2022年8月16日火曜日

「名曲」ゆえに距離を置く

  このところピーター・サーキン(1947-2020)の録音をあれこれ聴いている。どれもそれぞれに面白い。とりわけ深い感銘を受けたのが武満作品の演奏だ(サーキンが属するアンサンブル・タッシによる室内楽曲の演奏も見事)。今までに聴いたことがある各種のディスクの中では高橋悠治の演奏と双璧だといってもよい(そういえば、その高橋とサーキンがメシアンの《アーメンの幻視》を録音しているが、これもすてきな演奏だ)。

 今日はモーツァルトのピアノと管楽四重奏のための五重奏曲K 452を聴こうと思ってディスクを再生機にかけると、その前の収録曲であるクラリネット五重奏曲が鳴り始めた。これはいわば「ついで」だったわけだが、演奏がはじまるとたちまち魅せられてしまう。何という名曲だろう、と。クラリネットのリチャード・ストルツマンその他の演奏もさることながら、やはり作品自体がすばらしいことを今更ながらに再確認させられた次第。

 この作品に限らず、「名曲」をかなり久しぶりに聴くと、同様にその所以を実感させられることが少なくない。のみならず、以前とは違った楽しみ方ができたり、何かに気づいたりすることもまた。他方、いくら名曲でもいつも触れているとだんだんありがたみがなくなってきて、「もう、たくさん」となってしまうことが多い。もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方であり、名曲を繰り返し聴いても楽しめる人たちもいることだろう。人それぞれである。

 おっと、サーキンの演奏から話が逸れてしまった。だが、そのK 452でもクラリネット五重奏曲と同じことを強く感じる。ああ、何という名曲。そして、たぶん、これから数年はこの曲を聴くことはないだろう。(この混乱した、しかも、ますますおかしなことになりそうな世の中をまだ当分の間は自分なりに生き抜いて)再びこの名曲を心から楽しむために。