2022年8月1日月曜日

「心が折れる」のを避けるには

  「心が折れる」という表現が用いられるようになったのはいつ頃からだろうか。私の記憶では20世紀には耳にした覚えがない。そこで調べてみると、次のような説明があった。曰く、「近年になって「心折れる」から意味が転じたとみられる。2000年代半ばからスポーツ選手が多用し、一般に広がった」(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BF%83%E3%81%8C%E6%8A%98%E3%82%8C%E3%82%8B/#jn-77999)。なるほど(ちなみに、「心折れる」の意味は「気持ちや考えがそちらに向かう。また、気持ちが弱る」(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BF%83%E6%8A%98%E3%82%8C%E3%82%8B/#jn-77996))。

 もっとも、私が興味を抱くのはその来歴ではなく、表現自体だ。本来、それなりに(良くも悪くも)柔軟さを持っているはずの「心」が「折れる」というのはやはり尋常ではない。それゆえ、この表現に私は(かつて肘を骨折したときに味わった)痛みのようなものを覚えずにはいられないし、できれば自分の心が折れるような事態は避けたい。

さて、上の最初のリンク先には例文として「ずっとがんばってきたが、親友の裏切りで心が折れた」というものがあげられている。この場合の「がんばる」という語の意味は「困難にめげないで我慢してやり抜く」(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%A0%91%E5%BC%B5%E3%82%8B/#jn-49508)ということだが、その「我慢」の中で「心」がある程度以上の硬さを持ってしまったがために、何かのきっかけで「折れた」というわけだ。すなわち、「がんばる」ことには「心が折れる」危険が伴うのだと言えよう。

 では、そうすればその危険を避けられるのか。それには「がんばる」ようにしないに限る。これは何かのために努力するのがいけないというのではない。「努力」=「がんばる」ではないのだから(「努力」とは「ある目的のために力を尽くして励むこと」(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8A%AA%E5%8A%9B/#jn-161453))。「がんばる」ことはあくまでも「努力」の一形態、特殊形態であって、そうしないように「努力」することは十分可能なはずだ(もちろん、これは「努力はほどほどに」などということではない。努力のあり方とその結果のとらえ方を「がんばる」場合とは違ったふうにすればよい、ということである)と思うが、どうだろうか。