2025年8月30日土曜日

西洋音楽のホールで文楽を

  今日は伏さしぶりに演奏会へ。それは『片岡リサ プロデュース 新・日本の響き和のいずみ  第3回』である(https://www.izumihall.jp/schedule/20250830)。いや、実に面白かった。

 

演目は(上のリンク先にもあるが)次の通り:

 

オープニング演奏 大阪府立東住吉高等学校 芸能文化科3年生による演奏

長唄「越後獅子」

◆和楽器の現代作品、そして未来へ

楽器紹介コーナー(長唄・地歌・義太夫)

玉岡検校:鶴の声

山根明季子:マザーズ(委嘱新作)

 

◆古典作品から和楽器の歴史と魅力を知る

「壇浦兜軍記  阿古屋琴責の段」より

 

冒頭の「越後獅子」では20挺近い三味線の響きはしばしば歌声を覆ってしまいはしたもののその若さ溢れるパフォーマンスには得も言われぬすがすがしさがあり、すばらしい幕開けだった。

続く楽器紹介コーナーは既知の事柄のおさらいではあったが、楽しく聴かせてもらった。とともに、やはり3種の三味線の中では太棹、すなわち文楽で用いられているものが自分にはもっとも好ましく感じられることを再確認した次第。

私が今日の演奏会に出かけた動機の1つは、山根明季子の新作が聴けるということだった。この人の作品はとにかく「聴かせる」力を持っており、今回もそうだった。箏と太棹三味線、それに録音されたボーカロイドの音声を用いた作品だったが、音楽のつくりはまことにシンプルで、ボーカロイドが歌う主題(土台)となる旋律の反復に2つの楽器が絡む、というものだ。その反復の際にその都度前者は「歌い方」を、後者は奏法・音色(やちょっとした音の動き)を微妙に変え続けるのだが、これが旋律の呪文のような(それこそもう一歩誤るとうんざりさせられてしまうその寸前で踏みとどまっている)反復に不思議な奥行きを与え、ドラマを生み出す。作曲者自身がプログラム・ノートに記した作品の構想の成否はともかく、聴いていて面白い作品であり、作曲者の技の冴えに唸らされる。ただ、敢えて言えば、そこでは箏と三味線はあくまでも「素材」に過ぎず、作品の本質的な部分でそれらの楽器が十分に活かされてはいない(これは1人山根だけではなく、邦楽器を用いる西洋音楽の作曲家が抱える難問である)ように感じられた(たぶん、この作品の構想は、西洋楽器の小さなアンサンブルによっていっそうよいかたちで実現できるのではなかろうか?)。が、それはそれとして魅力的な作品を聴かせてくれた作曲者には感謝。

さて、最後は私にとっての今日の本命、「壇浦兜軍記  阿古屋琴責の段」である。これは期待通りの見応えある舞台だった。ところが、自分は文楽をまだ見慣れていないので、ここでは「とにかくすばらしかった」としか言えない(桐竹勘十郎の人形遣いや豊竹呂勢太夫の語り、そして、他の演者たちの芸に魅せられてはいても、それを具体的に述べる語彙と表現を私はまだ手にしていない)のが残念(ただ、1つ「おやっ?」と感じたことがある。それは国立文楽劇場で文楽を観(聴い)ていたときに比べ、随分楽器の音が大きく聞こえたことだ。これはホールのすばらしい音響特性のゆえだろうか? だとすると、太夫の声も同様により大きく聞こえるはずなのだが、なぜか私には楽器の音の方が大きく、場合によっては太夫の声を覆い隠してしまっていたように感じられたのである。他の聴衆にはどのように聞こえていたのだろうか?)。

