2023年8月31日木曜日

『ピアニストだって冒険する』を再読して切なくなる

  中村紘子の最後の著書『ピアニストだって冒険する』(新潮社、2017年)を再読した。この人の筆の冴えには本当に唸らされる。とにかく読ませる文章だし、内容にもいろいろと考えさせられるところが少なくない。

 が、それはそれとして、1つ切なくなったことも。それは「ハイ・フィンガー奏法」批判、井口ファミリー批判をこの期に及んでも執拗に続けていたことだ。なるほど、そうした批判に一理あるのは確かで、中村は決して根も葉もない讒言を述べているわけではない。が、反面、それはまことに一面的なものであり、しかも、その初出たる『チャイコフスキー・コンクール――ピアニストが聴く現代』(中央公論社、1988年)から30年ほどを経ても何ら中身がヴァージョン・アップされていないのは考えものである。が、私が「切なくなった」のはそれが原因ではない。むしろ気になるのは、そうした彼女の執念の動機である。もちろん、それはあくまでも想像にしかすぎないが、たぶん、自分が批判するピアニズムから完全に自由になることができなかったことを中村が自覚しており、そこから生じる恨み辛みの念、そして、それ以上にもはやどうにもできないことへの「残念な気持ち」が長年に及ぶ批判の源だったのではなかろうか。そして、もしそうだとすれば、これはまことに切ない話である(ちなみに、ラフマニノフの第3協奏曲、第1楽章第2主題を2つの演奏で聴き比べてみられたい。1つめは中村の演奏(4’02”から):https://www.youtube.com/watch?v=GpiYJE6fPw0、そして、もう1つはラフマニノフ自身の演奏(3’38”から)である:https://www.youtube.com/watch?v=EPM6bEBerRo)。

 しかも、中村は著書の中で繰り返し、ピアニストとして、音楽家として「かくあるべし」ということを手を変え品を変え述べている。すなわち、一元的な価値観によって音楽の世界をとらえているのであり、その中での「ランク」付けにもまことに敏感である。まあ、その人の生き方の問題だから、そうした価値観を否定するつもりはない。が、彼女の場合、それが結局、知らず知らずのうちに自縄自縛になっていた可能性が高い。もし、「人は人、私は私」とある程度割り切れて、ピアニストとして自分なりの道を進めていたのならば、上記のごとき執拗な批判をすることはなかったろうし、もっと楽に楽しく生きられたのではなかろうか。そして、この点でも私は切なくなる。

 ところで、中村は「日本的演奏」の原因を日本独特の誤った演奏メソッドと精神性にあるとしている。なるほど、そうかもしれない。だが、それだけではなく、もっと大きな原因があるように私には思われる。それは何か。たぶん、西洋の諸語とは根本的に異なる「日本語」という言語の音とリズムの特性であり、表現様式であろう。

 

 私の住む市では今週末に市長選の投票日がある。が、その広報が届いたのは今日である。おかしな話だ。今回に限らず、選挙のときはいつもこうだ。まるで「普通の人はできるだけ投票に来ないでください」とでも言わんばかりに。

2023年8月28日月曜日

<福田進一と仲間たち vol.12> 福田進一&荘村清志 ジョイントリサイタル

  夏は暑いものだが、今年はとりわけ酷い。というわけで、先月20日すぎから今まで、外出は必要最低限に留めていた。もちろん、演奏会など、とてもとても……。その中で、昨日はまだ暑さが収まっていないにもかかわらず、本当に久しぶりに音楽を聴きに出かけてきた。これを聴き逃す手はないと強く思ったからだ。その演奏会とは、「<福田進一と仲間たち vol.12> 福田進一&荘村清志 ジョイントリサイタル」(於:ザ・フェニックスホール(大阪))である(https://phoenixhall.jp/performance/2023/08/27/19875/)。そして、やはり出かけてよかった。

 演目は次の通り:

 

・前半

【荘村&福田/デュオ】

▼カルリ:ラルゴとロンド 2番(対話風小二重奏曲 op.34 より)

▼レイモン:ミッドナイト・メモリーズ(Hakuju ギター・フェスタ2020委嘱作品)

▼ファリャ(プホール編):歌劇「はかなき人生」よりスペイン舞曲 第1番

 

【福田進一/ソロ】

▼アセンシオ:内なる想い

▼アルベニス(ウィリアムス編):スペインの歌 op.232よりコルドバ

 

・後半

【荘村清志/ソロ】

▼グラナドス(福田進一編):詩的ワルツ集(抜粋)

▼グラナドス(荘村清志編):「昔風のスペインの歌曲集」より 7ゴヤの美女

 「スペイン舞曲集」より 第1番ガランテ 第4番ビリャネスカ

 

【荘村&福田/デュオ】

▼グラナドス(荘村清志編):「スペイン舞曲集」より 2オリエンタル

▼押尾コータロー:PreciousHakuju ギター・フェスタ 2023委嘱作品)

 

