ドビュッシーの《前奏曲集 第1巻》の第2曲〈帆〉について、島岡譲・他『総合和声――実技・分析・原理』(音楽之友社、1998年)ではその和声構造を次のように分析している:
(同書、479頁)
なるほど、確かに機能和声の観点から分析すればこのようになるのかもしれないが、それで本当に音楽の実質をとらえたことになるだろうか?
私はそうではないと考える。というのも、実際にこの曲を聴けば、何か違ったふうに感じられるからだ。まず、AとCの保続低音たる変ロ音はこの部分の響きを支える土台として十分安定性を持っており、ドミナント和音の根音――すなわち、主音への解決を期待させる音――などには感じられない。しかも、そもそもA(C)とBではモードが異なるわけで(A(C)は全音音階、Bは5音音階(であって、変ホ調ではない。だからこそ、この部分は♭5つになっているわけだ)。前者はその浮遊感に意味があるのであって、それは何らかの解決を必要とするものではない)、その変化を「ドミナント→トニック→ドミナント」ととらえるのは無理があるのではないか。にもかかわらず、そのように分析してしまうのは、「機能和声」の図式を前提にこの曲を見ているからだろう。だが、それではこのまことにユニークな音楽の肝心の部分を見損なってしまうのではなかろうか。
『総合和声』の分析・理論面での記述は調性(機能和声)音楽のありようをとらえる上でまことに役に立つ優れたものだと思う(この部分だけ切り離して、用語や言葉遣いをもっと平易なものとして出版すれば、演奏系の学生に歓迎されるのではなかろうか)。が、このドビュッシー作品についていえば、選曲ミス、すなわち、同書の分析方法の射程外にあるものであろう。 まことに楽曲分析というのは難しいものである。