昨晩、食後にラジオをつけると、NHK-FMで「名手たちによるフォルテピアノと18世紀オーケストラによる演奏会」(2024年3月11日 東京オペラシティ コンサートホール)というのをやっていた。演目を確認するとモーツァルトの交響曲を「前座」とし、ショパンのピアノと管弦楽のための作品をメインに据えたものだった。まさにショパンの部が始まろうとしていたところなので、「ものは試し」ということで聴いてみたが実に面白かった。それにはショパンの作品もさることながら、フォルテピアノという楽器の魅力も大きく与っていた。
ショパン作品で演奏されたのは次の通り(括弧内は担当ピアニスト。管弦楽はすべて「18世紀オーケストラ」(指揮者なし)):
ポーランドの民謡の主題による幻想 作品13(川口成彦)
演奏会用ロンド「クラコヴィアク」作品14 (トマシュ・リッテル)
ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11 (ユリアンナ・アヴデーエワ)
はじめの2曲はなかなか演奏会では耳にできないが、もっと演奏されてもよい佳曲である。そして、演奏がまた実によい。私はこれらに普通のピアノによる録音で親しんでいたが、フォルテピアノの演奏で聴くと音楽の繊細な味わいがいっそう強く感じられた(同じことは管弦楽についても言える)。
ところが、最後のアヴデーエワの演奏には些か違和感を覚えた。つまり、なるほど立派な演奏なのだが、どこか窮屈な感じがぬぐえないのだ。それはいわば、日頃着物を身につける習慣のない人がそれを着たときの挙措動作に看て取られるようなものだと言えようか。つまり、フォルテピアノという楽器がそこでは演奏への制約のように感じられたのである。この楽器ならではの繊細な表現を十分に引き出せず、「力技」で何とか乗り切っているような感じなのだ。先立つ2曲の演奏ではそのようなことはなかった。ということはおそらく、アヴデーエワがまだフォルテピアノの扱いに習熟していないからではなかろうか(もっとも、これはあくまでも私個人の聞こえ方にすぎない。全く逆の評価を下している人もいるのだから:https://spice.eplus.jp/articles/327054)。
それはともかく、改めてフォルテピアノという楽器の特質、モダン・ピアノとの違いをとても面白く感じた。ところで、ショパンが現代のピアノとピアニストによる演奏を聴いたらどんな感想を持つだろうか(もしかしたら彼は憤慨するかもしれないが、だからといって現代の音楽実践が誤っているということなのではない)。