【荘村&福田&押尾/トリオ】

▼ラヴェル(押尾コータロー編):ボレロ

 

 最初のデュオを聴いたとき、2人の奏者の適度な距離感を面白く、かつ、心地よく感じた。1つの音楽を一緒になってがっちり「つくりこんで」いるのでもなく、さりとて、2つの個性が終始火花を散らし続けるというのでもない。つかず離れずに両者が臨機応変に音楽と/で戯れているとでもいえばよいだろうか(なお、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎない。これは以下の文章についても同様。当然、違った感じ方もいろいろあろう)。それゆえ、どの曲でもそれぞれにまことに面白い演奏を聴かせてくれたのだが、私にとってもっとも味わい深い演奏は最初のカルリ作品でものだった。

 2人の個性の違いがまた面白い。福田が奏でる音楽にはとにかく「艶」がある。どんな些細なパッセージでも何とも艶めかしいのだ。が、もちろん、それだけではない。旋律に対する伴奏の「後打ち」の音や、装飾的に現れるハーモニックス、等々、音楽の中でどうということのない瞬間に得体の知れない深淵のようなものをしばしば垣間見させるのだ。その意味で私がとってもっとも心惹かれたのはアルベニスの〈コルドバ〉の演奏だった(原曲のピアノ曲よりも、今回の演奏の方が魅力的)。

 他方、荘村の音楽は何とも「渋い」。表面には華美なところはなく、何かを誇示しようとの気負いは全く見られない。にもかかわらず、1つ1つの音、そして、その「間」の充ぶり実ゆえに、とにかく演奏から耳が離せない。それでいて、決して窮屈ではなく、遊びも欠けてはいない。もっとも胸を打たれたのは〈ビリャネス〉の演奏だ。

 さて、今回の演奏会にはもう1つの目玉があった。それは押尾コータローの新作であり、かつ、彼が編曲した《ボレロ》である。前者について作曲者は「“弾いていて楽しい曲”を目指し」云々とプログラム・ノートで述べているが、その成否は2人の演奏ぶりから明らかだった。そして、幸いにも「聴いていて楽しい曲」でもあった(わざわざこう言うのは、今日の新作には必ずしもそうではないものも少なくないからだ)。また、後者はあの何とも絢爛豪華な原曲からエッセンスをうまく取り出し、「軽やか」でありながら熱気十分な音楽を――もちろん、パフォーマンスの見事さも相俟って――現出せしめた。いや、このような編曲、演奏があの曲で可能だとは……。なお、それら2曲の間に押尾がソロを聴かせてくれたのだが、これはうれしい驚きであった。

 ともあれ、まことに素敵な演奏会であった。演奏者のパフォーマンスに魅せられるとともに、この楽器への愛がいっそう深まった。というわけで、本日の演奏者、演奏会の企画運営者に心からの感謝を。

2023年8月19日土曜日

メモ(102)

 セロニアス・モンクは日本のジャズに対して「我々のまねをすべきじゃない。自分たちのジャズをやるべきだ」(ロビン・ケリー『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』、シンコーミュージック・エンタテイメント、2017年、499頁)と述べている(「日本人にはジャズはわからない」と――確かに一面では真理ではあろうが、反面であまりに排他的な考えを――言ってのけた某ミュージシャンとは大違いである)。これは西洋芸術音楽についても言えることではなかろうか。そして、その中から本場の人たちにも楽しめるようなもの、音楽について新たな認識をもたらすものができてくればすばらしい(これまでにもそうしたものがいろいろあっただろうが、これからはなおいっそう。とりわけ演奏については)。たとえ、それが「西洋芸術音楽」とはどこか違ったものになったとしても。

 

 なるほど……:https://www.youtube.com/watch?v=AYFBiB4rte4

 

2023年8月14日月曜日

テンポが異なっても

  私がジョン・ケージの 名作《3つのダンス》(1945)を知ったのは1980年代はじめのころ。FMで放送された一柳慧と高橋アキのデュオの演奏によってである。すっかり魅了されてしまい、エア・チェックを繰り返し聴いたものだから、この演奏のテンポで曲が頭に入ってしまった。

 それゆえ、数年後、マイケル・ティルスン・トーマスとジョン・グリアスンの録音を聴いて仰天した。テンポが大きく異なり、まるで別の音楽に聞こえたからである。このデュオによる第3曲の演奏ではテンポはなかなり速い(https://www.youtube.com/watch?v=Na3cnPonfsU)のに対して、一柳・高橋デュオのテンポはそれに比べればまことにゆったりしていた(その録音はここにはあげられないが、やはり遅めのテンポをとっている別の録音をあげよう。第3曲は12’40”からである:https://www.youtube.com/watch?v=p7aMUR5x7yA)。

 この曲の初録音を聴くとテンポが速めであることがわかる(https://www.youtube.com/watch?v=NHJYlJm3uhs)。すると、作曲当時のケージの念頭にあったのはこうしたテンポだったのであろうか。

 だが、遅めのテンポによる演奏には、速めのそれにはない味わいがある。そして、今のような暑い季節に私が聴きたいのは前者だ。はじめにあげた動画をたまたま観て、そう感じた。ただし、一柳・高橋デュオの演奏はもっと飄々としており、いっそう涼しげだった記憶している。今聴けないのが残念。

2023年8月10日木曜日

ランドゥーガを音楽科教育で!

