大学の図書館で新着書を物色していたら、ブルース・ヘインズ(1942-2011)『古楽の終焉――HIP〈歴史的知識にもとづく演奏〉とはなにか』(大竹尚之・訳、アルテスパブリッシング、2022年)が目に留まる(https://artespublishing.com/shop/books/86559-249-8/)。随分前に原著を購い、ぱらぱらとめくっており、翻訳が出される価値が十分あると思っていた(が、自分で挑戦しようとまでは思わなかった)だけに、うれしいかぎり。迷わず借りて帰った。
なかなかに挑発的な書名だが(内容については上記リンク先を参照)、そこでなされている主張は至極当然のことばかりである。同書を読めばHIPがたんなる歴史の復元作業ではなく今現在の音楽実践であることが納得されるだろうし、そうした実践が停滞・没落の一途を辿るクラシック音楽(界)を活気づけうるものであることも了解されよう。というわけで、これはクラシック音楽(ファンも含む)関係者にとってまことに有益で一読の価値がある(少なくともクラシック音楽を学んでいる若者にとっては必読の)書だと私は思う。
同書の著者ヘインズは19世紀ロマン派以前の「古楽early music」 、もとい、(その呼び名に代わるものとして自身が提唱する)「修辞学的音楽rhetorical music」の演奏・研究者なのだが、それだけにともすると現実を顧みない理論家に対して少なからず批判的である。そして、その批判にはなかなかに鋭い。たとえば、HIPにとって「楽曲a piece of music」とか「音楽作品 musical work」とかいうものが避けては通れない問題だと述べつつも、その点に関する「多くの著述家」や「哲学者たち」の手になる「かなりの文献が的はずれ、もしくは時代遅れな前提をもとにしている」ものであり、「その論ずるところは鈍重でロマン主義的で、その志向は理論家や作曲家のそれ」であって、「作品と演奏を分けて[……]音楽を定義しようとする試みには、ほとんど興味をもてない」と言うのだ(同書、146頁)。いや、まことにごもっとも(ちなみに、上記「哲学者たち」としてヘインズが註で名をあげているのは、フィリップ・アルパースン、スティーヴン・デイヴィーズ、スタン・ゴドロヴィチ、リディア・ゲーア――ヘインズは彼女の父の作曲家アリグザンダー・ゲーアの名も同書の別のところであげているが、訳書では「ゲール」と表記されている――、ネルスン・グッドマン、ピーター・キヴィ、ジェロルド・レヴィンスンなどなど、この主題に関する「斯界」での論客たちである。もっとも、彼らの論のすべてが「的外れ」だというわけではなく、有益なところもあるとは私も思う。が、だいたいのところはヘインズの意見に賛成である)。
ただし、理論家たちの認識も同書の原典が出版された2007年(さらには著者の没年たる2011年)に比べれば変わってきているのも確かで、「作品と演奏を分け」るのはもはや古い考え方になりつつある(拙著『演奏行為論』もそうした流れに棹さすものだ)。また、彼が論じるHIPは「修辞学的音楽」に関することに概ね限られているが、この21世紀からすれば19世紀はもちろん、20世紀前半ですらHIPの対象たり得るわけで、事実、種々の実践が行われている。それゆえ、そうした実践と近年の理論的探求をも視野に入れた「HIPとはなにか」が理論にも通暁した演奏家によって著されることを期待したい。