ジョン・ケィジの音楽(とりわけ、偶然性・不確定性以後のもの)を聴いているときに何か他の音が聞こえてきてもあまり気にならない。他方、モートン・フェルドマンの場合にはそうはいかない。前者の音楽の多くとは異なり、後者の音楽は完結した「作品」だからだ。しかも、それはほとんど弱音に終始するので、ちょっとした物音が大きな障害物になってしまう。
それゆえ、そうしたフェルドマン作品を聴くには演奏会場か、周りの音を遮られるリスニング・ルームが好ましいということになろう。だが、私の近場でフェルドマン作品を取り上げる演奏会はほとんどない。仮にあったとしても、後期の長大な作品のうち、2時間以上のもの(中には5時間を超えるものも)については会場の狭い座席でほとんど身動きできずに聴きたいとは思わない。また、自宅には完備したリスニング・ルームも(世の多くの聴き手同様)ない。というわけで、多少の物音はがまんしつつ、長すぎる作品の場合には適度に休憩を挟んで私はフェルドマンの音楽を聴いているわけだが、それで十分満足している。