2025年4月4日金曜日

日本語のあいまいさ

  たまたま目にしたテレビ・ドラマ(ただし、私はPCで見ている)の再放送が実に面白い。それは『日本人の知らない日本語』(読売テレビ、2009年。原作は同題のコミック。エッセイだとか。これもそのうちに是非とも読んでみたい)。舞台は在留外国人向けの日本語学校で、「日本語のあいまいさ」がさまざまな角度から話題にされており、それが笑いをもたらすとともに、母語への反省を促してくれる。普段は気にならないのだが、こうしてドラマで見てみると、改めて日本語という言語の表現のあいまいさには驚かされる(昔言われたような「日本語は欧米諸語に比べて非論理的だ」ということはないにしても、表現にあいまいさがあるのは否定できまい)。

 そのドラマのある回では、そうした曖昧さ(言い換えれば、多種多様な婉曲表現)が日本の「和」の精神と結びつけられていたが、なるほど、そうかもしれない。だが、それが本当だとすれば、この国が現在の苦境を脱することはかなり難しそうだ。というのも、日本語を話している限りは「和」とは縁が切れそうにもなく、その「和」は批判を封じ込め、根本的なイノヴェーションを阻むものだからだ。この国で大変革が起こるのが得てして外圧によるものだというのも、こうした「和」の精神とそれを支える日本語の力を日本人が自力ではどうにもできないからだろうか。もちろん、日本語のあいまいな表現や「和」にもいろいろ美点があるのは重々承知しているが、今はそれに批判的な眼差しを向ける必要があるように思われる。

 ところで、日本語のあいまいさと「和」の精神は日本語話者による西洋音楽の作曲や演奏にも少なからず良くも悪くも影響を及ぼしているのではなかろうか。この点は日本語の発音の問題とともに探っていみれば面白いことになりそうだ。

2025年4月1日火曜日

ブゾーニ没後2世紀目の始まりの年

  今日41日はフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)の誕生日。昨年は没後100年だったので、今年は101年目。没後2世紀目の始まりの年だというわけだ(亡くなった日付けを起点をすべきだが、今日誕生日なのでこのことを話題にした)。没後しばらくしてほぼ「忘れられた」作曲家になってしまったブゾーニの評価は1980年代から少しずつ回復し始めていったものの、本格的な受容はこれからだろう。

 日本でも『音楽美学の新しい草案』の新訳や『音楽の一元性について』の訳がこれから出されることだろう。が、それだけではなく「バッハ=ブゾーニ版」(とりわけ《平均律クラヴィーア曲集》)の翻訳も望まれる。そこでは「作曲家ブゾーニ」と「演奏家ブゾーニ」の絶妙の結びつきが見られるからだ(ちなみに、《平均律》第1巻ではピアノ演奏技法、そして、第2巻は作曲技法が深く探求されている)。

 

 今日NHK-FMを聴いていると、大バッハのモテット《イエスはわが喜び》が取り上げられていた。これは大好きな曲なのでうれしい。演奏はベルリンRIAS室内合唱団。アンコールは《おぼろ月夜》だったが、「ドイツ語的」日本語歌唱による美しい歌を楽しめた。

2025年3月30日日曜日

今日のNHK-FM「現代の音楽」は

  NHK-FM「現代の音楽」は2024年度に亡くなった人特集だった(ところで、私はこの番組のオープニング曲――スティーヴ・ライヒのもの――が大嫌いで、別なものに替えて欲しいと思っている)。そのほとんどが長命で仕事を十分にやり尽くした人たちだったが、1人だけ(今日の平均余命からすれば)若い人がいた。それは作曲家・ピアニストの藤井一興。氏は19551月生まれで今年の1月に亡くなったというから、その時点で70歳だったことになる。まだまだやり残した仕事があったに違いない。私も一度は氏の実演を聴いてみたかった。

 

 ここ12日、持ち物の整理整頓をしていた。局所的に混沌状態を呈していたので、すっきりさせたかったのである。自分ももはや若くはなく、長期ではなく短期で物事の計画を立てて処理すべき年齢だ(来年で60)。急に長年の生活様式を変えるのは難しいにしても、ここ数年のうちにいろいろな意味でいずれ来るはずの時に備えておかねばなるまい。

 

(なお、当分の間、このブログの更新を以前のように散発的なものに戻します)

2025年3月29日土曜日

シューベルトとクルターグ――現実と非現実の交錯――

  昨晩、ラジオをつけると耳に飛び込んできたのはシューベルトの舞曲。なかなか感じの良い演奏だったので聴き続けると、俄に調子が変わり、現代音楽になった。だが、しばらくすると再びシューベルトに戻り、さらにまたもや現代音楽に。これはなかなか面白い趣向だ。

