武満徹も時代の流行たるセリー技法にいちおう手を染めてはいる(ピアノ曲では《遮られない休息》第2曲)。また、セリーを用いないにしても何らかの独自の音の操作を行い、音楽を構成している(同じく、《ピアノ・ディスタンス》)。この点については『武満徹のピアノ音楽』での原塁の分析にはまことに説得力があり、教わるところが多かった。
が、それはそれとして、そうした分析が対象としていない事柄も私は気になる。それはすなわち、作品の具体的な「響き」であり、それを生み出す武満の「詩学」である。たとえば、上記の《ピアノ・ディスタンス》の場合、譜例2-③のような和音が2箇所、曲の重要なところに現れるが、これ(に限らず、他の多くの部分の響きも)は明らかに武満の音楽上の指向の結果であって、音列がどうとか、何らかのシステムに基づく音の配分がどうとかいった分析では説明できないものだ。
さて、件の和音の中にもやはり「三全音」が含まれていることに注目されたい。これは前回話題にした《遮られない休息》第1曲でも重要な役割を果たしていたものである。《ピアノ・ディスタンス》に続く《フォー・アウェイ》(1973)以降のピアノ曲ではその重みが格段に増すのだ。その《フォー・アウェイ》の最初の小節に次のようなくだりがある(譜例2-①)。これを原は「Cの属七の響きである」(194頁)だという。構成音を見れば、確かにそう言って間違いだというわけではない。が、やはり私は些か引っかかりを覚える。というのも、事例にあげた先のところでもC音は延ばされたままで、B♭音とE音のみが何度も打ち直されており、聞こえてくるのはこの2つの音が生み出す音程、すなわち減5度(三全音)だからだ。こういうと「C音が共鳴しているではないか」と反論されるかもしれない。なるほど。だが、このくだりではダンパー・ペダルを踏む指示がなされており、すると、他の共鳴音も混じってくるわけで、そうなるとやはり、何度も打たれる音が際立って聞こえることになるだろう。
すると、さらにこういわれるかもしれない。「Cの属七にB♭音とE音も含まれるわけだから、わざわざ和音の呼び方に異議を唱える必要はないではないか」と。そうだろうか? 「Cの属七」という言い方は「根音C」の存在を強く意識させずには置かないのに対して、「B♭音とE音の減5度」という言い方はもっとニュートラルである。そして、後者の方が武満の音楽の流動的な響きの特質とその核となる素材の性格をいっそうはっきり言い表しうるように私は思う。
同じことは第8小節に出てくる次のようなくだりについても言えよう(譜例譜例2-②)。これを原は「Dを根音とする属七」(194頁)だと説明するが、もし、本当に「Dを根音」としたい(つまり、そのように聴かせたい)のならば、そのすぐ上に半音を重ねたりはしないものだ(前回述べたことをもう一度繰り返すが、「同じ構成音による和音であっても、その配置と前後の脈絡によって、その響きの感じ、ひいてはその意味は少なからず違ってくる」)。ここでも重要なのは「三全音」の――この場合にはC音とF#音、そして、E♭音とA音が生む――響きであろう。そして、そうした「響き」は譜面(ふづら)に囚われすぎると、よく聞こえなくなったり、別なものに聞こえてしまう。
ところで、私は何も『武満徹のピアノ音楽』での分析をあげつらいたいわけではない、上でも述べたように、同書は教わるべきところのまことに多い著作である。のみならず、読者を「自分なりにその先を考える」ことへと誘ってくれるものでもある。それゆえ、私はその「誘い」に乗ってみたわけだ。
もちろん、そうはいっても、私がここで述べていることは考えのはじまりにすぎないものであり、これからもっときちんと深めていくべきものである。それゆえ、このあたりでおしゃべりはやめておくことにしよう。
が、最後にもう一言だけ。今回武満のピアノ曲をつらつらと眺め、聴いてみて感じたことだが、表面的な作風の変化を貫く「持続音」のようなものが彼の音楽にはあるようだ。そして、その1つの重要なトポスが「三全音」であるように思われる。そして、だとすれば、ある時期以降の武満作品で重要な役割を果たす「SEA(E♭音、E音、A音からなる)モチーフ」にしたところで、その種は初期にすでにまかれていたことになる。ともあれ、そうした武満の創作を貫く「持続音」とその多様な現れを楽譜の分析からだけではなく、作品を「聴く」ことや「弾く(歌う)」ことからもとらえようとすることが彼の「詩学」を解明する上では欠かせまい。そして、その探求については原を含む若き優れた学徒の今後に期待したいところだ(私も自分なりに考え続けてはみるが、それを「研究」に結実させたいとまでは思わない。もっと他にやりたいことがあるからだ。もっとも、いずれ武満についてのエッセイを書いてみたいという願望はある)。
(完)