先日、ある若手ピアニストの動画を観はじめたところ、動作や表情があまりに見苦しいので嫌になって途中で止めてしまった。「見苦しい」というのは、それが音楽の鳴り響きに合っていなかったからだ。身体の動きは音楽以上に大げさだし、百面相も観ちゃいられない。なぜ、そのようなことになるのだろうか。ピアノを歌わせることにかけては他の追随を許さないホロヴィッツはほとんど微動だにせず、あの濃やかな音楽を奏でてみせるというのに。
もちろん、「演奏中の大きな動作が悪い」というのではない。少し前に話題にしたコパチンスカヤの演奏では、その多種多様な動作は音楽と見事にマッチしており、相乗効果をあげていたわけで、要はそれが演奏全体の中で意味を持っているかどうかが問題なのである。そして、この意味で件の若手ピアニストの演奏にはそれが感じられなかった。のみならず、鳴り響き自体にも魅了されなかった(たぶん、音だけを聴いていたとしても、同じふうに感じたのではないだろうか)。残念。
シャルル・ケクランは名著『和声の変遷』で近代の多種多様な和声の語彙を実作品を例にカタログ的に示してみせたが、同様なことをもっと対象とする作品の範囲をさらに後の時代にまで広げて――ただし、あくまでも広い意味での「調性」を持つ、つまり、中心音を持つ作品に限って――試みたら面白かろう。