たとえば桑田佳祐などが日本語の歌詞を部分的にまるで米語のように発音していること(個人的にはそうした歌い方は好きではないが……)を「日本語の破壊」だなどと非難するわけにはいかない。西洋芸術音楽の「ベル・カントによる日本歌曲」のことを思えば。いずれにせよ、「創造」に「破壊」はつきものである(が、「ベル・カントによる日本歌曲」については、何かができあがるまでの「過渡期」の流儀であるように私には思われる)。
今日、ある「現代音楽」の新作を試しに聴いてみたが、苦痛のあまり、途中で止めてしまった。 そうした音楽が「斯界」では評価されるのだとすれば、自分はそこに無縁でもかまわないと思った。もちろん、西洋芸術音楽の「現代の音楽」はそうした類のものにつきるわけではないだろうから、これからも懲りずにあれこれ聴き続けたい。