2025年7月21日月曜日

メモ(148)

  いわゆる「高級文化」には銭がかかる(言うまでもないが、そのこととその具体的な良し悪しは全くの別問題である。「高級」であることは内容の価値を保証するものではない)。「クラシック音楽」もまた然り。その水準を維持するのみならず、それ自体の存続のためには「商売」を度外視したところでお金をかけざるをえない。そこをケチると、まず間違いなく、あっという間に衰退してしまうことだろう。

 だが、それはそれとして、クラシック音楽のすべてがそのようなものであるわけではないし、また、そうあるべきではないとも思う。お金のかかる「一流」(という言い方もあまり好きではないが)以外のところでも、多種多様な豊かな音楽活動が営まれてこそ、本当の意味でクラシック音楽が1つの文化としてこの国で存在意義を持つのだと言えよう。

 「一流」と「その他」はいわば車の両輪である。そのどちらが欠けても物事はうまく進まない。が、現在の私がいっそう強い関心を持つのは後者である。それはおそらく、1人の愛好家としての(客観的に見れば何ほどのものでもないが、自分にとってはかけがえのない)音楽生活に立脚して物事を考え、感じているからだろう。手持ちの材料や現在置かれている状況の中で人がいかに豊かな音楽生活を送ることができ、さらには、それが人生をどう豊かにできるのか――これこそが私にとっての切実な問題である。