  大方の「即興」演奏というものは、必ずしも自由なものではない。

 

インド音楽にしても、アラブ音楽にしても、また我国の伝統音楽でも即興はその分野の決まりごとや伝統をすべて学んだうえで許される。即興がいのち、ともいうべきジャズですら、コードやらフレーズやら、と身に付けねばならないことは多い。 

(佐藤允彦『一拍遅れの一番乗り』、スパイス・カムパニー、2002年、30頁)

 

そこで佐藤允彦が「そうしたしがらみから解放された即興」(同)として考え、試行錯誤を積み重ねてきたのが「ランドゥーガ」という流儀である(https://sound.jp/randooga/ran.html

 もちろん、これはなかなかに難しいが、コミュニーションについてのさまざまな学びの場たりうるだろう。それゆえ、これを学校の音楽科教育でやってみたらどうだろうか。無理に毒にも薬にもならない合唱曲を歌わせたり、中途半端にベートーヴェンの交響曲を「鑑賞」させたりするよりも有益なはずだ。

 

2023年8月8日火曜日

残念ながら

  ヴィトルト・ルトスワフスキ(1913-94。今年は生誕110年!)の第4交響曲(1988-92)をスコアを眺めながら聴いてみた。が、残念ながら以前の印象を改めることはできなかった。すなわち、職人芸の見事さには感服させられるものの、それだけなのである。この尊敬すべき巨匠の作品から感動を味わえないのは残念至極。

 

2023年8月6日日曜日

佐藤允彦『すっかり丸くおなりになって…』

  佐藤允彦のエッセイ集『すっかり丸くおなりになって…』(メーザー・ハウス、1997年)を読んでいるが、著者の文章はその音楽同様、まことにシャープ、かつ、味わいがある。

 同書に収められているのは『ジャズ・ライフ』誌に連載にされたコラムのうち1986~1996年に書かれたものだ。時事ネタが少なくないにもかかわらず、今読んでもドキリとさせられる意見や指摘に満ちている。たとえば、著者は19897月に掲載された文章の中でこう言う――「ジャズの種子をアメリカからもらって日本に播いてしまった我々は、ここでもうそろそろ彼らとは別の道を歩かねばならない時期に来ているのだろう」(同書、172頁)。今から30年以上前の話であるが、この「ジャズ」を「西洋芸術音楽」に、「アメリカ」を「西洋」に置き換えても現在、十分に考慮に値する意見であろう(言うまでもないが、これは怪しげなナショナリズムとは全く関係がない)。

 著者は1941年生まれだとのことだから、今年で82歳になる。が、まだ現役のミュージシャンとして活動しているようなので、是非ともその生のプレイに触れてみたいものだ。

2023年8月3日木曜日

佐藤允彦 & サウンド・ブレイカーズの『Amalgamation 恍惚の昭和元禄』

  佐藤允彦 & サウンド・ブレイカーズの『Amalgamation 恍惚の昭和元禄』(1971)をYoutubeで聴いた(https://www.youtube.com/watch?v=dPCK4d1dmdg)。アルバム名にあるように、そこではまさにいろいろなものが「融合」しているのだが、その「ごった煮」ぶりが実に面白く、しばしば「恍惚」感を味わわされる。とともに、このようなことが「さまになった」時代に(昔の「現代音楽」全盛期に対するのと同様な)羨望の念を覚えてしまう(このアルバムを含む「東芝音楽工業  エキスプレス・ジャズ・シリーズ」のラインナップを見ると、まあ、何ともゴージャズである:http://smjx1969.starfree.jp/toshibarecord.htm)。

2023年8月1日火曜日

しつこくも今日もアイヴズを

  しつこくも今日もアイヴズを聴いてしまった。《ロバート・ブラウニング序曲》 (1912)がそれだ。この何とも過激でありながらも、この上なく美しい音楽には本当に心惹かれる:https://www.youtube.com/watch?v=FoBCKcw2zRU

  私がこの序曲を初めて聴いたのは、LPでのこと。ストコフスキー指揮による演奏で、同じディスクには第4交響曲も収められていた。当時は交響曲の方にばかり注意が向いていたが、その後、序曲もお気に入りになった。

 それにしても、その頃(1980年代前半)にはアイヴズはまだマイナーな存在であり、日本で手に入るディスクの数などごくわずかだった。ところが、今ではそうではない。インターネットで聴ける音源も含めれば、彼はそれなりにメジャーな存在になったとはいえよう。

 とはいえ、私はまだ実演でアイヴズ作品を聴いたことがない。来年は生誕150年(シェーンベルクも同じ!)にあたるので、その機会が訪れることを期待しよう。