2025年12月14日日曜日

残念

   ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-)の《Post scriptum》(1990)(https://www.youtube.com/watch?v=92KkpN-o-TI&list=RD92KkpN-o-TI&start_radio=1)を初めて聴いたとき、「これはすばらしい」と思った。そして、今でもそれは変わらない。一歩誤れば甘美なムード音楽になりかねないぎりぎりのところで踏みとどまり、何か切実なものを必死に伝えようとしているこの作品には感動を覚えずにはいられない。

が、そんな作品を産み出した作曲家のその後には些か唖然とさせられる。たとえば、次のものなどどうだろう:https://www.youtube.com/watch?v=bhvh0oNE0Ws&list=RDbhvh0oNE0Ws&start_radio=1。そこにはかつての緊張はなく、あるのは甘さのみ。しかも、楽譜の指示は異様に細かく、弾き手を縛り付けること夥しい。これでは20世紀前衛音楽の譜面と本質的に同じではないか。もし、これがもっと普通に記譜されていたのならば、「まあ、こんな音楽があっても悪くはないかなあ」と思うところだが、これではどうしようもない。では、別の作品ではどうだろうか:https://www.youtube.com/watch?v=HbW-U0krHk0&list=RDHbW-U0krHk0&start_radio=1。私にはこれも大差ないようにしか見えない(し、聞こえない)。

 少し前にたまたま大学図書館で最初にリンク先をあげた作品の楽譜が目に留まったので、それを機会にシルヴェストロフの作品を見(聴き)なおしてみたのだが、かように残念な結果に終わった(もちろん、こうした彼の音楽を好む人はいるだろうし、それはそれでけっこうなことだとは思う)。

2025年12月13日土曜日

つかの間の時間旅行

 昔々の楽器は、往時の音楽のありようを垣間見させてくれるタイムマシンのようなものだと言えようか。

今日は19世紀半ばや20世紀初頭のピアノに触れる機会を得て、つかの間の時間旅行を楽しむことができた(この手の楽器に触れるのは随分久しぶりのことである)。

もし、ピアノが現在のようなものにはならず、当時のままだったとすれば、音楽のありようも随分違ったものになっていただろうか?――これは無益な問いかもしれないが、ついそのようなSF的妄想がふと浮かぶほどに、往時のピアノはやはり魅力的だった(もちろん、現在のピアノにもそれとは違った魅力があるが)。

この貴重な機会を与えてくださったのが「アトリエ ピアノピア」(https://www.atelier-pianopia.com/) の小川瞳さんとNekota Hinazo-さんである(どうもありがとうございました)。この方たちの仕事ぶりを拝見すると、楽器の技術者には確かな職人芸と知識に加えてある種の想像力と創造力が必要なことがよくわかる。

2025年12月11日木曜日

モーツァルトのピアノ・ソナタで気になっていた箇所

  モーツァルトのピアノ・ソナタ第17番変ロ長調K570の第1楽章で昔からずっと気になっていた箇所がある。というのも、楽譜によって音が異なるからだ。

まず、次にあげる音源の3’03”頃の部分、動画中の楽譜でいえば2段目の第4小節、右手第3拍目からのB-A-Gという動き(以下、「①」と呼ぶ)に注目されたい(https://www.youtube.com/watch?v=6wiQE4LS9No&list=RD6wiQE4LS9No&start_radio=1)。まあ、ごく自然な順次進行であり、他声部とも協和している。『新モーツァルト全集』を含む多くの版ではこのように記されており、私が少年時代にこの曲を練習した楽譜も同様だった。

 ところが、これとは異なる音が記された版もある。日本でも広く用いられている「ウィーン原典版」、あるいはアルフレート・カゼッラが編集したRicordi版がそうなのだが、そこでは件の①中のBAとなっている、つまり、同音連打を含むA-A-Gという動き(以下、「」と呼ぶ)になっているのだ。今日、そのように弾いているものを探したところ、内田光子の演奏がそうだった(https://www.youtube.com/watch?v=-335tMRWRwM&list=RD-335tMRWRwM&start_radio=12’39”あたりを聴かれたい)。以前、この件を楽譜ではじめて見たとき、正直なところ驚いた。どこか不自然に感じられたからだ。そして、その感じはごく最近まで残り続けていたのである。

 ところが、あるとき、②の意味がわかったような気がした。つまり、これは続く小節にあるB- B-Aという動きに対応するものであり、いわば「こだま」のような面白い効果をもたらしているのだ、と(そのことは先にあげた内田の演奏を聴けばいくらかおわかりいただけよう「いくらか」というのは、この「こだま」をもう少しはっきりさせた方がよいと思われるからだ)。

 ちなみに、①は初版譜、②は欠落部分のある自筆譜に由来するものである(先にあげた箇所は実はその「欠落部分」に含まれるのだが、それに対応する再現部に箇所は自筆譜があるので、それに基づいて復元されている)。が、そのどちらか一方が正しくて他方が誤っているとする決め手はないようなので、演奏者が自分で選択するしかあるまい。そして、以前の自分なら迷っただろうが、今は躊躇することなく②を採りたい(が、だからといって①による演奏を拒みたくはない)。

