2025年10月28日火曜日

Palette Concert Series〜たおやかなる和の調べ〜

  先週出かけた演奏会の2つめは「Palette Concert Series〜たおやかなる和の調べ〜」(於:原田の森ギャラリー(神戸市)別館401号室:https://www.kobe-bunka.jp/c/music/18786799/)。

これは出演者の1人、青山理紗子さん(私の授業のかつての受講生)からご案内いただいたものなのだが、実に楽しかった。

 演目は次の通り:

 

前半

 武満 徹:小さな空/『他人の顔』より ワルツ ①②

 連 一矢:3つの小品 ②

 湯山 昭:『お菓子の世界』より バウムクーヘン ②

 湯山 昭:歌曲集『カレンダー』 ①②

 

後半

 平井 康三郎:幻想曲『さくらさくら』 ③

 大澤 壽人:富士山 ②

 八村 義夫:ピアノのための即興曲 ②

 伊福部昭:ピアノ組曲 ③

 

演奏者:①野尻 友美(歌)、②青山 理紗子(ピアノ)、③藪内 弥侑(ピアノ)

 

硬軟取り混ぜた、しかも、巧みに配列された選曲であり、楽しいだけではなく、聴き応えも十分で、「ああ、よいものを聴かせたもらったな」としみじみ感じた次第。「邦人作品」を集めた演奏会となると、妙に気張った選曲か、逆に親しみやすそうな作品だけで固められた気の抜けたようなものが目に付くのだが、この演奏会はそうではない。気張ってはいないが十分に気が遣われた、すてきな演奏会だった。

 前半の演目はいわば「おしゃれ系」である。最初の演目「小さな空」はその幕開けとして巧みな選曲である。続く連作品はジャズなどに取材したものであり、湯山作品はフランス近代の流儀によるもの。いずれもとっつきやすいものだが、決してeasyではなく、充実した音の世界を繰り広げていた。

 後半は「和の調べ」ということ強く感じさせる作品が集められており、それぞれに味わいのあるものだった。面白いのは、いかにも日本的な、しかもどちらかといえば穏健な作品の中に1つだけ八村義夫の前衛的な作品が含まれていたことだ。この曲を選んだ青山さんは演奏に先立って、同曲に感じられる「和」の要素を説明していたのだが、それを聞いて。「なるほど」と思い、さらに演奏を聴くと「ごもっとも」と思わされた。そして、この八村作品が続く伊福部作品をいっそう効果的なものにしているように感じられたのである。

 演奏はいずれも自分が選んだ作品への愛に満ちたものであり、聴いていて気持ちがよかった。また、先の八村作品のみならず、他のすべての作品について演奏者による、ありきたりではない、自分の言葉できちんと音楽について述べたトークがあり、それもこの演奏会の重要な構成要素であったと思う。

 ともあれ、いろいろな意味で楽しい演奏会で、とても幸せな気分になれた。演奏者(=企画立案・実行者)の方々に心からの御礼を。

2025年10月26日日曜日

京都市立芸術大学現代音楽研究会club MoCoの第4回定期演奏会

  今やほとんど演奏会に出かけることのなくなった私だが、先週は珍しくも2日連続で。今日話題にするのはその1つめについてである。それは何かといえば、京都市立芸術大学現代音楽研究会club MoCoの第4回定期演奏会だ(https://club-moco-kcua.com/20240825-2)。

今年生誕100年を迎えたピエール・ブゥレーズに因む選曲で、演目は次の通り:

 

イーゴリ・ストラヴィンスキー 《七重奏曲》(1952-1953)

アルバン・ベルク 《室内協奏曲》(1923-1925)

 

ピエール・ブーレーズ 《デリーヴ1 (1984)

フィリップ・マヌリ 《ある自画像のための断章》(1998)

 

選曲のコンセプトなどについては上記リンク先をご覧いただきたいが、まことに充実したプログラムである。

 実は私のお目当てはブゥレーズではなく、このところすっかりハマっているベルク作品。これが実演で聴ける貴重な機会を逃す手はない。そして、演奏はその期待に十分に応えてくれるものだった。独奏ヴァイオリンの豊嶋泰嗣は実に見事だったし、独奏ピアノの二俣菜月も好演だった。そして、共演の管楽アンサンブル、そして全体をまとめる指揮の森脇涼もまた。欲を言えば、もう少し「妖しい」響きがしてもよかったと思うし、「このパートがもう少しよく聞こえればなあ」と感じる箇所もないではなかった。が、彼らの演奏はこの名曲の魅力を十分に味わわせてくれるものだった(ストラヴィンスキーの作品も同様。ただ、それを聴きながら、「もしかしたら、このホールは楽器間の音量バランスを取るのが些か難しいホールなのかもなあ」と感じもした)。

