ここ2、3日、ずっと気になっていたことがある。それは八神純子(1958-)の《パープルタウン》(1980)のキーがFだったか、Gだったか、ということである。私はたいていの曲はキーとともに記憶しているのだが、《パープルタウン》の場合にはそれがあいまいになっていたわけだ。
ちなみに、私は別に八神のファンでもないし、この曲も40年以上前に聴いたきりである。にもかかわらず、ふとそれを思い出したのは、リチャード・ローティの『ローティ論集:「紫の言葉たち」――今問われるアメリカの知性』(冨田恭彦・編訳、勁草書房、2018年)を読んでいるからだろう。つまり、「紫」繋がりである。
ともあれ、もやもやは早々に解消した方がよいと思い、Youtubeで調べてみた。すると、キーはG(はじめはマイナーで、途中にメジャーに転調)であった:https://www.youtube.com/watch?v=QU1HW23n7pM。これですっきりである。のみならず、この曲を聴き直してみて、なるほど、やはり記憶の片隅に残るだけのものはあると思った。
それにしても、ローティの思想には大いに心惹かれる。もう20年早く出会うことができていたならば、私の研究の方向も変わっていただろうと思わずにはいられない。
前世紀末から10年近く、私は我を失って全く余計な領域に足を踏み入れてしまい、その間に学位論文を仕上げてはいるが、その続きで研究を進めることなく、不毛の年月を過ごすこととなった。
ただし、それは今だからこそ言えることであり、当時は自分なりにそれでよいと思って進んだ道であった(その終わり頃にふとしたきっかけからフランス和声に興味を惹かれ、その繋がりで池内友次郎に関心を持ったことは、現在の自分にとって重要な問題である「西洋音楽の日本化」を考えるきっかけになっている)。それゆえ、その選択を後悔しているわけではないし、後悔すべきではないとも思っている。
が、そのときにローティを読んでいれば早々に「目が覚めた」ことだろう。とはいえ、「もの皆時宜あり」というわけで、今の出会いを素直に喜び、今後に活かすことにしたい。