昔々、大学受験のために歌とソルフェージュを習ったときのことである。イタリア歌曲が入試課題にあり、発音に関しては「概ねローマ字と同じで、rは巻き舌」というまことにシンプルな原則を教わった(lの発音については何も言われなかった)。これで入試を突破し、以後、大学の学部、さらには別の大学院でも歌のレッスンを受け続けたわけだが、この原則を訂正されたことはなかった。それゆえ、かなり長い間、「これでいいのだ」と思い込んでいた。
ところが、後年イタリア語の発音を勉強し直してみると、これがとんでもない間違いだったと知ることとなった。すなわち、巻き舌になるのはそれが強勢のある音節に含まれているときであって、そうでないときには「巻かない」(「叩き音」、もしくは、「はじき音」、つまり、日本語の「ラ」に近い音)になるのだ。この区別を知らなかったということは、語の「強勢」に(ということは、当然、文のイントネーションにも)無頓着だったことになる。だが、当時はそれを歌の先生が教えてくれなかったのだから仕方がない。
かつての歌の先生方にはそれぞれに「楽恩」を感じており、非難するつもりなど毛頭ない。ただ、「昔はそうだった」ということを日本の西洋音楽受容史の一コマとして書き留めておきたいだけである(なお、rの発音はあくまでもそのごくごく些細な一例にすぎず、その背景についての考察も述べたいところだが、それはいずれ改めて)。さすがに今はそんなことはないだろう(……と思いたいが、近年、ある学生のスペイン語の歌唱を聴いた際、似たようなr の発音の別を知っているかどうかを当人に尋ねたところ、果たして知らなかった。まあ、これは例外的なことなのかもしれないが)。