 今回取り上げられたブゥレーズ作品は1984年の作で、私は元々、1970年代以降の彼の作品をさほど好んではいなかった。が、少し前に録音をいろいろと聴き直してみたところ、以前とは感じ方が変わってきたようで、それなりに楽しく聴けるようになっていたので、今回は果たしてどうなることかと期待半分、不安半分。幸い、演奏のよさもあってか、作品の響きの美しさのみならず、音楽のドラマもそれなりに楽しめたのは幸いである。やはりブゥレーズは一流の作曲家だということなのであろう。

 最後のマヌリ作品だが、これは残念ながらあまり楽しめなかった。それには私個人の聴き手としての資質も少なからず関わっていよう。すなわち、私の耳は大音量や刺激的な音が長時間続けられることへの耐性があまりないのだが、今回のマヌリ作品はまさに私の耳の限界を超えるものだったのである(ドームでのライヴの「爆音」を楽しめる人ならば、また違った聞こえ方がしたかもしれない。他の人の感想を聞いてみたいものだ)。それゆえ、ここでこの作品や演奏についてあれこれ述べるのは止めておきたい(ただ、音楽の構成が――40分ほどの演奏時間も相俟って――かなり冗長に聞こえたことだけは言っておこう)。

 ともあれ、演奏会としては実に聴き応えのあるものであり、このような会を実現させた演奏者及び関係者の方々へは「よくぞやってくださいました!」と感謝の言葉しかない。とともに、先立つ3回を聴き逃したことが悔やまれる。次回の第5回が今から楽しみでならない。

2025年10月23日木曜日

ヤブウォンスキ氏のコンクール(の参加者)批判に思うこと

  ショパン・コンクールも気がついたら終わっていた。まあ、私には全く興味がないのだから仕方がない。が、たまたま知った、1人の審査員の言葉にはいろいろと考えさせられるところがあった(私はそれを次のところで読んだ(:https://chopin-ongaku.com/krzysztofjablonski/)。

その審査員、クシシュトフ・ヤブウォンスキの見解は「演奏=作品解釈」だとすればまさに正論である。そして、その点で昨今の演奏家とその教育には批判されるべき点があるのは確かだ。

しかしながら、そのことを十分に認めた上で次のように考えることもできよう。すなわち、「演奏とは演奏者の創意や技芸を発揮する場であり、作品はその土台となるものにすぎない」とすれば、ヤブウォンスキ氏の批判は的外れだということになる、と。氏と彼が批判するピアニストは、いわば「同床異夢」の状態にあった、あるいは「同じ場で異なるゲームを営んでいた」というわけだ。

もっとも、こう言うと、「だからといって、若きピアニストたちの所行が許されるわけではあるまい。それはやはりああした伝統を重んじる場ではふさわしくないものなのではないか」と反論されるかもしれない。なるほど、昔々のピアニストたちの演奏が「楽譜に忠実」で「作曲家の意図」を実現しようとしたものだったのならば、そうした反論は妥当だと言えようが、事実はそうではない。つまり、種々の文献や録音が教えてくれるのは、昔のピアニストの演奏が「作品解釈」に尽きるものではなく、多分に「創意や技芸を発揮する場」だったということである。だとすると、今日のある種のピアニストたちの演奏ぶりは批判されるにあたらない(どころか、ある面で「伝統」を踏まえたものだということになる)。

とはいえ、20世紀に「演奏=作品解釈」という考え方が西洋芸術音楽の世界で支配的になっており、今日でも基本的には替わっていないのは確かだ。それゆえ、ヤブウォンスキ氏があのようなことを言うのは当然といえば当然のこと。だが、これからの西洋芸術音楽の「生き残り」のためには、従来の伝統を重んじるだけではなく、氏が嘆くような演奏のありようについても真剣に向き合ってみる必要があるのではないだろうか。その点で氏の批判は(本人の意図はともかく)「演奏」というもののあり方を問い直す議論を喚起するという意味でまことに有益なものだったと思われる。

 

 なお、それはそれとして、「ショパンの音楽を正しく守り、演奏の様式を次世代に伝えること」が大切だというならば、そもそもコンクールなどというものは止めにした方がよかろう。それよりもむしろ教育や啓発活動にもっと力を注ぐべきではあるまいか。