そこで番組表を調べてみると、演奏はピエール=ロラン・エマールで、「現代音楽」はクルターグ・ジェルジ(1926-。今年99歳!)のものだった。エマールが選んだのはシューベルトの舞曲と相性のよさそうな小曲であり、両者が交互に奏でられると、一方が他方への註釈のように聞こえてくる。そして、いずれの作曲家の音楽でも現実と非現実が交錯しているかのような何とも不思議な感覚がもたらされた。いや、この選曲は実にすばらしい。

エマールというピアニストは一流ではあるが、個人的にはあまり好みではなかった(ただし、嫌いだというわけでもない)。が、このときの演奏には大いに心惹かれた。これをその場でじかに聴いた人は至福のひとときを味わったことだろう(なお、このリサイタルの録音はNHKの聴き逃し配信で1週間聴けるので、是非、お試しあれ。私も最初からきちんと聴き直すつもりだ)

ところで、調べてみると、エマールはシューベルトの舞曲だけでCD1枚つくっていたが、いかに演奏がすばらしくとも、舞曲ばかりをずっと聴き続けるのはさすがに辛い。が、彼がこの演奏会のようにクルターグ作品を合間に挟むかたちで録音してくれれば、私は迷うことなくそのCDを購いたい。

2025年3月28日金曜日

吹奏楽たえてコンペのなかりせば夏の心はのどけからまし?

 この記事には驚いた:https://news.yahoo.co.jp/articles/77833261c518023fcd3734a7eeb576f6694d9d0eが、こんなことがあっても不思議はないとも思う。この国では分野を問わずこうしたことが起こってしまうのは、やはり国民性というものなのだろうか。とはいえ、それをそのまま放置しておいてよいわけがない。

 吹奏楽の場合、やはりコンクールの存在がこうした悲劇を招きよせているのだろう。そこで行われている音楽の中身についての評価はさておき、音楽家を目指しているわけでもない生徒がコンクールのために他の多くの事柄を犠牲にするようなことがあってよいわけがない。それゆえ、私などは「吹奏楽たえてコンペのなかりせば夏の心はのどけからまし」(「コンクール」では字数が多すぎるので類義語の「コンペ」とした。ちなみに、「夏」はコンクールの開催時期)ではないかと思ってしまう。コンクールなどなくても音楽は楽しめる、いや、むしろない方が楽しめるはずだから。そして、その方が教員、生徒ともにハッピーになれるのではなかろうか。

2025年3月27日木曜日

異次元の音楽

  米国のピアニスト、ジェレミー・デンク(1970-)が奏でるリゲティとベートーヴェンのCDを久しぶりに聴く(Nonsuchレィベル。もはや生産中止)。これは前者のエチュード2巻の間に後者の第32番のソナタを挟んだもので、いずれもなかなかに素敵な演奏だ。

 そのベートーヴェンを聴きながら、第2楽章(https://www.youtube.com/watch?v=hViZ5mmczuU)について、改めて何とも不思議な音楽だと感じた。とりわけ、第74小節以降(上記のリンク先で8’25”から)は作曲当時の聴き手にとってこれは異次元の音楽だったろうし、現在の聴き手にとってさえそうだろう。ベートーヴェンの音楽といえば、何よりもその「構築性」が高く評価されているが、この楽章の魅力はそれだけでは到底とらえられまい。

 ベートーヴェンがこのような音楽を生み出し得たのは、1つには難聴が与っているかもしれない。すなわち、耳がよく聞こえないからこそ、頭の中で鳴り響く音は現実の諸々の事情に縛られることなく自由さを増し、かような不思議な音の世界が形成され得たのではなかろうか。

 ともあれ、この摩訶不思議な音楽を聴くたびに、自分も現実世界を離脱させられ、異次元世界に引き込まれてしまう。もちろん、それはよい演奏で聴くときに限られるが、デンクの演奏はまさにそうした演奏の1つだ。

2025年3月26日水曜日

公共の場における音の取扱い

  このところ世の一部を賑わしている「ストリート・ピアノ」問題だが、今回の件だけで終わらせず、公共の場における音の取扱いについて議論がもっと広がり、深まればよいと思う。商業施設で垂れ流されるBGM、アナウンス、そして、もちろん選挙カーによる候補者名の連呼など、この国の音環境については考えてみるべき問題は多い。

 小・中学校の「音楽科」でもこうした問題を扱うべきだろう。その際、何か1つの答えを押しつけるのではなく、身近なところにある問題の所在を確認し、児童・生徒がそれについて考え、議論できる機会であることが肝要だ。そして、それはたとえばベートーヴェンの「運命」交響曲や伝統邦楽を表面的にのみ学ばせることよりも格段に重要なことだと私は思う。