2026年7月10日金曜日

冠詞恐るべし

  次にあげるのはゲーテの『ファウスト』第1部の一節である:

 

Denn, geht es zu des Bösen Haus,

/Das Weib hat tausend Schritt voraus.

 

これを山下肇が訳したもの(『ゲーテ全集3』、潮出版社、1992年)はこうなる:

 

悪魔のお里へ帰る日にゃ、

女は千歩も先走り。

 

原文の字面通りの素直な訳である。

 ところが、高橋義孝の手にかかると(新潮文庫、1967年)、訳は次のようになるのだ:

 

悪魔のところへ出向くとあれば、

男は女に到底叶わぬ。

 

前半はともかく、後半は驚くほど異なっている。なぜ、このようなことになるのか?

 この疑問に答えてくてるのが関口存男の『冠詞』だ(私が参照したのは少し前にした細谷行輝(監修)『冠詞の思想・改訂版』(三修社、2026年)である。以下、引用も同書に拠る)。まず、関口の訳文をあげておこう:

 

悪魔の旗下にはせ参ずる、いざ鎌倉というときは、男がどんなに急いでも、とうてい女にゃかなわない。

 

これは高橋の訳に近い(おそらく彼はこの関口訳を参照したのだろう)。そして、これについて関口はこう説明を加える。

 

上の例では、素朴な意識から考えると、むしろ複数形を用いてdie Weiberとでも言った方が良さそうに思われるのだが、それにも関わらず意図的に単数が採用されており、これによって明らかにある種の観念的な鋭さが感じられる。das Weibというのは実存するein Weibでも、総称のdie Weiberでもない、念頭で作り上げた抽象概念であり、非常に概念的な「概念」である(前掲書、89頁)。

 

つまり、上の文例では普通ならば複数形が用いられるところに定冠詞付きの単数形が用いられており、それにはしかるべき意味があると関口は述べているわけだ。

 では、その「意味」とはどのようなものか。この種の用法(=「類型単数」)一般について関口が加えている説明のうち、次のものが上の例には当てはまるようだ。曰く、「その名詞によって示された類の特性を強調するという含みを濃厚に持つ場合が多い」(88頁)。すなわち、この場合、Weib(女)の「特性を強調する」言い方であるがゆえに訳文にはそれをいっそうはっきり示すために「男」とか「にゃ」とかいう文言が表れることになるのだろう。

最初にあげた山下訳は誤訳ではない(し、氏の訳した『ファウスト』を私は愛読している)が、原語の読みの点で関口(高橋)訳とは「解像度」が異なる。冠詞と名詞の数の用法に着目するかしないかの違いでここまでの違いが生じるとすれば、その他の点も含めて、これまで自分がドイツ語を読んだときにいったいどれだけ多くの事柄を読み落としてきたのだろう。考えるだけでも恐ろしくなる(もちろん、それはドイツ語だけのことではなく他の外国語でも同様。だが、それはそれとして、「やはり言語というものは面白いものだなあ」とお気楽にも感じる。のみならず、(遅ればせながらも、たとえほんの少ししかできないとしても)もっと深く学びたいと思う。