 

 ところで、ヤブウォンスキ氏が言う「演技的演奏」への批判(「目を閉じれば何も感じないのに、目を開ければ劇場が始まる。これは音楽ではありません」)には大いに頷ける。身体や手を過度にくねくね動かしたところでよい演奏ができるわけではない(し、まことに見苦しい)。

2025年10月20日月曜日

メモ(150)

  神ならぬ人は無から有を生み出すことはできない。ゆえに、何かを創りだそうとすれば、既存のものから何かしら学ぶ必要がある。が、その際、最初はお手本をコピーするくらいのつもりでやらなければならないが、いずれはそこから離れなければならない。また、いくらお手本にすべきものが多くあるからといって、何でもかんでも吸収すればよいというわけではない。自分なりに取捨選択ができなければ、独自のものなど生み出せるはずもない。世の中には何でも知っていて何でも器用に真似できる人というのがいるものだが、そうした人には真の意味での創作は無理なのではないか? [追記:音大作曲科の入試でのこと。ある受験生に対して伊福部昭はこう問うた――「あなた、嫌いな作曲家や音楽がありますか?」。それへの答え――「いえ、特にありません。なんでも抵抗なく聴けるほうです」。すると、伊福部はこう断じたのである――それは、お気の毒だな、嫌いなものが無なければ自分の曲は書けない。本物の作家は嫌いなものだらけですよ」(西村朗『曲がった家を作るわけ』、春秋社、2013年、94頁)] 

私は作曲家ブゥレーズの熱烈な支持者というわけではない(もちろん、好ましく感じている作品もいくつかある)が、彼が過去の作曲家の業績をまことに「選択的」に読み解くさまは紛れもなく一流の創作者のものだと思わずにはいられない。

2025年10月15日水曜日

メモ(149)

   ドビュッシーの 《前奏曲集 第2巻》をしげしげと眺めていたら、その譜面(ふづら)の独自の美しさに魅せられた。極端なことを言えば、実際の音抜きでもそこには美的な価値があるように感じられたのである。

20世紀後半の「前衛」作品の楽譜にもそうした「美しさ」を持つものがいろいろとある。が、その中には「楽譜としては美しいが、実際の鳴り響きはいただけない」ものが少なくない。その点、ドビュッシーの楽譜は見た目も、そこから生まれる鳴り響きもすばらしい。

2025年10月10日金曜日

『心中天の網島』を観に

 昨日は『心中天の網島』の「北新地河庄の段」「天満紙屋内の段」「大和屋の段」「道行名残の橋づくし」を観る(聴き)に妻とともに国立文楽劇場へ(https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2025/7/)。まだまだ初心者なので表面的なところしかわからなかったにしても、やはり楽しかった。「心中もの」ではあるが、主人公の紙屋治兵衛のあまりの「クズ」ぶりにはただただあきれ果てるばかり(予習して知ってはいたものの……)。むしろ、彼の妻や心中の相手が不憫でならなかった。もちろん、作者はある意図の下にこうした筋書きにしたのだろうが、当時の観客はこれをどう観たのだろうか?

私にはまだ演者ごとの芸風の違いはわからないが、それでも「北新地河庄の段」の後半で太棹が最初の一音を奏でたとき、身震いさせられた。後から確認したところ演奏者は人間国宝の鶴澤清治だったのだが、私のような初心者にさえ何かを即座に感じさせるというのは、やはり芸の力というものだろうか。それをもっと深く味わえるようになりたいものだ。というわけで、これからも折に触れ文楽を観に行きたい。

 

2025年10月8日水曜日

ミヨーの名言

  前回話題にしたミヨーの名言:「音楽には古い新しいの別はない。よい音楽と悪い音楽があるだけだ」(別宮貞雄『音楽に魅せられて』、音楽之友社、1995年、81頁)。

2025年10月6日月曜日

ミヨーの第2交響曲に魅せられる

   ダリウス・ミヨー(1892-1974)の第2交響曲(1944)を久しぶりに聴く(手持ちのCDとは異なる演奏だが:https://www.youtube.com/watch?v=RDHaIPzzYxA&list=RDRDHaIPzzYxA&start_radio=1)。以前は(嫌いではなかったものの)それほど心惹かれなかったのだが、今回は違った。その何とも妖艶で神秘的な響きに驚かされるとともにすっかり魅せられてしまったのである。

 というわけで、これから彼の作品をいろいろ聴き直してみたいものだ。まずは弦楽四重奏曲あたりから(CDを持っているので)。