一昨日(5/1)は「田隅靖子ピアノリサイタル 残照の音楽~晩年の作曲家たち~」(於:京都コンサートホール アンサンブルホールムラタ)を聴いてきた。演目は次の通り:
J. ブラームス(1833-97):4つの小品 作品119(1893)
C. フランク(1822-90):前奏曲、コラールとフーガ(1884)
D. ショスタコーヴィチ(1906-75):ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 作品134(1868)(ヴァイオリン:G. バブアゼ)
最初のブラームス作品はまさに作曲家としての晩年に書かれたものであり、最後のピアノ曲でもある。それだけに何か「枯淡の境地」のようなものをこれまで私はこの曲の演奏に知らずしらずのうちに求めてきたようだ。が、今回、田隅先生(私は弟子ではないが、こうお呼びしたい)の演奏を聴き、それとはまた違った面、すなわち、「若々しさ」を随所に強く感じて驚いた。
それは「生の力強い燃焼」という方が正確かもしれない。とにかく枯淡などのおよそ対極にあるものだ。もちろん、枯淡さや諦念のようなものがこの作品にないわけではない。むしろ、かなり色濃くにじみ出ているとさえいえる。が、同時に先に述べた若々しい力もそこでは働いており、両者のせめぎ合いが音の組立てが織りなすドラマの対旋律をなしているように私には聞こえた。今まで私はこの曲、あるいは他の晩年のブラームス作品にそうした「若々しさ」を感じたことはなかった(こう言うと、「では第4曲はどうなのだ? クラリネット・ソナタは?」と問われるかもしれない。なるほど、それらの曲にはそれなりに激しい、活発な音の動きはある。が、なぜかこれまで私にはそれは「若々しさ」とは別のものに聞こえていたのである)。
そうした気づきをもたらしてくれたのは紛れもなくこの日の田隅先生の演奏だった。それはおそらく、演奏自体も上述の2つの力のせめぎ合いを感じさせるものだったからだろう(演奏会当日が先生の84歳の誕生日だったとのこと)。こうした演奏は若者にはもちろん、壮年期の演奏家にもとうていできるものではない。まさにいろいろな意味で機が熟し、時宜を得た音楽家にしてようやく可能となるものではないだろうか。
他の2曲もそれぞれに興味深く、そして楽しく聴かせていただいたが、ブラームスの鮮烈な印象が突出しており、それ以上のことを言う言葉を恥ずかしながら私は持たない。が、ショスタコーヴィチのこの何とも「空恐ろしい」名曲を実演としてははじめて、しかも充実した演奏で聴けてうれしかったと述べないわけにはいかない。
ともあれ、田隅先生、今回もまことに興味深く刺激的な演奏会を聴かせていただき、ありがとうございました。次回も心待ちしております。