元首相への銃撃のニューズに驚く。相手が誰であってもこうした暴力は絶対にあってはならないし、許されるべきではない[追記:もちろん、そのこととこの人が生前に行ってきたことに対する評価は別の話である。国葬など論外だと私は思う]。
2022年7月8日金曜日
2022年7月3日日曜日
酷暑にはクセナキス
ここ数日の暑さには全くお手上げで、仕事以外の外出は極力避けていた。が、昨日は演奏会へ。「いずみシンフォニエッタ大阪 第48回定期演奏会『知の絢爛』」がそれである。「生誕100年記念クセナキス特集」ということで、彼の作品がいくつも取り上げられるとなれば、これは聴き逃せないではないか(さらにいえば、暑いときにはこうした熱い音楽を聴くと爽快感が得られることが少なくないので)。そして、その期待をさらに上回るまことに充実した演奏会だった。
演目は次の通り:
クセナキス:ノモス・アルファ(1965-66)
リネア-アゴン(1972)
アロウラ(1971)
パリンプセスト(1979)
バルトーク(川島素晴編):2台のピアノと打楽器のための協奏曲
クセナキスの音楽には概ね普通の意味での主題や動機のようなものがないので、聴き手はひたすら「音の出来事」と状態の推移に耳を傾けるしかない。そして、それで十分に面白いのだが、演奏者の動作を見ながら聴くとその面白さは格段に増す。このことを改めて強く実感させてくれたのが最初の演目、独奏チェロのための《ノモス・アルファ》だ。動と静、強と弱、密と粗の間を変幻自在に動き回る音には当然、それを生み出す動作が伴っているわけだが、これが音のありようを視覚化してくれる。ただし、それだけに演奏者がこの作品をどうとらえているかもよくわかるわけで、「大根役者」の手にかかるとそれこそ目も当てられないことになる。その点、この日の独奏者、丸山泰雄は見事に難曲を演じきっていた。
続く《リネア-アゴン》は3人の金管奏者の間で営まれる「音のゲーム」。勝敗が決まるに到る過程が聴き手にわからないのは(作品のあり方として)些か残念だが、それでも音と演奏者の動作が織りなすシュールかつコミカルな劇は楽しい。
《アウロラ》は12人の弦楽器奏者による作品で、出世作の《メタスタシス》以降ある時期までのクセナキスの音楽の特徴の1つだったグリッサンドが大活躍する。独奏曲よりも音の運動の自由度と多様性が増すので音だけではなく奏者の動作からも目が離せない。
この日最後のクセナキス作品《パリンプセスト》は4つの管楽器、弦楽五重奏、打楽器とピアノによる作品で、「グリッサンド」以降の作風、そしてピアノの名技が楽しめる佳曲だ。碇山典子のピアノは相変わらず切れ味がよく、このピアノについで活躍する打楽器やその他の楽員たちの妙技と相俟って、何とも刺激的。
演奏会後半はバルトークの《2台のピアノと打楽器のための協奏曲》。これは意表を突く選曲だが、実はよく考えられているもの――つまり(当日のプログラム・ノートで述べられていることだが)、1つにはバルトークがクセナキス音楽の源泉の1つであること、もう1つには前半最後のピアノと打楽器が活躍する《パリンプセスト》との繋がりのゆえである――で、実際に聴いてみて「なるほど!」と唸った。作品・演奏ともに見事で、クセナキスとは違った興奮をもたらしてくれた。
ともあれ、選曲・演奏ともに見事で聴き応えのある(さらにいえば、つかの間酷暑を吹き飛ばしてくれた)すばらしい演奏会だった。というわけで、演奏者と公演関係者の方々に心からお礼を申し上げたい。
2022年6月30日木曜日
ルトスワフスキのピアノ協奏曲に感動
私はルトスワフスキを作曲家として尊敬しているし、その作品の多くもまことに好ましく感じている。が、中には今ひとつピンとこないものもないではなかった。その1つがピアノ協奏曲(1987)である。以前これをクリスティアン・ジメルマン独奏の録音で聴き、「どうにも面白くないなあ」と思い、何度か再挑戦してみたものの、その印象を覆すには到らなかった。
ところが、先日、ナクソスの10枚組ボックスに収められた別の演奏者(アントニ・ヴィト指揮、ポーランド国立放送管弦楽団、ピアノはエヴァ・ポブウォツカ)による録音を聴いていたところ、まるで別物のように面白かったのである。たとえば、次にあげる動画の9’05”からを聴いてみていただきたい(https://www.youtube.com/watch?v=8a1RXnCJ3vU)。この何とも摩訶不思議な響きがするではないか。そして、ここに限らず、この演奏の随所にこうした「きらめき」が見られるとともに、作品全体実に素晴らしいものに聞こえたのである。実のところ、この録音とて、以前にはそこまで面白く感じなかったのだが、それはもしかしたら、「この曲はつまらない」という固定観念があったからかもしれない。が、今回、虚心坦懐に聴いてみると、とにかく面白い(ので、大学からスコアを借りてきて改めてじっくり聴き直してみたが、感動は深まるばかり)。
なるほどジメルマンは一流のピアニストだが、この手の音楽――はっきり言えば「現代音楽」――にはあまり向いていないようだ(この協奏曲が彼のために書かれたものだとはいえ……)。この曲は彼の手にかかると、まるで「モダンなバルトーク」のように聞こえる。もちろん、そうした面がこの作品にあるのは事実で、その意味ではジメルマンは見事に弾いているのだが、ルトスワフスキの音楽特有の音響世界をうまくとらえているとは言いがたい(上の動画と同じ箇所――8‘26”あたりから――を聴き比べてみられたい:https://www.youtube.com/watch?v=Wn-nAFzOmkU)。その点、ポブウォツカのピアノは見事である。