ともあれ、全体としてまことに充実したすばらしい演奏会だった。今回の演者の方々、作曲家、そして、演奏会の企画・運営に関わった方々に心から御礼を申し上げたい。

2025年8月22日金曜日

高橋悠治の名盤が復活していた

  私が少年時代にLPで愛聴していた名盤がCDでいつの間にか復活していた。それは高橋悠治のアルバム『シーズンズ』(https://kojimarokuon.com/products/alm-14)。ジョン・ケィジとJ. S. バッハの作品を収めたライヴ録音盤である。選曲・演奏ともにまことにすばらしい。中でもケィジの《四季》は珠玉の名曲であり、彼の音楽をあまり知らない人でもたちまち魅了されることだろう。また、バッハのトッカータハ短調BWV911の演奏もまことにスリリングであり、私はいまのところこれ以上に面白い演奏を知らない。

演奏は1974年のものだというから、およそ半世紀前だということになる。私が聴いていたのは1980年代前半だが、それでも40年ほど前である。とにかく、この盤が好きで繰り返し聴いたのだが、そのうちLPやそれダビングしたカセット・テープを再生できる機械を手放してしまったので、長らく「お別れ」の状態が続いていた。だが、今回のCDによる復活のおかげでこの名盤に再び触れることができるようになるわけで、とてもうれしい(まだ購っていないが、近いうちに是非!)。未聴の方も是非、お試しあれ。

2025年8月15日金曜日

マーラーの第9交響曲のすばらしいピアノ独奏版

  昨晩、たまたま次のものを見つけた:https://www.youtube.com/watch?v=RscXoTm75n8&list=RDRscXoTm75n8&start_radio=1。マーラーの第9交響曲のピアノ独奏版である。これがまことにすばらしい編曲なのだ。

まず、原曲のかなり複雑なポリフォニーを巧みにピアノで再現している。元のスコアの「眺め」と比べてこの編曲の譜面(ふづら)はかなりすっきりしているが、実際の鳴り響きは不足感を微塵も起こさせない。

のみならず、ごく自然なピアノ音楽に仕上がっているところがすごい。もちろん、そのための工夫を編曲者は随所で行っている。たとえば、上の動画の第4楽章冒頭数小節をごらん(お聴き)いただきたい(58’12”から)。原曲は弦楽器で奏でられる箇所だが、スコアの音をそのままピアノに置き換えるだけでは、ここは何ともしまらないことになってしまう。というのも、ピアノは「打楽器」なので一度出した音は減衰するしかなく、弦楽器のように長く延ばす音は出せないからだ。そこで、この編曲者は動画の楽譜に示されているような処理を施すわけだが、うまいものである。

さらにいえば、上の動画は編曲者イアン・ファーリントン(https://www.iainfarrington.com/)自身による演奏だが、これがまたすばらしい(もっとも、よく聴くと、なんだか自動演奏ピアノを用いているように聞こえなくもない。が、仮にそうだとしてもその音楽づくりはきちんとしている。なお、同氏のピアニストとしての能力の高さは次のものからわかる:https://www.youtube.com/watch?v=VcYFns8nito&list=RDVcYFns8nito&start_radio=1)。この人はマーラーの交響曲を第8と《大地の歌》を除いてすべて編曲し演奏しているが、(つまみ食い式に聴いた限りでは)そのどれも見事だ(それらはすべてYouTubeで公開されているし、楽譜も出版されている(https://www.ariaeditions.org/store/c3/Piano_solo.html))。

 

今日は81回目の終戦の日。やはりいろいろなことを考えさせられる日である。

2025年8月13日水曜日

岩井克人『経済学の宇宙』に深い感銘を受ける

  たまたまご近所図書館で手にした岩井克人『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社、2015年)を読んでみたが、実に面白い。著者が主流派たる「新古典派経済学」から離脱し、古典との対決を通して独自の理論――たんなる「経済学」に留まらない「人間科学」――を構築していくさまはまことに感動的なドラマだ。同書刊行の2015年から10年が経っているわけだが、その後、著者の思索はどのように進展したのだろうか。是非とも知りたいものだ(ただし、私のような門外漢にもわかるようかたちで書かれたものによって)。

