2025年4月30日水曜日

芥川也寸志の名曲《コンチェルト・オスティナート》

  今年は芥川也寸志の生誕100年。彼の作品はおそらく、これからも演奏され、聴かれ続けることになるだろう。

 芥川のある時期までの作品は「お手本」がはっきりわかる体のものだ。たとえば、出世作、《交響管弦楽のための音楽》(1950)は伊福部昭の《交響譚詩》(1943)によく似ているし、《交響曲第1番》(1954/55)はプロコフィエフとショスタコーヴィチの「第5交響曲」があまりにストレートに反映されている箇所がいろいろ目に付く。

 だが、それにもかかわらず、そうした作品からも芥川の個性をしかと聴き取ることができる。そして、私はお手本の《交響譚詩》よりも《交響管弦楽のための音楽》のシャープな作風を愛するし、《交響曲第1番》も嫌いにはなれない。

 自分がもっとも好む芥川の作品はチェロとオーケストラのための《コンチェルト・オスティナート》(1969)だ(https://www.youtube.com/watch?v=A6YabG166SA)。これは本当に名曲だと思う。そして、それだけに、この作品以降、芥川の筆が鈍ってしまったことを残念に思わずにはいられない。なるほど、彼は作曲以外の「社会貢献」をいろいろと行い、それらはしかるべき成果を上げてはいるのだが、やはりこれほどの作曲家にはもっともっと作品を書いて欲しかった。

2025年4月29日火曜日

伊福部昭の作品で私が(今のところ)唯一好むもの

  数日前まで木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』(春秋社、2014年)を再読していた。すると、急に伊福部の音楽が聴きたくなってきた。実のところ(このブログですでに述べたことだが)私はそれを好んでいないのだが、それにもかかわらず「ちょっと聴いてみようか」という気を起こさせたのだから、同書は名著だと言えよう。

 が、好きでもない作曲家ゆえに手持ちのCD1枚しかなかった(Naxosレィベルから出ているもの)。しかも、その演奏が妙に「ぬるい」ものだから困った。そこで思い切って新たにCDを購うことに。あてずっぽうに選んだわけではない。昔々聴いて「おっ、これはなかなかいいじゃないか」と思った作品・演奏が収められたものが出ているので、迷うことなくそれを選ぶ。フォンテックから出ている2枚組のもの(ただし、以前聴いたときには1枚もので、他の収録曲も異なっていた)で、その中の《リトミカ・オスティナータ》が目当てだったのである。この曲は手持ちのCDにも収められているのだが、全く別の音楽に聞こえるほどに演奏が「温い」。その点、今回購ったCDの演奏は格段にすばらしいものだと記憶していた。

 現物が手元に届くと、真っ先にそれを聴いた。そして、自分の記憶が間違っていなかったことが確認できた。井上道義指揮の東京交響楽団、ピアノ独奏は藤井一興のその演奏はかつて「伊福部嫌い」だった私を唸らせたものであり、今また新たな感動をもたらすものだったのである。いや、まことにすばらしい(この録音はYouTubeにはあげられていない。同じ指揮者と楽団による、だが、独奏者が異なる演奏はあげられていたので参考までに。だが、これは私にとっては「まあまあ」の演奏でしかない。ちゃんとした演奏であるのは間違いないにしても:https://www.youtube.com/watch?v=nle0msQLZ0M)。

 さて、件のCDには他にも何曲か伊福部作品が収められているので聴いてみた。ところが、それらにはさほど感動を覚えない。のみならず、どれも似たり寄ったりの「同工異曲」にしか聞こえず、しかも、その音調がまた私の好みに合わないのだ。それらが立派な音楽だということはわかるし、それに熱狂する人たちがいても当然だとは思う。が、その「人たち」の中に自分は今のところ含まれていない。残念。

