近年、プラグマティズムを学び、今、ローティの著作を読んでいると、長年自分の中でもやもやしていた霧が晴れてくるのを感じる。そして、今苦悶しながら取り組んでいる『ミニマ・エステティカ――音楽する人のための美学――』の中で、何かが少しずつ姿を現しつつある。同書を構想し始めたときには思いも寄らなかったようなものが。
では、それはどのようなものなのか。そう遠からぬうちにここでその一端を示すことにしたいが、その根本にある考え方はこうである――「どう音楽するか」に直接関わらない「美学」の理論など、「音楽する人」は基本的にほとんど必要としていない(ここでいう「音楽する人」とは、何らかの具体的なかたちで音楽に関わりを持つ人のことである。「専門家」と「愛好家」の別は問題ではない)。ただし、ここで「基本的に」と言い、「全く」ではなく「ほとんど」という言い方をしている点に留意されたい。つまり、それが必要とされる場合も時にはある、ということだ。「ミニマ・エステティカ(最小の美学)」という書名はそのことを現している。そして、私は自身も「音楽する人」の1人としてそれを論じる。
かつて小室直樹はこう喝破した。「政治家は賄賂を取ってもよいし、汚職をしてもよろしい。それで国民が豊かになればよいのです」(村上篤直『評伝 小室直樹』下、ミネルヴァ書房、2018年、85頁) 。ごもっとも。だが、現在の政治家はそうではない。取るものだけ取っておいて、(一部の者たちを除いて)国民を豊かにしてくれていない。それどころか、どんどん貧しくさせている。ただし、そんな政治家を選挙で(投票に行かないことも含めて)選んだのは国民自身だということは忘れるべきではない。