日頃はほとんど見向きもしないのに、時折無性に聴きたくなる作曲家が何人かいる。モートン・フェルドマン(1926-87)もその1人。一昨日もその作品で得も言われぬ至福のひとときを味わった(手持ちのCDで聴いたのは次のものだ:https://www.youtube.com/watch?v=SEzPYIkfYOk&list=OLAK5uy_kCEB0ygO5JcQ7TJ5tkpODK9Dd7Nrl3qMA&index=2)。
先日たまたま大学の図書館でフェルドマンを論じた本を見つけて読んだのが随分久しぶりに彼のディスクと取り出してきたきっかけである。その本とは高橋智子『モートン・フェルドマン――〈抽象的な音〉の冒険』(水声社、2022年。http://www.suiseisha.net/blog/?p=17380)。フェルドマンについて日本語で読めるものでこれだけまとまった内容を持つものはなく、彼の創作と思考の軌跡がよくわかる良書である。フェルドマン・ファンはもちろん、この点の音楽に興味のある方にはお勧めの1冊だ(私もいずれ購いたい)。これを読み、フェルドマンの音楽に久しぶりに触れてみたくなったのである。そして、やはり彼の音楽はすばらしかった。
が、前掲書で知ったフェルドマンの「思考」には正直あまりぴんとこなかった。それが彼の音楽から生々しく感じ取られることとあまり一致しているようには聞こえなかったからだろうか。こうした「理論」と「実践」の不一致はフェルドマンの場合に限ったことではなく、少なからぬ「現代音楽」の作曲家について言えることである。が、実のところ私はそのこと事態はあまり気にならない。なぜならば、たとえ理論がどうであろうと、書かれた作品がすばらしいからだ。
もちろん、そうした「すばらしさ」の内実は聴く人によってかなり違ったものになるだろう。とりわけ、フェルドマンのような音楽の場合には。だが、その音楽のありようを探る際に、敢えて自分や他者の聴体験を出発点とするというのも1つの手としてありうるのではないだろうか。