 私には伊福部よりも、むしろ彼の友人にしてよきライヴァルだった早坂文雄の音楽の方が格段に好ましい。伊福部は早坂の最晩年の作品《ユーカラ》を「線の細い音楽」(前掲書、221頁)だと評するが、私にはそうは感じられない。そこには伊福部のどこか暴力的で押しつけがましい音楽にはない繊細さがあり美しさがある。もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎないので、伊福部ファンの方はどうかご寛恕のほどを。今のところ1曲は心から感動を覚える作品があるのだから、いずれ伊福部の他の作品も楽しめる日が私にも来ないとも限らない。そして、できればそうなりますように。

2025年4月25日金曜日

昨晩も文楽へ

  昨晩も文楽を観に行ってきた。演目は『義経千本桜』の続きで四段目 「道行初音旅」「河連法眼館の段」である。今回もまた大興奮、かつ、大感激だった。というわけで、今から秋の公演が楽しみでならない。

 ところで、客席の入りはさほどよくなかった。先週は満員だったのに。しかも、観客の中には若い人は見当たらないのだ。「こんなにも面白いのに」と残念に思うが、かくいう私自身その面白さに気づいたのは近年のことであるから、人のことはいえない。が、それはそれとして、若い人にこそ文楽を観、楽しんでもらいたいものだ。

 ただ、そのためには「新作」も必要だろう。実際そうしたものは時折つくられているようだが、もう少し積極的にやってもよいのではなかろうか。そして、私もそうした新作を観てみたい。

2025年4月22日火曜日

軽やかなプロコフィエフ

  ラジオをつけるとプロコフィエフの第2交響曲をやっていた。が、その演奏の軽やかさと「風通しの良さ」に驚かされる。これまで自分が聴いてきた録音(実演で触れる機会は残念ながらまだ得られていない。いずれ、是非!)ではもっと重々しく、かつ、いかにも音がぎっしり詰まっているような感じで演奏されていたからだ。

 今日聴いている演奏とこれまで聴いてきた演奏のどちらか一方が正しく、他方が誤っているというのではない。どちらにもそれなりに一理ある。そして、「名曲」というものは多様な演奏解釈に耐えうるものだ(さもなくば、長い年月の間に移り変わる演奏モードの変化を乗り越えてレパートリーとして残るはずもない)。が、それはそれとして、この軽やかなプロコフィエフの第2に私はとても心惹かれる。同じメンバーが同じ作曲家の第7を演奏したらどうなるのだろう? できれば聴いてみたいものだ。

 

 清水脩(1911-86)の随筆集『書き落した楽章』(1959年、カワイ楽譜)を再読しているが、作曲における日本語の扱いについて論じたものがとりわけ面白い。以前はこの問題には関心があまりなかったので読み流していたのだが、今や「関心大あり」なので。

この問題について清水や同世代の他の作曲家は「伝統邦楽」に言及し、そこから活かせるべきものは活かそうとしているようなのだが、もっと下の世代の作曲家の場合どうなのだろう? この点はいずれきちんと調べてみたいと思っている。

2025年4月18日金曜日

『義経千本桜』の三段目を観(聴き)に国立文楽劇場へ

  昨日は『義経千本桜』(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/exp3/exp_new/index.html)の三段目、すなわち、「椎の木の段」「小金吾討死の段」すしやの段」を観(聴き)に国立文楽劇場へ(https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/bunraku/2024/R0704haiyaku.pdf)。期待を遙かに超える面白さであり、最後の「鮓屋の段」では深い感動を味わえた。

 文楽の筋書きというのはなかなかに複雑なのだが、いざ観はじめると、そんなことは気にならなくなる。とにかく太夫、三味線、そして人形が織りなす劇に引き込まれるばかり。そこには笑いあり、涙あり、人情あり、あっと驚く展開あり、その他諸々、さまざまな要素が実に巧みに1つのドラマに仕立てられている。だから、観て(聴いて)いて少しもだれることなく、3時間弱の上演時間はまことに充実したものだった。

 私は文楽の全くの初心者なので見落としや聴き落としは多々あろうが、それにも関わらずここまで楽しめ、感動できるのは、やはりこの文楽という芸能自体の面白さ、そして、演者の芸の見事さによるものだろう。今のところそれを言語化できるだけの経験が自分にはないのでここであれこれ述べられないのが残念。文楽をもっと若い頃に知ることができていればなあ……。いや、今からでも遅くはない。むしろ、この歳になってこうしたものに出会えたことに感謝である。

