2024年12月18日水曜日

心の琴線に触れる「無言歌」

  私にとってメンデルスゾーンは今ひとつ馴染みがたい作曲家だった。なるほど、ヴァイオリン協奏曲やいくつかの交響曲、そして、弦楽八重奏曲や《夏至の夜の夢》などにはただただ感服する。が、そのことと自分にとっての「近しさ」は別物だ。だから、それらの作品も聴くのはごく稀でしかなかった(ただし、そのときには大いに楽しんでいる)。

ところが、このところ必要があってメンデルスゾーンのピアノ独奏曲をあれこれ聴いていると、心の琴線に強く触れるものがあった。それは一連の「無言歌」である。「古典主義」的ロマン派作曲家メンデルスゾーンのピアノ曲の中でもっともロマン派に近いのがこれであろうが、とにかく、素直に「ああ、いいなあ」と思いつつ聴けるのだ。

メンデルスゾーンはピアノの名手であったらしいが、それにもかかわらず、ピアノ曲には大曲がほとんどないし、とくにこだわりのある曲種もあまりなかったようだ。その中で「無言歌」は出版されたものとしては8集、48曲も書いているのだから、よほど愛着があったのだろう(彼は大金持ちの家に生まれており、楽譜の売れ行きを気にする必要もなかったので、作品の「需要」に応じたわけでもなかろう)。

 さて、現代の作曲家が「無言歌」を書くならば、どのようなものになるのだろうか?

2024年12月17日火曜日

メモ(135)

  人が物心ついたときには、すでに何らかの言語をある程度は身につけている。このことは音楽についても言えよう(音楽を「言語」に喩えるのは、この意味では適切であろう)。自分が生まれ育った環境に属する音楽の様式を、いつの間にか人は大なり小なり自然に身につけてしまう。そして、その様式を通して既存の音楽、のみならず、その他の物音をも聴いてしまう(メシアンにとっての鳥の鳴き声のように)。

すると、無垢の音、人によっていかなる意味づけもされていない音などというものは存在しえないことになる。人にできるのは、あくまでも「初期設定」に上書きし、自己の経験を更新することだけである。「音楽が生まれた原初状態」なるものをいくら想定したところで、初期設定が取り除かれるわけではない。

にもかかわらず、そのような「ファンタジー」が語られるとすれば、おそらく、既存の音楽文化に対する閉塞感や倦怠感のなせるわざだろう。だとすれば、そうしたファンタジーにもそれなりの意味はあろう。結果としてそこから新たに有意義な音楽実践が生まれるのならば。

だが、そのファンタジーはあくまでも実践の結果から正当化されるものであって、それを絶対の真理のようなものとみなすとおかしなことになろう。

 

2024年12月16日月曜日

AIによる作曲はどうなるか?

  現在、AIがさまざまな領域で用いられているが、その波は作曲にも及んでいる。が、うかつにも私はそのことが全く眼中に入っていなかった。今日、森本恭正さんからいただいたメイルでAIによる作曲のことに触れられており、ようやく気づいた次第(全く恥ずかしい)

ともあれ、インターネットで検索してみると、確かに関連する記事がいくらでも出てくる。そして、そうやってつくられたものをいくつか聴いてみると、いかにももっともらしい曲になっていたから驚いた。

おそらく、ちょっとした用途での「使い捨て」レヴェルの曲ならば現在のAIでもつくれるだろうし、そうした音楽で商売をしている作曲家にとっては死活問題であろう。が、もっと高水準の音楽創作までAIがこなせるようになるだろうか? これは注視すべき問題である。そうかんたんにはものにはならないと予想されるが、さりとて全く不可能だと断言もできない。さて、どうなることやら(なお、ある種の(「すべての」ではない!)「現代音楽」作品ならば、今のAIでも十分もっともらしいものがつくれるような気がする)。

作曲家がAIに対抗するには、生身の人間でないとできないことをやるしかあるまい。そして、その1つは、おそらく、「作曲家の自作自演」であろう。20世紀における芸術音楽の「作曲」と「演奏」の分離は双方に悪しき影響をもたらしてきたが、その回復はこのAI問題においても大きな意味を持ちうるのではないだろうか。

2024年12月15日日曜日

メモ(134)

  人には究極の真理など知りようがない。が、それを努力目標とすることはできるし、そうであってこそ「よりよい」生がその都度実現されうる。

 人が手にしうるのは「暫定的な=改訂されうる」真理であり、それは「有用性」と言い換えられよう。

 真理が「暫定的な」ものであればこそ、異なる信仰やイデオロギーが並存しうる。が、それにはあくまでも「暫定性」の自覚が欠かせない。「絶対(究極)」の真理を特定の人(人々)や集団が独占しようとすることは許されない。人にはそんなことは無理なのだ。そうした自覚があれば、世の宗教戦争やイデオロギー闘争はなくなりはしないにしても、随分減るだろうに。

