ある演奏家が公開レッスンの場で1人の生徒が持ってきた作品について「そんな曲よりももっと優先されるべき曲があるはずだ」という類のことを言ったと伝え聞き、かなり驚いた。なるほど、人生というものは短いので「あれもこれも」というわけにはいかず、どこかに的を絞らなければならないという点ではこの演奏家の言うことも理解できる。が、その「優先されるべき曲」、すなわち「名曲」の選択は人それぞれのはずで、自分の価値観を人に押しつけようとしてはいけない。それがたとえ善意からなされた発言だとしても。
また、「名曲」の範囲を狭く限定することは、演奏家にとって得策ではない。というのも、皆が同じような曲を取り上げるとすれば、自分の演奏のセールス・ポイントをはっきりさせることが難しくなるからだ(もちろん、ごくごく限られた「天才」は別であるが……)。そして、いつでもどこでも同じような作品が大して代わり映えしない演奏でしか聴けないとなれば、聴き手の足が演奏会場から遠のくのも道理である。
もっとも、昔に比べれば演奏会や録音などで取り上げられる作品の多様性は随分増している。もはや「定番名曲」だけでは(西洋芸術)音楽界を維持できないことに少なからぬ演奏家(や興行主)が気づいているからだろう。そして、それだけになおのこと、件の演奏家の発言には驚かされるわけだ(が、この人が定番名曲しか取り上げないとしても、そのこと自体を非難するつもりは全くない。それは「生き方」の問題なのだから)。