たまたま目にしたテレビ・ドラマ(ただし、私はPCで見ている)の再放送が実に面白い。それは『日本人の知らない日本語』(読売テレビ、2009年。原作は同題のコミック。エッセイだとか。これもそのうちに是非とも読んでみたい)。舞台は在留外国人向けの日本語学校で、「日本語のあいまいさ」がさまざまな角度から話題にされており、それが笑いをもたらすとともに、母語への反省を促してくれる。普段は気にならないのだが、こうしてドラマで見てみると、改めて日本語という言語の表現のあいまいさには驚かされる(昔言われたような「日本語は欧米諸語に比べて非論理的だ」ということはないにしても、表現にあいまいさがあるのは否定できまい)。
そのドラマのある回では、そうした曖昧さ(言い換えれば、多種多様な婉曲表現)が日本の「和」の精神と結びつけられていたが、なるほど、そうかもしれない。だが、それが本当だとすれば、この国が現在の苦境を脱することはかなり難しそうだ。というのも、日本語を話している限りは「和」とは縁が切れそうにもなく、その「和」は批判を封じ込め、根本的なイノヴェーションを阻むものだからだ。この国で大変革が起こるのが得てして外圧によるものだというのも、こうした「和」の精神とそれを支える日本語の力を日本人が自力ではどうにもできないからだろうか。もちろん、日本語のあいまいな表現や「和」にもいろいろ美点があるのは重々承知しているが、今はそれに批判的な眼差しを向ける必要があるように思われる。
ところで、日本語のあいまいさと「和」の精神は日本語話者による西洋音楽の作曲や演奏にも少なからず良くも悪くも影響を及ぼしているのではなかろうか。この点は日本語の発音の問題とともに探っていみれば面白いことになりそうだ。