ラジオをつけるとプロコフィエフの第2交響曲をやっていた。が、その演奏の軽やかさと「風通しの良さ」に驚かされる。これまで自分が聴いてきた録音(実演で触れる機会は残念ながらまだ得られていない。いずれ、是非!)ではもっと重々しく、かつ、いかにも音がぎっしり詰まっているような感じで演奏されていたからだ。
今日聴いている演奏とこれまで聴いてきた演奏のどちらか一方が正しく、他方が誤っているというのではない。どちらにもそれなりに一理ある。そして、「名曲」というものは多様な演奏解釈に耐えうるものだ(さもなくば、長い年月の間に移り変わる演奏モードの変化を乗り越えてレパートリーとして残るはずもない)。が、それはそれとして、この軽やかなプロコフィエフの第2に私はとても心惹かれる。同じメンバーが同じ作曲家の第7を演奏したらどうなるのだろう? できれば聴いてみたいものだ。
清水脩(1911-86)の随筆集『書き落した楽章』(1959年、カワイ楽譜)を再読しているが、作曲における日本語の扱いについて論じたものがとりわけ面白い。以前はこの問題には関心があまりなかったので読み流していたのだが、今や「関心大あり」なので。
この問題について清水や同世代の他の作曲家は「伝統邦楽」に言及し、そこから活かせるべきものは活かそうとしているようなのだが、もっと下の世代の作曲家の場合どうなのだろう? この点はいずれきちんと調べてみたいと思っている。