2022年5月31日火曜日

ブルース・ヘインズ『古楽の終焉――HIP〈歴史的知識にもとづく演奏〉とはなにか』

 大学の図書館で新着書を物色していたら、ブルース・ヘインズ(1942-2011)『古楽の終焉――HIP〈歴史的知識にもとづく演奏〉とはなにか』(大竹尚之・訳、アルテスパブリッシング、2022年)が目に留まる(https://artespublishing.com/shop/books/86559-249-8/)。随分前に原著を購い、ぱらぱらとめくっており、翻訳が出される価値が十分あると思っていた(が、自分で挑戦しようとまでは思わなかった)だけに、うれしいかぎり。迷わず借りて帰った。

なかなかに挑発的な書名だが(内容については上記リンク先を参照)、そこでなされている主張は至極当然のことばかりである。同書を読めばHIPがたんなる歴史の復元作業ではなく今現在の音楽実践であることが納得されるだろうし、そうした実践が停滞・没落の一途を辿るクラシック音楽(界)を活気づけうるものであることも了解されよう。というわけで、これはクラシック音楽(ファンも含む)関係者にとってまことに有益で一読の価値がある(少なくともクラシック音楽を学んでいる若者にとっては必読の)書だと私は思う。

同書の著者ヘインズは19世紀ロマン派以前の「古楽early music 、もとい、(その呼び名に代わるものとして自身が提唱する)「修辞学的音楽rhetorical music」の演奏・研究者なのだが、それだけにともすると現実を顧みない理論家に対して少なからず批判的である。そして、その批判にはなかなかに鋭い。たとえば、HIPにとって「楽曲a piece of music」とか「音楽作品 musical work」とかいうものが避けては通れない問題だと述べつつも、その点に関する「多くの著述家」や「哲学者たち」の手になる「かなりの文献が的はずれ、もしくは時代遅れな前提をもとにしている」ものであり、「その論ずるところは鈍重でロマン主義的で、その志向は理論家や作曲家のそれ」であって、「作品と演奏を分けて[……]音楽を定義しようとする試みには、ほとんど興味をもてない」と言うのだ(同書、146頁)。いや、まことにごもっとも(ちなみに、上記「哲学者たち」としてヘインズが註で名をあげているのは、フィリップ・アルパースン、スティーヴン・デイヴィーズ、スタン・ゴドロヴィチ、リディア・ゲーア――ヘインズは彼女の父の作曲家アリグザンダー・ゲーアの名も同書の別のところであげているが、訳書では「ゲール」と表記されている――、ネルスン・グッドマン、ピーター・キヴィ、ジェロルド・レヴィンスンなどなど、この主題に関する「斯界」での論客たちである。もっとも、彼らの論のすべてが「的外れ」だというわけではなく、有益なところもあるとは私も思う。が、だいたいのところはヘインズの意見に賛成である)。

ただし、理論家たちの認識も同書の原典が出版された2007年(さらには著者の没年たる2011年)に比べれば変わってきているのも確かで、「作品と演奏を分け」るのはもはや古い考え方になりつつある(拙著『演奏行為論』もそうした流れに棹さすものだ)。また、彼が論じるHIPは「修辞学的音楽」に関することに概ね限られているが、この21世紀からすれば19世紀はもちろん、20世紀前半ですらHIPの対象たり得るわけで、事実、種々の実践が行われている。それゆえ、そうした実践と近年の理論的探求をも視野に入れた「HIPとはなにか」が理論にも通暁した演奏家によって著されることを期待したい。

2022年5月26日木曜日

ライヴで耳栓!?

 昔、ある機会に一度だけイーグルスのライヴを聴きにいったことがある。少年時代から〈ホテル・カリフォルニア〉その他の名曲には親しんでいたので、なんとなくその気になったのである。そして、それでよかった。まことに楽しいライヴだったから。が、ライヴの「爆音」には驚愕した。

もっとも、これは私の無知のしからしむるところだったのである。人に聞くと、大きなホールやドーム会場でのポピュラー音楽のライヴではそれが普通だというではないか。なるほどそういうものかと納得しつつも、私は以後、自分の耳の健康を慮ってそうした場には行かないことにした。その手の音楽自体に興味はあるし、実演を楽しみたいと思ってはいても、耳が音量に耐えられないのだから仕方がない。残念至極。大きな音に耐性のある人がうらやましい。

 ……とずっと思っていたが、先日、あるものが売られているのを目にし、さらに驚いた(これもまた、己の無知のゆえに……)。それは爆音ライヴで耳を保護するための耳栓である。そこでインターネットで検索してみると、次のような記事が見つかった:https://my-best.com/12845。それを読み、爆音に悩まされたのが自分だけではないと知って何かしら安心するとともに、些か不思議な思いも抱いた。耳栓をして音楽を聴く!? とはいえ、ライヴの臨場感を味わい、楽しみつつ、耳も守るにはこれしかないのであろう。妙案だというべきであろうか。

ところで、ライヴが「爆音」によるものとなったのはいったいいつ頃からなのだろうか。また、それは今後も変わらないのだろうか。こうしたパフォーマンスの形態が持つ意味と意義は十分面白い研究主題だと思うが、どうだろうか(それに取り組む時間も気力も私にはないが……)。

さらにいえば、「爆音」に限らず、種々の音楽のありようを各々で理想的だとされる「音量」(当然、そこにはパフォーマンスの形態と場、そして、その音楽に関わる人たちの意識や価値観などが絡んでいる)観点から通時・共時の両面で比較・考察したらいっそう面白かろう。

2022年5月22日日曜日

今年はいずみたくの没後30年だった

 作曲家のいずみたく(1930-92)は昔からなんとなく気になる存在であり、先日も大学の図書館で自伝的エッセイを借りてきた(今年は没後30年にあたるが、そのことには全く気づいていなかった……)。読み出すと面白くてあっという間に読み終えてしまったが、その些か(音楽一筋であるがための)破天荒な何とも波瀾万丈な人生に驚くとともに、数々の名曲(たとえば、次のようなものなど:https://www.youtube.com/watch?v=ppgBbTuDtWI)を絶えず生み出してきたこの名作曲家に対する尊敬の念を新たにした。

いずみがもっとも力を注いだのがミュージカルだが、残念ながら私はまだそれを聴く機会に恵まれていない。いつか実演に触れられるときがやってきますように。