また、ジメルマンのバックの管弦楽は作曲家自身が指揮をしているのだが、上のヴィトの指揮したものの精妙さには及ばない。精確に言えば、ジメルマンの演奏(録音)ではピアノが目立ちすぎるのに対し、ヴィトが指揮する管弦楽はピアノとのバランスが巧みにとられており、全体の音響がいっそう効果的なものとなっている(ように私には聞こえる)。
もちろん、これは私個人の感じ方にすぎない。ジメルマンの演奏の方を好む人も当然いよう。が、それはともかく、今回、彼以外の演奏によって自分がルトスワフスキのピアノ協奏曲に対する見方を改めることができた(とともに、この作曲家への尊敬の念がいっそう深まった)のは確かなことである。
すると、同じ作曲家の第4交響曲でも同じく「見直し」ができるかもしれない。今度試してみよう。
2022年6月23日木曜日
武満徹のピアノ曲を聴く(3)
武満徹も時代の流行たるセリー技法にいちおう手を染めてはいる(ピアノ曲では《遮られない休息》第2曲)。また、セリーを用いないにしても何らかの独自の音の操作を行い、音楽を構成している(同じく、《ピアノ・ディスタンス》)。この点については『武満徹のピアノ音楽』での原塁の分析にはまことに説得力があり、教わるところが多かった。
が、それはそれとして、そうした分析が対象としていない事柄も私は気になる。それはすなわち、作品の具体的な「響き」であり、それを生み出す武満の「詩学」である。たとえば、上記の《ピアノ・ディスタンス》の場合、譜例2-③のような和音が2箇所、曲の重要なところに現れるが、これ(に限らず、他の多くの部分の響きも)は明らかに武満の音楽上の指向の結果であって、音列がどうとか、何らかのシステムに基づく音の配分がどうとかいった分析では説明できないものだ。
さて、件の和音の中にもやはり「三全音」が含まれていることに注目されたい。これは前回話題にした《遮られない休息》第1曲でも重要な役割を果たしていたものである。《ピアノ・ディスタンス》に続く《フォー・アウェイ》(1973)以降のピアノ曲ではその重みが格段に増すのだ。その《フォー・アウェイ》の最初の小節に次のようなくだりがある(譜例2-①)。これを原は「Cの属七の響きである」(194頁)だという。構成音を見れば、確かにそう言って間違いだというわけではない。が、やはり私は些か引っかかりを覚える。というのも、事例にあげた先のところでもC音は延ばされたままで、B♭音とE音のみが何度も打ち直されており、聞こえてくるのはこの2つの音が生み出す音程、すなわち減5度(三全音)だからだ。こういうと「C音が共鳴しているではないか」と反論されるかもしれない。なるほど。だが、このくだりではダンパー・ペダルを踏む指示がなされており、すると、他の共鳴音も混じってくるわけで、そうなるとやはり、何度も打たれる音が際立って聞こえることになるだろう。
すると、さらにこういわれるかもしれない。「Cの属七にB♭音とE音も含まれるわけだから、わざわざ和音の呼び方に異議を唱える必要はないではないか」と。そうだろうか? 「Cの属七」という言い方は「根音C」の存在を強く意識させずには置かないのに対して、「B♭音とE音の減5度」という言い方はもっとニュートラルである。そして、後者の方が武満の音楽の流動的な響きの特質とその核となる素材の性格をいっそうはっきり言い表しうるように私は思う。
同じことは第8小節に出てくる次のようなくだりについても言えよう(譜例譜例2-②)。これを原は「Dを根音とする属七」(194頁)だと説明するが、もし、本当に「Dを根音」としたい(つまり、そのように聴かせたい)のならば、そのすぐ上に半音を重ねたりはしないものだ(前回述べたことをもう一度繰り返すが、「同じ構成音による和音であっても、その配置と前後の脈絡によって、その響きの感じ、ひいてはその意味は少なからず違ってくる」)。ここでも重要なのは「三全音」の――この場合にはC音とF#音、そして、E♭音とA音が生む――響きであろう。そして、そうした「響き」は譜面(ふづら)に囚われすぎると、よく聞こえなくなったり、別なものに聞こえてしまう。
ところで、私は何も『武満徹のピアノ音楽』での分析をあげつらいたいわけではない、上でも述べたように、同書は教わるべきところのまことに多い著作である。のみならず、読者を「自分なりにその先を考える」ことへと誘ってくれるものでもある。それゆえ、私はその「誘い」に乗ってみたわけだ。
もちろん、そうはいっても、私がここで述べていることは考えのはじまりにすぎないものであり、これからもっときちんと深めていくべきものである。それゆえ、このあたりでおしゃべりはやめておくことにしよう。
が、最後にもう一言だけ。今回武満のピアノ曲をつらつらと眺め、聴いてみて感じたことだが、表面的な作風の変化を貫く「持続音」のようなものが彼の音楽にはあるようだ。そして、その1つの重要なトポスが「三全音」であるように思われる。そして、だとすれば、ある時期以降の武満作品で重要な役割を果たす「SEA(E♭音、E音、A音からなる)モチーフ」にしたところで、その種は初期にすでにまかれていたことになる。ともあれ、そうした武満の創作を貫く「持続音」とその多様な現れを楽譜の分析からだけではなく、作品を「聴く」ことや「弾く(歌う)」ことからもとらえようとすることが彼の「詩学」を解明する上では欠かせまい。そして、その探求については原を含む若き優れた学徒の今後に期待したいところだ(私も自分なりに考え続けてはみるが、それを「研究」に結実させたいとまでは思わない。もっと他にやりたいことがあるからだ。もっとも、いずれ武満についてのエッセイを書いてみたいという願望はある)。
(完)
