J. S. バッハの《平均律クラヴィーア曲集》のフーガを見ていると、その自由なありように胸を打たれずにはいられない。よくもまあ、あれだけ多種多様なフーガを、しかも、そのどれもが生き生きとした音楽を書けたものだ。というわけで、このところこの曲集に改めて親しんでいるが、とにかく面白く、楽しくて仕方がない。
ところで、そうした「自由な」音楽のありようゆえに、ときには譜面の読み取りが難しいフーガにも出くわす。たとえば、中声部がかなり長きにわたって交差するのみならず、その一方が休止になる場合など、油断すると声部の取り違えをしてしまう(アルトの音域にあるものが実はテノールだったりするわけだ)。そこでそれを防ぐ手として、声部毎に異なる色鉛筆で書き込みをするという手がある。具体的には、(1)全部の音符に色を塗ると見苦しいので、タイとその繋ぎ先の音符にのみ色を塗るようにする(こうすると、そこを弾き直さなくてよいことが瞬時に見て取れる)。また、必要に応じて休符にも色をつける(こうすると、長い休みの後の「入り」がわかりやすくなるし、声部が錯綜する場合も見やすくなる。(2)ただし、交差などで声部の見通しが悪いところについてはその部分の音の動きを線でなぞるようにする――たったこれだけのことで、随分音楽の見通しがよくなるはずだ。バッハの読譜に苦労している方は是非お試しあれ。
(上にあげたのは《平均律》第1巻第12番の4声フーガ。ソプラノに赤色、アルトに水色、テノールに緑色、バスにオレンジ色を用いている)
このところ、野中広務(1925-2018)の回顧録や、彼について書かれた本を読んでいるが、この人はまこと立派な政治家だったのだなあと認識を新たにした(それに比べて昨今の政治家たるや……)。この野中に限らず、過去のいろいろな政治家本人の回顧録や評伝を読むとわかるのは、戦争を体験、それも主体的な判断のできる(肉体面ではなく精神面での)大人として体験していることが政治家としてのありように大きな影響を与えていることだ。国家権力が舵取りを誤るといかに悲惨なことになるのかを彼らは身にしみてわかっている。それだけにその運用にはある面では慎重だった(では今は?)。