 

 それにしても、文楽の義太夫節への興味が深まるにつれ、日本語による西洋音楽の「歌」への関心も強まってくる。後者はまだまだ日本独自の様式を確立しているようには思えないが、逆に言えば、これからまだまだいろいろな可能性があるということでもある。というわけで、現代の作曲家の「歌」の創作にいっそうの期待をしたいところだ。

 

2025年4月15日火曜日

ヴァイオリンとギターによるヴィヴァルディの《四季》

  今朝、NHK-FMでヴィヴァルディの《四季》のヴァイオリンとギターによる二重奏で聴いた。これはなかなかに新鮮で面白かった。とはいえ、今やこうした「耳にタコができる」ほどになっている「名曲」については、今回のような目新しい編曲か、よほど斬新な演奏解釈によるかでもしなければ楽しめない(ゆえに、「名曲」で埋め尽くされている演奏会にはほとんど行かなくなってしまった)。そして、それはおそらく私に限ったことではあるまい。

 ところで、今や音大は「音楽教室」運営法まで教授する時代だが、演奏会のプログラムの組み立てや演奏会自体の計画立案・運営法を教える授業が開講されているところはあるのだろうか? 「アート・マネジメント」ということが取りざたされる昨今、クラシック音楽の分野でももっと積極的にこの点が、音楽家個人のレヴェルで追求されてしかるべきだろう(さもなくば、クラシック音楽の未来は暗いと言わざるを得ない)。その点で大学のできること、やるべきことはまだまだあると思う。

 

 世を賑わしていることに一切言及しないという批判の仕方もある。自分が馬鹿馬鹿しく思うことをわざわざ話題にする必要もあるまい。

2025年4月10日木曜日

ラヴェル恐るべし

  今年はラヴェル・イヤー。というわけで、このところ彼のピアノ曲をあれこれ見直している。楽譜を読み、録音をあれこれ聴き、そして、自分でもピアノで音を拾ってみる。それをきちんと弾くだけのテクニックは私にはないのだが、それでも実際にピアノで音を出してみると、やはりそれでしかわからないことに気づかされる。

 今日は《夜のガスパール》第3曲〈スカルボ〉を超低速で、しかも、しばしば止まりながらピアノで音にしてみた。すると、この曲の得も言われぬ不気味さが何ともリアルに実感される。とともに、ピアノ書法の斬新さにも驚かされた。この曲のかくも不思議な響きは、その音選びだけではなく、楽器の使い方の産物でもあったわけだ。ともあれ、たどたどしくピアノで音を拾ってみるだけでも十分にスリルとサスペンスを味わう(とともに、この作品のメシアンへの影響の大きさも実感する)ことができた(どころか、このあまりにおどろおどろしい響きを味わうには下手でも自分で音を出してみるのが最良の手段かもしれない)。ラヴェル恐るべしである。

 

 今朝、FMで次の曲を聴いた:https://www.youtube.com/watch?v=lex6nhW3etA

魅力的な瞬間も少なからずあるのだが、やはりどこかチープな感じがぬぐいきれない。誰もついてこないような「前衛」音楽を「現代の音楽」だと言われても困るが、さりとて、このピアノ協奏曲のようなものがそれに代わるものだと言われても(少なくとも私には)受け入れがたい。もちろん、こうした曲を好む人は少なからずいるだろうし、それはそれでけっこうなことだとは思うが。

2025年4月7日月曜日

ベリオの音楽は楽しい。だが……

  昨日のNHK-FM「現代の音楽」では今年生誕100年のルチアーノ・ベリオが取り上げられていた。彼の作品を聴くのは随分久しぶりのことだったが、どれもこれも実に楽しい。やはりなかなかの才人だと改めて認識した次第。

