2023年11月21日火曜日

動機のモザイクとしてのソナタ

  スクリャービンの後期ソナタで「塗り絵」をしていると、いろいろなことがわかる。たとえば、そこには動機の「展開」はほとんどない。あるのはいわば動機(あるいは、旋律や音型)の「モザイク」なのだが、それで充分音楽の持続を生み出せている。もっとも、ピアニストにとってそれはかなりの難物であろう。だが、だからこそ、うまくいった演奏(さほど多いとはいえないが……)には得も言われぬ味わいがある。

 

 音楽の「ながら聴き」には「集中的聴取」にはない面白さがある。今日、昼にうつらうつらしながらシベリウスの第2交響曲を聴いたが、それは何とも不思議な体験だった。たとえば、普通に聴いていれば短い時間しか要しない箇所であっても、半分寝ているのでなんだかとても長いものに感じられたり、あるいは、突然意識される部分がそれまでの音楽の流れと繋がりを欠いているがために全く新鮮なものに聞こえたりするなど、とにかく、まことに幻想的だったのである。 

 

 午前中にはたまたまつけたラジオでドヴォジャークの弦楽セレナードをやっていたが、つい聴き入ってしまった。何とよい音楽であろうか。  

 

 宝塚歌劇の醜聞を耳にし、ふと宮澤賢治の「猫の事務所」という話を思い出す。そこでは猫の間で虐めがあり、結局、獅子が「えい。解散を命ずる」ということになってしまうのだが、宝塚にもそんな獅子が現れればよいのに、と思ってしまう。いや、それは宝塚に限ったことではあるまい。

 なお、その物語の締めくくりは語り手の次のような台詞である――「 ぼくは半分獅子に同感です」。ここで「半分」というところがミソであろう。では、残り「半分」は? それはおそらく、こういうことではないか。つまり、「猫の事務所」での問題は当事者間でうまく解決すべき事柄であり、それを「獅子」という「外」の、しかも大きな力を持つ者がするのはあまり好ましくない、ということだ。宝塚の場合もしかり、ジャニーズの場合もしかり、そして、その他多くの場合もまた。だが、この国の歴史を振り返ればわかることだが、大変革は得てして「外圧」がもたらしている、ということだ(情けないことに)。とはいえ、いつまでもそのパタンを繰り返せばよいというものでもあるまい。