2025年12月6日土曜日

兵(つわもの)どもが夢の跡

  川崎弘二『NHKの電子音楽』を読了。とにかくすばらしい本だった。大長編であり図書館の返却期限もあるので今回はざっと目を通すに留まったが、いずれきちんと再読したい(そのためには改めて図書館から借りてこなければならないが……)。

 それはそれとして、同書で描かれた「一九二五年の放送開始から約七十五年にわたって、放送局を舞台に実践されてきた『電子音楽』というメディア・パフォーマンス」(同書、1282頁)の栄枯盛衰の物語を読み終えてすぐに想起されたのが「兵(つわもの)どもが夢の跡」という名句中の文言だ。それとともに、1980年代に「NHKの電子音楽」をリアルタイムで聴き、過去のいろいろな作品にも触れた者として、さまざまな想いが胸に去来する。

2025年12月2日火曜日

備忘録

  先日1130日に、とても面白い体験をした。大阪の国立国際美術館で催されたワークショップでのことである(参加者は事前申込者の中から抽選で選ばれたのだが、私は運良くその中に入ることができた)。それは「現代美術の香りをかぐ」と題されたもので、事前に告知された案内は次のとおり(https://www.nmao.go.jp/events/event/miruplus_20251130/):

 

「見る」だけでなく、身体のさまざまな感覚を使って現代美術を楽しむプログラム「みる+(プラス)」。今回は、香りのワークショップを展開する岩﨑陽子氏と松本泰章氏を招き、「嗅覚」に焦点を当てて開催します。プログラムでは、開催中の「コレクション2」の展示作品を鑑賞し、その体験からイメージしたことがらを、香りで表現します。作品の印象やイメージした香りについておしゃべりをしながら日曜午後のひと時をお楽しみください。

 

これを見て、「なかなか面白そうだな」と期待していたのだが、それを遙かに超える面白さだった。

 具体的な内容と感想を以下に述べるべきなのだが、今はあれこれ忙しくてその心の余裕がない。が、この件についてはいずれ機会を改め、あれこれ考えたことを加味して書いてみたい(今回は「備忘録」として、このようなものがあったということだけを記した)。

2025年11月29日土曜日

愛犬セラフィンの絵

   数日前に59歳の誕生日を迎えた。ということは、来年には60、還暦である。ああ恐ろしや。まあ、人には常に「今」しかないのだから、年齢など気にせず「今を生きる」ことが大切ではあるが。

さて、今年は娘からとてもうれしい贈り物をもらった。それは今は亡き愛犬セラフィン(2002-14。通称「ふいちゃん」 )を描いたものだ。近年、娘は趣味で絵画教室に通っており、そこで描いた水彩画の1つがこれである。これを見ると在りし日の愛犬のことがまざまざと思い出される。

娘に深く感謝。この絵を眺めていたら、ぴったりの音楽が見つかった。それはエドゥアール・シラス(1827-1909) の《無言歌》第1集の第1曲。だが、残念ながらその音源はない(昔々、金澤攝さんがカセットテープ用に録音してはいるのだが……)ので、「次点」の曲として、同じ作曲家の《マルヴィーナ》をあげておこう(https://www.youtube.com/watch?v=cgP0PJ749ww)。

 

 誕生日といえば、私が生まれた年月日と全く同じ日に完成したのが野田暉行(1940-2022)の交響曲第1番だ。そこで、今年もこの曲を誕生日に聴き返してみた。CDで出ている演奏が私はあまり好きではなかったのだが、幸いにももっとよい演奏、すなわち、初演時の録音をインターネットで聴くことができる(https://www.youtube.com/watch?v=XLxci2HFo7Y&list=OLAK5uy_kX4Li_EvvGtv2lxii862f1R_b1QpfgOpo)。こちらはよい演奏であり、作品の魅力が十分に伝わってくる。

 


2025年11月27日木曜日

やはりすごい本だった

  川崎弘二『NHKの電子音楽』(フィルムアート社、2025年:https://www.filmart.co.jp/pickup/33386/)を大学図書館から借りてきて読み進めているが、何ともすごい本である。書名には「NHKの」とあるが、周辺情報もたっぷり収められているので、『日本の電子音楽史』としてもよいほどのものだ。

とにかく、「よくもまあ、こんなことまで調べてあるなあ」と驚かされることの連続である。作品制作に関わる事柄はもちろんのこと、その作品が発表当時にどう受け取られたかについても実にこと細かに述べられているのだ。たとえば、諸井誠と黛敏郎の共作《7のヴァリエーション》をめぐる諸井と別宮貞雄などとの論争については、両者の言い分をきちんと押さえ、著者自身の冷静な考察がなされている。のみならず、諸井と別宮の師である池内友次郎が2人を呼び出して「あなたたち、今すぐここで死になさい!」(前掲書、430頁)と説教したことまで調べており、それに対しても「師である池内はそのような論争が不毛であることを諭したかったのかもしれない」(同)とコメントをしているのだ。万事がこの調子であり、緻密な調査と冷静な考察、そして、随所ににじみ出ている「電子音楽への愛」に私は一読者として深い感銘を受けずにはいられない(同書があまりに高価なので購えないのが残念だが、それでもこのような名著が読めるのは本当にありがたいことである)。とともに、同書で描かれている「現代音楽」が活気を持ち得た時代に些かの羨望の念を抱いてしまう。