2024年12月14日土曜日

『ソナチネ アルバム』もまた面白い

  今日は恩師、松本清先生から『ソナチネ アルバム』(https://sheetmusic.jp.yamaha.com/products/4947817251927?srsltid=AfmBOoosdWjpcflG2cHy6BWVTPNOvJ61po2JPxfYeUeikbVT6ELn4AaX)をお送りいただいた。このアルバムはピアノ初学者が手がける2巻の同題の曲集から取捨選択されたもので、先生が校訂・解説を担当している。楽譜本文中には形式分析や演奏法に関する有益な書き込みもある。ともあれ、まことにありがたいことだ。

 そこに収められた数々の「ソナチネ」にお目にかかるのは随分久しぶりのことだ。が、いくつかの曲を弾いてみると実に面白い。『チェルニー30番』を話題にしたときと同様なことが、今回も起こったのである。すなわち、少年時代には見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるのだ。それは以前よりも読譜力が向上したことと、作品の「音楽的背景」がわかるようになったことによるものだろう。それにしても、あの「ソナチネ」がこんなにも面白いとは……。ちょっとした音の動きや和声の変化の中に数々のドラマがあり、弾いていたわくわくするのだ(これはやはり、聴くよりも弾くことで味わえるものだろう)。

 まあ、才能のある子どもならばすぐにわかったことを還暦に近い大人が今更ながらに面白がっているわけで、つくづく己の非才に呆れるばかり。だが、遅ればせながらも、かつてあまり楽しめなかったものを楽しめるようになったというのは幸せなことだとも思う。というわけで、この曲集をとうの昔に卒業したと思っている方々にも再見をお勧めしたい(楽譜は上記のものを!)。

2024年12月13日金曜日

珍しくも学校教育の話題を

  次の記事を読み(https://news.yahoo.co.jp/articles/e86868cf0eda32d5081fc43e7aa5f476543b0e28

、ふと、昔のことを思い出す。今から30年以上も前のことだが、私は1年ずつ2回、中学校の臨任講師をしたことがあり、当然のように部活も担当させられた。が、2つの学校では部活への教員の関わりが大きく異なっていたのだ。

 1つめの学校は田舎にあり、良くも悪くも「昔風」だった。そこでは教員は勤務時間後も生徒の部活を最後まで見届けることが義務づけられており、場合によっては休日(サービス残業)出勤もあった(当時はまだ週休1日であり、たまたま校務分掌による休日出勤もあったりして、1か月全く休みがなかったときも。ただし、いわゆる「夏休み」がまだ健在だったので、その埋め合わせはなされたと思っている)。他方、2つめの学校は県庁所在地にあり、部活は「ボランティア」という位置づけだった。それゆえ、部活に積極的に関わるのも、関わりは必要最小限度に抑えて日々の活動を生徒に任せきりにするのも、教員が自由に選択できたのである(そのおかげで、私は早々に帰宅して大学院の受験勉強に励むことができた)。

 だが、いずれにせよ、学校に部活があることに対しては何ら疑問を抱かなかった。部活があるおかげで学校に行く意義を見出す生徒もいるはずだと思っていたのである。しかし、今は違う。学校から部活は切り離すべきだと確信している。さもなくば、ただでさえ日々の業務で忙しい学校の教員の負担があまりに大きくなりすぎるし、そのことは教育の質を下げることにも繋がるからだ。

なるほど、部活が学校教育の中でしかるべき意義を持っていた時代もあったろう。そして、今でもそうした場はあるのかもしれない。が、いろいろな問題を曖昧にしたままで善意の(あるいは不本意に関わらざるを得ない)教員の犠牲の上に部活が営まれているのだとすれば(まあ、中には部活の方が好きな教員もいるようだ――事実、昔のことだが、「吹奏楽の部活指導をしたいから教員になった」人がいるという話を耳にしたことがある――が、そうした人は授業やその他の面でも生徒への対応に力を傾注すべきだ)、一度制度設計をきちんとし直すべきであり、それができないのならば(たぶん、無理だろうから)、部活は完全に外注にすべきだろう。

2024年12月12日木曜日

『チェルニー30番』も面白い

  先週、『チェルニー40番』を話題にしたが、その後、『30番』も見直してみた。すると、やはり面白い。それはたんなる練習曲集ではなく、そこには「音楽」があるからだ。

 そこで、『30番』に遡って練習してみようと思い、国内で出版されているあれこれの版を見比べてみる。その結果、音楽之友社の新版(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=410430)が解説の面で優れていたので、これを用いることにした。

 今、この曲集の楽譜を改めて見直してみると、少年時代に見えた「風景」とはおよそ異なるものが眼前にある。「いったい、当時の自分は何を見ていたのだろうか?」と恥ずかしくなるが、だからこそ、現在、遅ればせながらこの曲集の音楽と向き合い、(当時には絶対できなかったことだが)楽しんでいる。

 もっとも、30番』では出てくる調性が限られているし、和声も極めてシンプルなので、あれこれ「いじって」みたい衝動に駆られる。まあ、それも1つの楽しみ方であろうか。