以前からずっと気になっていたマルカンドレ・アムランによるアルベニス《イベリア》の録音を聴いてみた。私はこのピアニストがあまり好きではないのだが、それでもこの曲集は聴いてみたいと思っていたのだ。
結果からいえば、「残念!」の一言に尽きる(ただし、これはあくまでも私個人の趣味の問題である)。最初の〈エボカシオン〉を聴き始めて驚いたのは、まことに好き勝手に音楽をいじっていたことだ。旋律を細切れにし、自然な流れを遮るようなかたちでねちねちと歌い上げていたのである(確かに楽譜には事細かにスラーがつけられているとはいえ、このアムランのように音楽の流れを分断するのは考えものだろう)。そして、このよくいえば「自由」、悪くいえば「好き勝手」の流儀をアムランは他の11曲でも押し通していた。
たとえば、この曲集中で一、二を争う難しさの〈ラバピエス〉でアムランは(自然な)「歌」と「踊り」をほとんど顧みず、音楽を「音の織物」、「音響の合成物」にしてしまう。しかも、まことに自由に緩急をつけてである。つまり、これはもはや演奏「解釈」ではなく、「再創造」のごときものになっているのだ。
もちろん、私は演奏における「再創造」を否定する者ではない。むしろ、その可能性を大いに認めている(この点については拙著『演奏行為論』を参照のこと)。にもかかわらず、アムランの《イベリア》が好きになれないのは、その「再創造」の中身に説得力を感じないからだ。
ところで、かつてはごく限られたピアニストの演目だった《イベリア》だが、今や世界中のピアニストが手がけるメジャーな作品となっている。となれば、当然、本番スペインの伝統的流儀とは異なる流儀の演奏がいろいろあってしかるべきだ(し、その意味ではアムランの試み自体は有意義なことだと私も思う。そして、私はその中身には賛成できないが、それを大いに評価する人も当然いよう)。
先日聴いてとても面白いと思ったのがユジャ・ワンの演奏である。彼女が弾く〈ラバピエス〉はなるほど本番スペインの流儀とはあれこれ異なってはいるものの、「歌」と「踊り」をまことに魅力的にこなしつつ、この超絶技巧の曲をまさに楽譜冒頭に指示されているように「陽気で自由に演奏」しているのだ(次の動画の5’05”から:https://www.youtube.com/watch?v=J2r9kxddZlY)。いや、見事なものである(なお、第134小節の第2拍真ん中の音がf#だったので、彼女は自筆譜に基づくスペインの諸版ではなく、初版系統の楽譜――ヘンレ版もそうだ――を用いているのだろう)。いつか、彼女の弾く《イベリア》全曲を聴いてみたいものだ。そして、彼女以外でもいろいろな流儀で《イベリア》の世界を楽しめればうれしい(前回話題にした法貴彩子さんにも大いに期待!)。