2022年7月25日月曜日

もやもやの解消

  今年のいつだったかは忘れたが、たまたま岡部 玲子「インガルデンの音楽論により解決へと導かれたショパンのエディション問題」という文章をインターネット上で見つけ、その題名に興味を惹かれて読み始めた(その文章のアドレス:https://instytutpolski.pl/tokyo/wpcontent/uploads/sites/22/2020/11/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E8%AB%96%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%81%B8%E3%81%A8%E5%B0%8E%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C%EF%BC%88%E5%B2%A1%E9%83%A8%E7%8E%B2%E5%AD%90%EF%BC%892020.11.24.pdf

が、読み進めるほどにもやもやは増すばかり。結局、読了しても一向に「解決へと導かれた」気がしなかったのである。

 いつもならば、こうしたものについてはすぐに忘れることにしているのだが、なぜか、この論がもたらした「もやもや」が今でも残っている。そこで、精神衛生のためにそれを解消することにしたい。というわけで、以下、いくつか疑問点をあげることにしよう(以下、上掲の文章の引用に際しては頁数のみを括弧で示す)。

 

「ショパンの頭の中には実に多様なものがあって、それが、自筆譜や複数の初版あるいは演奏に、時に応じて、様々に出てきているのであり、1つの確固としたヴァージョンがあるのではなく、多様なものがあったと考えた方が良い」(4)というのは考え方としてはわからなくもないが、「インガルデンのいうように、作品を「志向的対象」という存在としてみると、唯一正しい楽譜の存在という考え方は、おかしいのではないかと思われた」(4)というのは全く理解に苦しむ。というのも、インガルデンが『音楽作品とその同一性の問題』(≒『芸術存在論研究』中の「音楽作品」の章)で「楽譜」について論じる場合、それはあくまでも1つに確定されたもののことであって(ショパン自身も、出版に際しては1つのヴァージョンを確定しており、その時点ではそれが ――誤記を除けば――ベストの選択だったはずであり、たまたま「時に応じて[……]出てきている」ものなどではなかっただろう)、「志向」はそれに対応している。それゆえ、インガルデンの議論からは「作品が複数のヴァージョンやヴァリアントを持ちうる」とか「複数のヴァージョンやヴァリアントの同等性」とかいうことは導き出せない、つまり、「ショパンのエディション問題」の解決はもたらされないのではないか。

なぜ、ここでわざわざナティエの音楽記号学を持ち出してくる必要があるのか? なるほど、ナティエは『音楽記号学』の「音楽作品の概念」の章でインガルデンの論を引き合いに出してはいるが、だからといって、そのナティエの「記号学的三分法」が「ショパンのエディション問題」の解決にどう結びつくのかは判然としない(もっとはっきりいえば、ナティエの論はここでは蛇足であろう)。

同様に「パラダイム」という考え方をわざわざ持ち出してくる理由もよくわからない。というのも、別にこの語を用いなくとも、複数のヴァージョンやヴァリアントの並存を述べる上で何ら困らないからだ。むしろ、却って話をややこしくしているだけである(上のインガルデンやナティエの場合と同様に)。「1つの決定稿を求めるという従来の研究法はそぐわないものであり、ここで使えるのが、すべてが同列に並び、その中から1つが選ばれるというパラダイム paradigm(範列)の考え方であることに至った」(4)と著者は言うが、実のところ、ヴァリアントを1つの楽譜上に「同列に並」べる試みは1970年代にすでに行われている。それはP. バドゥーラ=スコダが編集したウィーン原典版中のショパンのエチュード集でのことだ。すなわち、そこでは「同等の信ぴょう性をもついくつかの異稿を、それらの由来を明らかにしながら、いわば楽譜中にならべて示す」(ショパン『エテュード 作品10』、音楽之友社、1973年)ことがなされているのである(そして、「ショパンのエディション問題」もまことに明快に説明されている)。そして、そこには「パラダイム」なる語は一切登場しないし、それで何の不都合もない。

 

 他にもまだ疑問点はないではないが、とりあえずこのあたりで切り上げよう。とにかく、「ショパンのエディション問題」に解決をもたらすのは、この岡部の文章で示されている、とってつけたような理論構成による(しかも、「楽譜」中心の音楽作品概念を脱却できていない)抽象的議論ではなく、歴史の実態に基づく議論であろう。すなわち、ショパンの種々のヴァリアントは「作品」の「楽譜」のオプションや「エディション問題」に留まるものではなく、ショパン当時の「作品」や「演奏」というものに対する考え方や「演奏実践」の問題としてもとらえられるべきであり、私がここでわざわざ言うまでもなく、そうした研究は現在、すでにいろいろと行われていることだろう(その点で私が興味を持つのは、かつて「原典版」が敵視してきた種々の「解釈版」だ。それは過去の演奏実践の貴重な資料かつ史料であり、これを体系的に論じた研究があれば是非読んでみたい)。

 

 ところで、ある音楽作品で「複数のヴァージョンやヴァリアント」を同等なものとして扱うとしても、すべてをそのまま並置するのでは楽譜として使いものにならない。そこで、ある1つのヴァージョンを「本文」とし、ヴァリアントを「註」として併記するというのが現実的な解決法であろう。事実、先にあげたバドゥーラ=スコダ版やジム・サムスンらの手になるPetersの新しい版はそのようになっている。その点で「折衷的」なのがポーランドのいわゆるナショナル・エディションで、そこでは「本文」は必ずしも1つのヴァーションによるものではなく、場合によっては補足的に別ヴァージョンも参照されている。上記の「パラダイム」云々の考え方によれば、こうしたナショナル・エディションの処置は批判されるべきものであることになるはずだが……。

 

 私はショパンの研究者ではないし、その研究をする意志もない。が、少年時代から彼の音楽を愛してきたのは確かであり(さもなくば、サムスンの著書を訳すはずもない)、ここで述べたことはそうした「愛」、彼の音楽をよりよく理解し味わいたいという気持ちの現れだと解されたい。