわち減5度(三全音)だからだ。こういうと「C音が共鳴しているではないか」と反論されるかもしれない。なるほど。だが、このくだりではダンパー・ペダルを踏む指示がなされており、すると、他の共鳴音も混じってくるわけで、そうなるとやはり、何度も打たれる音が際立って聞こえることになるだろう。

 すると、さらにこういわれるかもしれない。「Cの属七にB♭音とE音も含まれるわけだから、わざわざ和音の呼び方に異議を唱える必要はないではないか」と。そうだろうか? 「Cの属七」という言い方は「根音C」の存在を強く意識させずには置かないのに対して、「B♭音とE音の減5度」という言い方はもっとニュートラルである。そして、後者の方が武満の音楽の流動的な響きの特質とその核となる素材の性格をいっそうはっきり言い表しうるように私は思う。

 同じことは第8小節に出てくる次のようなくだりについても言えよう(譜例譜例2-②)。これを原は「Dを根音とする属七」(194頁)だと説明するが、もし、本当に「Dを根音」としたい(つまり、そのように聴かせたい)のならば、そのすぐ上に半音を重ねたりはしないものだ(前回述べたことをもう一度繰り返すが、「同じ構成音による和音であっても、その配置と前後の脈絡によって、その響きの感じ、ひいてはその意味は少なからず違ってくる」)。ここでも重要なのは「三全音」の――この場合にはC音とF#音、そして、E♭音とA音が生む――響きであろう。そして、そうした「響き」は譜面(ふづら)に囚われすぎると、よく聞こえなくなったり、別なものに聞こえてしまう。

 ところで、私は何も『武満徹のピアノ音楽』での分析をあげつらいたいわけではない、上でも述べたように、同書は教わるべきところのまことに多い著作である。のみならず、読者を「自分なりにその先を考える」ことへと誘ってくれるものでもある。それゆえ、私はその「誘い」に乗ってみたわけだ。

 もちろん、そうはいっても、私がここで述べていることは考えのはじまりにすぎないものであり、これからもっときちんと深めていくべきものである。それゆえ、このあたりでおしゃべりはやめておくことにしよう。

が、最後にもう一言だけ。今回武満のピアノ曲をつらつらと眺め、聴いてみて感じたことだが、表面的な作風の変化を貫く「持続音」のようなものが彼の音楽にはあるようだ。そして、その1つの重要なトポスが「三全音」であるように思われる。そして、だとすれば、ある時期以降の武満作品で重要な役割を果たす「SEAE♭音、E音、A音からなる)モチーフ」にしたところで、その種は初期にすでにまかれていたことになる。ともあれ、そうした武満の創作を貫く「持続音」とその多様な現れを楽譜の分析からだけではなく、作品を「聴く」ことや「弾く(歌う)」ことからもとらえようとすることが彼の「詩学」を解明する上では欠かせまい。そして、その探求については原を含む若き優れた学徒の今後に期待したいところだ(私も自分なりに考え続けてはみるが、それを「研究」に結実させたいとまでは思わない。もっと他にやりたいことがあるからだ。もっとも、いずれ武満についてのエッセイを書いてみたいという願望はある)。

                                   (完)

2022年6月17日金曜日

武満徹のピアノ曲を聴く(2)

  まずは前回話題にした和音の譜例をあげよう(下記の1-①~③。なお、これは出版譜に先立つ初演譜――『武満徹のピアノ音楽』、47頁に掲載――から抜き書きしたもの)。

 

 


 

この①に対して「C7」と「Cm7」(なお、この表記では9 以上の構成音は話を簡単にするために省いてある)という2つの見方があり、私は前者を支持するということを前回述べた。今回はその理由を説明せねばなるまい。

 が、その前「Cm7」説に耳を傾けておく必要がある。『武満徹のピアノ音楽』で著者の原塁は件の和音をCm7とみなす理由について、こう言う。「ここでは最上声部がEであり、かつアクセント記号も付されているため、内声のE♮よりもE♭の方が構造上重要に思われる」(41頁)。では、次にこれへの異論を述べよう。

 ①の和音をよくごらんいただきたい。E♭は確かに「最上声部」にあって「アクセント記号も付されている」ものの、この音だけが先にあり、他の和音は塊となってppdolceで奏でられている。すると、両者はいくらか分離して聞こえないだろうか。そして、後者の和音だけで見るならば、それはC7である。

 しかも、この①の和音で下段に記されている塊を②の同じ部分と見比べて見られたい。すると、前者を半音上に移したものが後者であることがおわかりいただけよう。そして、後者がG7というドミナント和音であるならば、それと同型の前者もやはりドミナント和音であることになる。そして、実際に耳にはそう聞こえるはずだ(なお、余談だが、この①の和音は、ジャズ理論でいう「アッパー・ストラクチャー・コード」――すなわち、この場合にはC7F#mを上乗せした和音――を思わせる。そして、この箇所に限らず、武満の音楽の和音はこうした「複合和音」としてとらえる方がわかりやすいような気がする)。

 さて、この①がC7だとすると、それは前回も述べたように「ドミナント和音」である。が、解決はしない。そして、その類の和音がこの《遮られない休息》第1曲の至る所に聴かれる。すると、まさに秋山邦晴が言うように音楽は「やわらかく浮遊する」(43頁)ことになるわけだが、それは原が言う「メジャーとマイナーのあいだを自由に揺れ動いている」(同)こと以上に、解決しないドミナント和音の多用(とその水平および垂直両面での配置の妙)によるところが大きいように私には思われる。

 ところで、このように《遮られない休息》第1曲を改めて見直してみて気づいたのは、武満の音楽(に限ったことではないが……)を分析する際に、書かれた楽譜からその構成や構造を読み解くだけではなく、その響き――つまり、それが実際にどう聞こえるか――ということまで積極的に踏み込む必要がある、ということだ(たとえば、同じ構成音による和音であっても、その配置と前後の脈絡によって、その響きの感じ、ひいてはその意味は少なからず違ってくる。また、「書かれたこと」と「聞こえること」の間にズレがある場合もある)。そして、武満ほど鋭敏な耳の持ち主で、その都度ピアノで音を確かめながら作曲した人の作品ならば、なおさらだ。もちろん、その「どう聞こえるか」ということには楽譜の分析も欠かせない。そして、両者をうまく総合し、音楽の実際に迫ることがこれからの武満の作品研究の課題であろう。         

                               (以下、次回)