 もっとも、ベリオの音楽はあくまでも「過去」のものとして楽しめるものであって、同じようなことを現在やられてもしらけるだけである。それゆえ、これが「現代の音楽」という番組で取り上げられることには些か違和感も覚えた。「現代音楽 100年のレガシー」と銘打たれた企画の1コマだとしてもだ。しかも、その作曲家の選択も過去に確立された評価に基づくものであり、それを見直そうとしないのも感心できない。通り一辺倒の曲目解説も相俟って、お世辞にも出来がよいとは言えない番組づくりだ。

もちろん、このような企画が毎月あるというのは、それだけ本当の「現代の音楽」で取り上げるものが多くはないという現状を反映したものなのではあろう。が、それでもいろいろと「悪あがき」のしようはあるのではないか。というわけで、この際、番組の担当を若手の音楽家(作曲家だけではなく演奏家も含む)に「任期付き」(というのも、同じ人が長く続けるのとマンネリになってしまうからだ)で任せてみればどうだろうか。たぶん、今よりもずっとアクチュアルで聴き応えのある番組になることだろう。

 

2025年4月4日金曜日

日本語のあいまいさ

  たまたま目にしたテレビ・ドラマ(ただし、私はPCで見ている)の再放送が実に面白い。それは『日本人の知らない日本語』(読売テレビ、2009年。原作は同題のコミック。エッセイだとか。これもそのうちに是非とも読んでみたい)。舞台は在留外国人向けの日本語学校で、「日本語のあいまいさ」がさまざまな角度から話題にされており、それが笑いをもたらすとともに、母語への反省を促してくれる。普段は気にならないのだが、こうしてドラマで見てみると、改めて日本語という言語の表現のあいまいさには驚かされる(昔言われたような「日本語は欧米諸語に比べて非論理的だ」ということはないにしても、表現にあいまいさがあるのは否定できまい)。

 そのドラマのある回では、そうした曖昧さ(言い換えれば、多種多様な婉曲表現)が日本の「和」の精神と結びつけられていたが、なるほど、そうかもしれない。だが、それが本当だとすれば、この国が現在の苦境を脱することはかなり難しそうだ。というのも、日本語を話している限りは「和」とは縁が切れそうにもなく、その「和」は批判を封じ込め、根本的なイノヴェーションを阻むものだからだ。この国で大変革が起こるのが得てして外圧によるものだというのも、こうした「和」の精神とそれを支える日本語の力を日本人が自力ではどうにもできないからだろうか。もちろん、日本語のあいまいな表現や「和」にもいろいろ美点があるのは重々承知しているが、今はそれに批判的な眼差しを向ける必要があるように思われる。

 ところで、日本語のあいまいさと「和」の精神は日本語話者による西洋音楽の作曲や演奏にも少なからず良くも悪くも影響を及ぼしているのではなかろうか。この点は日本語の発音の問題とともに探っていみれば面白いことになりそうだ。

2025年4月1日火曜日

ブゾーニ没後2世紀目の始まりの年

  今日41日はフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)の誕生日。昨年は没後100年だったので、今年は101年目。没後2世紀目の始まりの年だというわけだ(亡くなった日付けを起点をすべきだが、今日誕生日なのでこのことを話題にした)。没後しばらくしてほぼ「忘れられた」作曲家になってしまったブゾーニの評価は1980年代から少しずつ回復し始めていったものの、本格的な受容はこれからだろう。

 日本でも『音楽美学の新しい草案』の新訳や『音楽の一元性について』の訳がこれから出されることだろう。が、それだけではなく「バッハ=ブゾーニ版」(とりわけ《平均律クラヴィーア曲集》)の翻訳も望まれる。そこでは「作曲家ブゾーニ」と「演奏家ブゾーニ」の絶妙の結びつきが見られるからだ(ちなみに、《平均律》第1巻ではピアノ演奏技法、そして、第2巻は作曲技法が深く探求されている)。

 

 今日NHK-FMを聴いていると、大バッハのモテット《イエスはわが喜び》が取り上げられていた。これは大好きな曲なのでうれしい。演奏はベルリンRIAS室内合唱団。アンコールは《おぼろ月夜》だったが、「ドイツ語的」日本語歌唱による美しい歌を楽しめた。