同書でとりわけ印象深かったのが、ある時期以降の著者にとって「倫理」の問題が重要なものとなっていたことである。それは現在の世界を席巻している新自由主義――この国をも蝕んでいる恐るべき思想――ではおよそ顧みられない問題だけになおのこと。

もっとも、別のところでこの著者が20117月の時点で「法人税減税」や「消費税増税」を支持していた(浜田宏一『21世紀の経済政策』、講談社、2021年、173頁)のには正直驚いた。その後2回行われた消費税増税はこの国の景気に大きな打撃を与えているわけだが、そのことについて著者の見解を聞いてみたい気がする。

ところで、毀誉褒貶の激しいMMT(現代貨幣理論)だが、支持派と反対派両者の言い分を見比べる限りでは、前者に分があるように思われる(前掲書『21世紀の経済政策』の著者――新自由主義に与する人――でさえ、MMTのことを「その社会的役割を考えると、日本のように財政バランス墨守という財務省的見解が旧来からマスコミに刷り込まれている社会には、解毒剤として望ましいと思う」(同書、612頁)と述べているのだ)。もちろん、私は経済学理論にはど素人だが、少なくとも「失われ30年」を現出させた実績を持つ「財政規律」とやらを重んじる政策――アベノミクスはそれとは異なるものだったにしても、結局、大勢を変えるに到っていないのではないか――(とその担い手たち)を信じることはできない。

今、不景気な世の中にはまことに不穏な雰囲気が漂っているが、為政者には「衣食足りて礼節を知る」 という格言をよくよくかみしめてもらいたいものだ(なお、ヒトラーのように経済施策によって国民の心を掴んだ人もいるので、現在この国で積極財政を政策として掲げる政治家であっても、その他の面についてはよくよく用心する必要はあろう)。今日は柄にもないことを述べたが、たまにはこんなことも……。

2025年8月8日金曜日

マデルナの名作《コンティヌオ》

  ブルーノ・マデルナ(1920-73)の名作《コンティヌオ》(1958https://www.youtube.com/watch?v=NkjaBbJSaWQを久しぶりに手持ちのCDで聴いてみたが、やはりすばらしい。昔々の電子音楽なので「手づくり感」が色濃くあるが、そこがまたよい。当時用いることのできたごく限られた手段を最大限に活用した作曲者(と技術者)の想像力・創造力に感服するばかり。とにかく、音のドラマとしての説得力は抜群だ。とりわけ暗闇の中で聴く場合には。

 ちなみに、私がこの 《コンティヌオ》を初めて聴いてのは1980年代後半。すると、当時、それはまだ「少しばかり昔の」作品であり、それほどレトロ感はなかった。が、それからおよろ40年も経つと「昔々の」ものとなってしまい、感じ方も変わってくるわけだ。では、今日の若者がこの作品を初めて聴くときにはどのように感じるだろうか?

2025年8月4日月曜日

これは凄い!

  これは凄い! 日本の電子音楽研究の大家、川崎弘二氏の新著である:https://www.filmart.co.jp/books/nhk_music/。あまりに高価なのですぐには手が出せない(ので、たぶん、まずは夏休み明けに大学の図書館で借りて読むことになるだろう)が、いずれ是非とも購いたい。

 少年時代に私はNHK-FM「現代の音楽」を愛聴していたが(現在の同番組はほとんど手抜きだとしか言いようがない。残念)、そこでは同局の電子音楽スタジオ制作の作品がいろいろ取り上げられていた。もちろん、そのすべてが名作・傑作だったわけではない。が、とにかく新しい何かが生まれてくるのに立ち会っているという実感が当時はあった。

 今となってはNHKが電子音楽を積極的に制作していたことは歴史の一齣となった。だが、今「現代の音楽」に(愛好者も含めて)関わる者にとって、それを顧みることには十分な意味と意義があるように思われる。