米国の哲学者アーサー・ダントーの有名な論文「アートワールド The Artworld」(1964)のworldは定冠詞つきで単数形。他方、同じく米国の社会学者ハワード・S・ベッカーの名著『アート・ワールド Art Worlds』(原著は1984年、その後、2008年に増補された「25周年記念版」が出ている。邦訳は後藤将之・訳、慶應義塾大学出版会、2016年。私は今年になってから(ああ、もっと早くに原著の存在に気づいていれば……)同書のことをこの邦訳によって知った)のworldは無冠詞で複数形(訳書の題名にそのことが反映されていないのはいささか残念。まあ、日本語ではこれはなかなかに難しいが。たんに「ワールヅ」にしたのではわかりにくいし、「諸芸術界」とするのではなおよくない)。この違いはとても大きい(worldを単数形で語ろうとするのは、まさに「強い思考」の流儀である)。そして、私が心惹かれるのは断然後者だ。
このベッカーの『アート・ワールド』の巻末には著者の対話が収められているが、そこでは同世代のフランスの社会学者ピエール・ブルデュー (『芸術の規則』などの著者)がいう「フィールド champ」とベッカーがいう「ワールド」の違いが説明されていて興味深い。私は以前からブルデューの議論にはどうにも馴染みがたいものを感じていたのだが、この対話を読み、その理由がわかったような気がした。
ベッカーは自身のアプローチを「社会生活に没入する過程で発見された多くの可能性に対してオープンなもの」だとし、他方、ブルデューのものを「すでに確立された抽象的な哲学的立場の真実を先験的な考察に依拠して提示することに集中するもの」だとしている(邦訳、417頁)(もちろん、このまとめ方に対してブルデュー支持者はいろいろ言いたいことがあろうが……)。そして、私個人は前者のプラグマティズムの方に強い説得力と意義を感じている。
以前ここで、音楽を「行為」として論じたクリストファー・スモールの著作『ミュージッキング』について感想と若干の不満を述べた(https://www.blogger.com/blog/post/edit/8370436117668253788/8206244448478805843)。が、そのスモール本に10年以上先立つ上記ベッカー本を読むと、スモールが論じたことがいっそう巧みに説得力のあるかたちで論じられていることがわかる(がゆえに、私はもっと早い時点でこの本を読めていれば、自分の学位論文や『演奏行為論』にも活かすことができていたであろう。残念!)。